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月の蘇る
  1
   右手の刃で心臓を突きながら、背後から迫る刃を左の刃で受ける。
   その間に抜いた右の刃が背後の相手の喉笛を割いた。
   残る敵は大きく間合いを取り動き兼ねている。その目に戦意は残っていない。
   あとは俺の仕事じゃない、そう察して踵を返す。もう殆ど正気に返っている。
   最後に追い縋ってきた刃を躱し、振り向きもせずに突き殺した。
   右手側から大軍が雪崩れ込んでくる。残った敵はそれに飲み込まれてゆく。
   その様など見もせず、朔夜は固唾を飲んで待つ面々の元へ帰った。
   もう只管に眠い。
「よくやった」
   桧釐が迎え、差し出した腕の中に倒れ込む。
   支えられ、そのまま肩に担がれる。
   眠る前に一つ訊きたい事があった。
「本当にこれで終わり?」
   龍晶が固い表情でじっと目詰める。
   彼は否も応も言わず、代わりに宗温が口を開いた。
「この戦いで国境線は元に戻ります。朔夜殿、貴方の働きのおかげです」
   知りたいのはこの国の国境ではなく、戦がこれで終わるか否かだ。
   それを問う言葉も気力も無く、朔夜は眠りについた。
「帰るか」
   桧釐が朔夜を担いだまま動き出す。
   宗温が頷いて彼に続く。戦の顛末など見る必要も無かった。
   ただし、龍晶だけは二人に続かなかった。
「殿下」
   桧釐が呼ぶ。
   龍晶は応えず、戦の光景を目に映している。
   以前、あんなにも自分達を苦しめた敵が、この壬邑で呆気なく瓦解してゆく。
   追い詰められたあの城の中で、ここに朔夜が居れば、話に聞く人外の力が使えればと心底思った。
   その願い通りの事が今、目前で繰り広げられ、最早それも終わろうとしている。
   なのに、何故。
   何故こんなにも苦しいのだろう。
   敵は滅び、俺は生き残った。なのに。
「殿下」
   宗温がすぐ隣まで戻って来て呼び掛けた。
   ああ、と上の空の返事をして歩き出す。
   これは俺が行くべき方向だろうか?
「…終わりには、なりませぬな…」
   宗温が独り言のように呟いた。
   龍晶は無言で頷く。
   次なる地獄が待っている。

   僅か半年という期間でこの壬邑の国境線は戔が奪い戻した。
   哥としては何もかも予想外の戦だろう。漸く敵国の本軍を引っ張り出し、戦らしい戦をして戔の中心部に攻め込む筈が、たった一人の子供にそれを阻まれた。
   そしてまたこの地に逆戻りである。
   その感慨は龍晶も同じだった。
   何も変わらぬかの様にこの川は流れている。
   あれだけ多くの血をここに流した事など素知らぬ振りで。
「何だったのだろうな、この半年は」
   川辺に佇んで龍晶は後ろに控える宗温に問う。
   その更に後ろには、あの城が聳え立っている。
   変わらぬ光景。
「北州に被害が及ばずに済み、何よりではありませんか?」
   宗温の優等生らしい答えに、龍晶は苦い顔をした。
「それはそうだが…」
   言っても栓の無い事を敢えて言葉にすべきか迷って。
   だが、この相手には言いたかった。
「この地で散った、お前の部下達を失わずに済ませられたと…俺にはそう思えてならない」
   宗温は。
   ふっと、哀しげに微笑んだ。
「酷い戦をしましたね、我々は」
   それは指揮官だった彼の飾らぬ実感だろう。
   仲間を死に追い遣るだけの戦だったと、決して口には出来ぬが解っている。
「済まなかった。…今更だが」
「殿下が謝る事ではございません」
「いや…この地に散った兵にはそう言いたいんだ。例え俺だけの責任ではなくとも、この国の主の血を引く者として」
   この国の為に散った人々の為に。
   否、この国の引き起こした戦によって殺された人々の為だ。
   国の為と自分が勝手に考えてしまうのは、あまりにおこがましい気がした。
「あの戦が無ければ、朔夜殿も記憶を失う事はありませんでしたね」
   宗温は気を遣って朔夜を出してきたのだが、龍晶はそれに応える気にはならなかった。
   記憶を失った、その事実が無ければこの勝利も無かったかも知れない。
「…あの力を最初から使えていれば、人命もこの半年も無駄にせず済んだ。そういう事だ」
   言い捨てて対岸を睨む。
   あの場所で、あの夜、朔夜が力を使っていれば。
   責めるべきではないと言われるだろうか。だが、お陰で失ったものは大きい。
「我々は戦に命を懸ける事を無駄とは思うておりませぬ」
