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月の蘇る
  1

  『――朔に出ずる月には
        神の力が宿る――』


 それは死産だった。
 響く筈の産声は、それを待ち焦がれた人々の啜り泣きに変わった。
「お気の毒です…」
 取り上げた産婆が、小さな亡骸を母親の腕に戻す。
 血の色の無い小さな腕は、壊れた人形の様に垂れ下がった。
 その様を見るに堪えず、男は一人、やりきれない思いで外に出た。
 戸口に持たれ掛かり、煙草に火を点ける。
 予想はしていた。余りに難産だった。覚悟なら出来ていた――
 否。父親なんざ、自覚が無いだけで。
 悲しみは薄い。淡々と現実を受け止める。煙を吸って吐くように。
 ふと。
 咲き誇る老桜の天高く、白銀に輝く丸い影を見た。
 それは吐き出した白煙に紛れて。
「――なぁ」
 屋内の面々に声をかける。
「今日は…何日だ…?」
 産婆や手伝いにやって来た村の馴染み達は、怪訝な顔で男を見上げる。
「それがどうした?日が変わったから今日は弥生の一日だ」
「そうだよな…。いや…」
 目の錯覚だったか。
 今宵は朔(ついたち)、すなわち新月だ。
 月の新たに生まるる日。
 再び見上げた時には、既にその影は無かった。
 風に巻き上げられた桜が、闇夜に浮かぶばかりで。
「…赤子が!」
 突然静寂を破った、妻の驚吃した叫び声に、度肝を抜かれんばかりに振り返った。
 だが、本当に息を呑んだのは、その光景にだった。
 永久に動かない筈の小さな腕が、その生を掴み戻すかの様に。
 母親を求めて持ち上げられる手。失われた筈の声が。
 確かに、闇を裂いて響き渡っていた。



 村は、紅蓮の炎に染まっていた。
 赤光を注ぐ月に向け、金の火の粉が舞い上がる。
 混乱。侵略される者の嘆きと、侵略する者の雄叫び。
 少年の耳にはそれすら届かず、ただ一点に視線は吸い込まれていた。
 既に事切れた母親。広がる赤。
「せっかくの上玉が。惜しい事をした」
「ったく、この阿婆擦れが。俺達に刃向かうなんざ、血迷いやがって」
 頭上に聳え立つ侵略者達の下卑た会話も耳に入らない。
 目前は、赤く。ただ、赤く。
「どうする、ガキは?」
「殺すに決まってんだろ。ガキ一人残した所でこの戦乱、残酷なだけだ」
「お優しい事だなぁ。しかし見てみろ、殺すに惜しいお顔だぜ、こりゃ」
 顎の下を持ち上げようと少年に伸ばされた手は、しかし彼に触れる事は叶わなかった。
 男の悲鳴。血飛沫が迸しり、少年の白い顔を染めた。
 腕が、間接より先から、全く切断されている。
「な…なんだ…!?」
 周囲の男達は唖然とその光景を見つめていた。
 腕を失い錯乱する男は、次の瞬間、胸から血を飛ばして、その場にどおと倒れた。
 凍り付く場。男達が息を呑みながら見た、その先に。
 赤く光る、月の刃があった。