   穏やかだが毅然として宗温は言い切った。
   龍晶も己の失言に気付いた。散った命に対して無駄とは礼を欠くにも甚だしい。
   彼らは誇りを抱いて逝った。それは知っている。
   それでもずっと、割り切れない何かが己の心の中で澱の様に溜まっているのだ。
「済まぬ。だが、俺は救える命は救いたかった。綺麗言でしかないかも知れないが…」
   言葉を詰まらし、もう一度「済まぬ」と謝罪する。
   宗温は優しく微笑んだ。
「そんな殿下のお人柄ゆえ、彼らは殉じる事を躊躇わなかったのです。これは皮肉ではありません。どうか、あなた様はそのままのお人で居て下さいますようお願いいたします。それが彼らへの何よりの供養です」
「…そうか」
   川の流れへ目を落とす。
   彼らの思いは解った。それに応えたいとも思う。だけど。
   宗温を振り返り、哀しく微笑った。
「俺は彼らを救う為なら悪魔よりも悪に染まる。そう決めた。俺に付いて行けぬと言うならそれで良い。それで一人でも生き残るなら」
   今生きる者を生かしたい。これは責務だ。
   この場所で戦死した彼らから学び、その死をも生かせる術は、それだけだと思う。
   宗温は暫し口を閉じ、そして告げた。
「私は付いて行きます」
   龍晶は黙して頷いた。

   朔夜は暇を持て余して城の中を歩き回っていた。
   まだまだ日は高く、部屋に閉じ籠っているのもつまらないし、桧釐も龍晶も見当たらない。
   二人を探してみようと思い立ち、しかし別に何の用がある訳でもなく、寧ろ歩き回る事が目的になっている。
   以前に滞在した事がある城だとは聞かされた。言われてみればそんな気がしないでもない。だが何も思い出せない。
   角を曲がったその何でもない光景に、一瞬既視感に似たものを感じる事もある。だがそれ以上記憶の綱を辿る事は出来ない。
   地表に突如開いた暗く深い穴を覗き込むような、そんな気持ち悪さを抱いて思い出す事を止める。
   記憶の無さを裏付けるように迷ってしまった。無論、そう大きな城内ではないので闇雲に進んでも何処かには通じる。
   だが、今見える光景に、朔夜は抗い難い興味を抱いて見知らぬ方向へと足を向けた。
   暗がりの中へ沈んでゆく階段。元々装飾の少ない城だが、そこだけ更に武骨に岩壁が露わになっている。
   階段へと足を踏み入れた途端、空気が冷たく変わった。
   足を止める。とても不気味ではある。だが、この先を見てみたい好奇心もある。
   何より、何かーー地表に空いた深い穴の中をとうとう見てしまうような、そんな感覚があるのだ。あの暗がりの底を、ついに自分の目で見てしまうような。
   それが失った記憶に関係があるのかは分からない。だが、遠くない気がする。
   朔夜は更に階段を下った。
   何とも言えぬ異臭がしてきた。眉を顰めながらも、もう引き返す気にはならなかった。
   見えてきたのは、鉄格子。
   牢屋だと、すぐに解った。
   人の気配がある。それも、少なくはない。
   これ以上進むか躊躇った。牢の中の人にどう思われるのか、怖くもあり、矢張り引き返そうかと思った。
   それでも、足は前に進んでいた。
   中に居るのは誰なのか。ただの好奇心では無かった。他人事と思えなかったから。
   王城では牢の中で過ごした。それは自分が化物だからだと解ってはいる。
   でも、寂しかった。惨めだった。
   同じ思いをしている人が居る。そして今自分は牢の外だ。
   何か出来ないだろうかと思った。
   自分も、牢屋の中で、誰かが来ることに期待していた。
   通路の両脇に並ぶ鉄格子の、その中が見えた。
   武装を解かれた兵士達が、白い目をこちらに向けている。
   捕虜だ、と声を上げそうになるのを慌てて押さえた。
   己の経験上でそれは判った。
   つまり、ここに居るのは敵なのだ。
   俺が殺し損ねた人たち。頭の片隅での呟きが、ついに足を止めた。
   この人たちは、俺がどう見えるのだろう。
   俺はこの人たちを、どう見れば良いのだろう。
   捕虜達は騒ぐでもなく罵るでもなく、ただ朔夜を見据えている。
   隣の者に何か囁く。その言葉は分からない。
   何かに操られるように通路を歩く。痛い程に心臓が高鳴る。
   鉄格子に向き合って。
   中には五人ほどの捕虜。中には幼い少年も居る。
   何か言うべきだろうか。だが、言葉は通じぬし、何を言うべきかも分からない。
   逡巡したその瞬間、全く別の感覚に捉われた。
   鉄格子の中から見詰めているのは、自分だ。
   誰を見ている?
   ここは何処だろう。
   俺は何をしたのだろう。
   何か、とてつもなく悪い、大きな事を犯してしまったーー
「何をしている!?」
   怒鳴る声が遠い。
   見張りの兵が駆けつけ、ぐっと腕を引かれた。
   自分でも気付かないうちに座り込んでいた。息苦しい。触られる感覚も遠い。
   兵士はそれが誰なのか、ぎょっとした顔をして気付き、後から駆け付けた仲間にこの場を任せて立ち去った。
   朔夜は鉄格子に頭を持たせかせる体勢で必死に呼吸を繰り返していた。冷汗が顎からたらたらと落ちる。
   視界が歪む。見えているのは現実の景色なのか、過去の残像なのか。色彩を失い、ぼやけ、白い点が明滅する。
   俺は牢の中に居る。
   誰かが近づく。
   この鉄格子の向こうから、見下す、あれは。
   許してください。そう請わねば。
   俺は取り返しのつかない事をしたーー
「朔夜!」
   背後から強い力で抱き起こされ、漸く見える景色が現実のものとなった。
   桧釐だ。まだ視界はぼやけているが、心配そうに覗き込まれているのは判った。
「大丈夫か?」
   何か言わねばならないが、感覚が痺れて口が上手く動かない。
「とにかく出よう。捕まれるか?」
   手に力が入らない。それを察して桧釐は朔夜を両手に抱いて地下牢を後にした。
   上階の部屋の、朔夜の使う寝台まで運ぶ。
   寝かせる。顔色は悪く、目はどこか遠くを向いている。
   まるで、意識だけ違う世界に迷い込んでいるように。
「朔夜」
   そっと、呼び掛ける。
   途端にびくりと体を震わせ、両手で顔を覆って悲痛な声を上げた。
「ごめんなさい…!ごめんなさい!許して…!もうしないから…何でもするから…だから」
   俺は、誰を殺した?
   誰を?
「落ち着け!お前は何もしてない!」
   桧釐に肩を揺すられ、謝罪の言葉を途切れさせて、手を浮かせる。
   己の荒い息の音。この数日見てきた天井。
   色彩は戻ってきた。今まで通りに世界が見える。
   恐る恐る、桧釐に目を向ける。
   真剣な、そして心配そうな顔。
「思い出したのか?」
   思い出す?
   何を?