 闇の中、白刃が時折きらりきらりと、月の光を受けて煌めく。
 場は静かなものだ。悲鳴すら斬り裂かれ、怒号は恐怖に飲み込まれる。
 累々たる屍の先には、ただ一人の男。
 男というよりまだ子供らしい顔立ちの少年が、全身を返り血に赤く染めながら、舞うような動きで立ち回る。
 彼の味方は今のところ一人も居ない。対して敵は数十人の部隊。勿論、兵士として訓練された、武装した大の男達だ。
 部隊は夜中の奇襲作戦を実行に移すべく、林の中に身を隠していた。
 標的はこの数日で追い詰めた、元より半分に減った敵部隊。疲れ果てているところを一気に殲滅する筈だった。
 が――いよいよ出撃という時、この思いがけぬ刃が現れたのだ。
 最初はただの子供の無謀と、鼻で笑って片付けようとしていた。が、ものの数秒もしないうちに彼らの顔色が変わった。
 誰も、この子供を、斬る事が出来ない。
 事態を把握するより先に味方は次々と斬り伏せられ、今や奇襲どころの話ではなく、いかにして目の前の脅威から逃げるか――部隊は今や散り散りになった。
 それでも刃に捕われた兵士は闘うしかない。振り上げた剣は、虚しく地に落ちる。
 謀って複数で背後より斬り付ける。少年はその中の一方にしか興味を示さない。
 油断だらけの背中に、ついに刃が届きそうになった時、斬りつけていた兵士は突如その場に倒れた。
 同じく二の手に移ろうとしていた兵士の足が恐怖で止まる。
 見えない刃で斬られたかのような――否、そうとしか言いようの無い光景。
 有り得ない。
 恐怖に染まった兵士を少年は一瞥した。
 手にする刀で相手にしていた兵士は既に息の根を止めている。
 一歩、一歩。最後に残った兵士に近付く。
 後退りしながら兵士は、壮絶なまでに美しいその姿に目を逸らす事が出来なかった。
 月の光の如く、淡く輝く銀髪。それに囲まれた顔は、血に汚れていながら、冷たいまでに端正に整っている。
 そこには、これだけの事を成していながら不敵に笑うでもなく、何の表情も無い。碧く沈む瞳は何の感情も映さない。まるで硝子玉のように。
 すらりと伸びた腕。その先に、血の滴る刃――
 急に辺りは騒音に包まれた。
 複数の人間が周りの木立を走り、この場に近寄ってくる。
 小競り合いの怒号。声からして味方が捕まっていると兵士は悟った。敵援軍が到着したのだ。
 しかし自分はこの少年に斬られるより無い、そう観念した、が。
 目前から少年の姿は消えていた。
 忽然と、月が雲に隠れるように――


 敢えて味方の居ない方向を目指し、静寂と闇の中に収まると、少年は木立の影にどさりと身を落とした。
 徐々に鎮まりつつある騒音から、己の呼吸音で耳は塞がれている。
 木立の落とす影よりも視界は暗く、漏れ出ずる望月の光も捉える事は出来ない。
 深い倦怠感。頭で何かを考える、という事すら出来ない。
 樹木と草葉に抱かれながら、少年は暫しの眠りに落ちた。

 目覚めると、あの濃密な闇は取り払われ、朝の冷気が森を満たしていた。
 くらくらとする頭で夜が明けたばかりだと考え、眠り過ぎた事を悔いた。日の光は眩し過ぎる。
 眠気で麻痺していた身体の感覚が戻ってくると、腹の上に置いた右手の下に何か挟まれていると気付く。
 いつもの事だ。何かは見なくても分かる。
 それでも一応、その紙包みを開いた。
 中には麦を曳いて焼いた、一応食い物と言える物と、『即刻帰還セヨ』の文字。
 怠い溜息を落として、頭を抱える。目眩が収まらない。
 それでも無いよりはマシ、と固い固い食糧を一口囓る。当然ながら味は無い。
 咀嚼しながらぼんやり考える。即刻帰還とは、帰ればまた次の任務があるという事だ。
 どんな任務かは考える気にもなれない。どうせまた下賎な目的の、最低な仕事だ。
 そんなものの為に、手を汚して。
 思わず、黒く酸化した全身の汚れに目を落とす。
 ――どんな気分なんだろうな。
そんなものの為に命を落とすというのは――
 昨夜の、恐怖に引き攣る顔が頭を過ぎる。
 はっとして記憶を振り払った。思い出しても息が詰まるだけだ。
 最後の一口を口に放り込み、鞘に納めた記憶すら無い刀を杖代わりに立ち上がる。
 木葉に反射する光も嫌うように俯いたまま、覚束ない足取りで歩きだす。
 それは、昨夜の軽々とした身の熟しとは、まるで同一人物のものとは思えない姿だった。




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あきゅろす。
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