   怖い。それを考えるのは、とても怖い。
   朔夜は首を横に振った。
   闇の中にあるものは、見てはいけない。
「そうか…」
   桧釐は少し落胆したようだった。
「ごめんなさい」
   自分が悪い事をしている気がして、小さく謝った。
「いや、悪いのは俺だ。記憶を戻す事を焦らせるつもりは無いんだ。ただ、期待しちまって」
「思い出した方が良い?」
   今までほど気楽な問いでは無かった。消え入りそうな声で。
「俺はどっちでも良いよ。お前の記憶だから」
   うん、と小さく頷く。
「龍晶は俺が何をしたか知ってるんだよね?」
「え?」
   急な問いに桧釐は声を詰まらせた。
   それは、正直に答えてやって良いものか。判断し兼ねる。
   朔夜は桧釐からの明確な答えなど求めず、問いの理由を口にした。
「俺は何かとんでもなく悪い事をしているから…それで、思い出させたくないんだ。きっと」
   矢張り桧釐には否も応も言えなかった。
   それは半分は事実だろう。だがもう半分は、決して朔夜には言えない事情である。
   それよりも、朔夜がその「悪い事」をどこまで認識しているのか、それが気がかりだった。
「悪い事をしたってどうして分かる?…いや、お前は何もしてないけどな、俺の知る限りでは」
「嘘だ。人を殺すのは悪い事だよ」
「それは…戦だから」
   言葉尻を濁す。これは当然の理論である筈だ。だが、面と向かって問われると確信が揺らぐ。
   手を汚した張本人が悪だと言い切る。ならば、桧釐は否定してやらねばと思い直した。朔夜一人が罪を背負う事になる。
「ただ人を殺すのと、戦で敵を殺すのは違う事だよ、朔夜。お前は何も悪い事なんかしてない。それでも悪い事をしたと言い切れるのは何故だ?さっき地下牢で思い出したものは何なんだ?」
   話を摩り替え、元に戻す。
   訊いてはならなかったかも知れない。だが、だいぶ様子が落ち着いたのを見計らって桧釐は訊いた。
   彼の見ていたものは何だったのか。
「…分からない。俺は牢屋の中にいた」
「中に?」
   意外な程落ち着いて返された答えは、しかし知りたかった答えではなかった。
「牢屋に閉じ込められていたから、悪い事をしたんだ」
「…それだけ?」
「うん…。誰か来て、謝らなきゃって思った。そしたら桧釐だった」
「何だよ、人違いか?笑い話じゃないかよ、心配させやがって」
「へへ。ごめんなさい」
   気恥ずかしそうに笑う額を小突く。
   だが、本当は全く笑い事では無い。
   きっと、強烈な罪の意識だけは脳裏に焼き付いているのだ。そうでなければあんな錯乱状態にはならない。
   笑う朔夜はそれを誤魔化す為の演技で、本当にタチの悪い子供だなぁと苦笑いする。
   哀れだった。
   大人に見放されない為に、傷付いた本心をひた隠しに隠して。
   額から、頭をくしゃりと撫でる。
   少し不思議そうに見上げる。でも何も言わず、何処か怯えたような目で。
   大丈夫だ、見捨てなんかしない。そんな安い約束など出来ない。この先どうなるかも分からないのだから。
   だが、側に居られる限りは居てやろうとは思った。精神的に、年相応に戻るまでは。
「強くなれよ」
   朔夜は少し考え、うん、と素直に頷いた。
   よし、と立ち上がった背中に、朔夜は訊いた。
「あの捕虜の人たち、どうなるの?」
「え?ああ…」
   それは気になっても致し方無いだろう。
   以前は自分が捕虜の立場で、随分と酷い目に遭ったのだから。
「何もしないよね…?」
   懇願するような訊き方に、桧釐は困って頭を掻いた。
   無事など約束できよう筈が無い。それでは捕虜の意味が無い。
   それよりも問題は、朔夜が捕虜に感情移入してしまう事だ。
   非情でも敵を殺す為の嘘を用意した龍晶の気が少し解った。
「お前が心配する必要は無いからな?今日見たものは、忘れろ。そうすれば、殿下には黙っておいてやるから」
   眉根を寄せてこちらを見てくる。この幼い精神で大人の事情を理解しろと言う方が無理だ。
「龍晶が知ったら怒る?」
「だろうな」
「うん…でも、俺が怒られるより、あの人達が酷い目に遭わないかの方が心配だから」
   駄目だ。丸切り通じない。
「お前が優しいのはよーく分かるけどな…」
   苦笑いで続く言葉が潰れる。
   桧釐は考え直した。これほどまでに捕虜の心配をするのは、そこに自身の痛ましい経験があるからだ。
「お前のようにはならないよ。俺達の軍は哥のように下等じゃない」
「…本当?」
「そもそも、お前を痛めつけたのは奴らと同じ哥の連中だろ?お前は心配するどころか、怒ったって良いくらいだぞ?」
「うーん…」
   幼稚な優しさは時として人を苛立たせる。
   桧釐もまた、これは埒が開かないと思い部屋を去る素振りを見せた。
「もう、嫌だな…」
   小さな呟き。
   何が、と問うのも面倒だった。否、問うて返ってくる答えを、自分の中で理解し受け入れる事が。
   誰もが目を瞑っている戦の矛盾に、朔夜は純粋な眼差しを向け始めているのだ。
   これがはっきりとした理論にされた時にどうなるのか。
   とにかくこの場はただの呟きで終わらせるべく、桧釐は部屋を後にした。


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