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アンドロメダ(282)




俺の目はいつも半開きだけれど、それでも視力がいいのが自慢だった。それが揺らいできたのに気付いたのは、柳生の表情がわからなくなったからだ。
いままでは見えていた距離から、柳生さんがどんな顔をしているか、どこをみているかが見えなくなった。何曜日のどの休み時間に柳生がうちの教室の前の廊下を通るかを俺は覚えていて、そして実際柳生は通るんだけど、その姿が柳生とはわかるんだけど、手を振っているらしいこともわかるんだけど、目線がわからないのだ。俺に振っているのかも知れないしそうじゃないかも知れない。俺は死ぬほど怖くなって、わざわざ柳生さんを呼びとめたり、ブンちゃんに確認したりした。
一度気付いたらいろんなところに弊害が出てきた。黒板の字が見えない。テレビのテロップも見えない。図書室に並ぶ本の背表紙のタイトルも見えない。いちばん(っていうのは、柳生さんが見えないことの次にってこと)困ったのは、ボールが追えなくなってきたことだった。仲間内なら大体癖を覚えていたからなんとかなってたけど、柳に見破られてこてんぱんにやられて、俺はますます目が見えないことに怯えた。柳は打ち終わったあと、


「眼鏡を作りに行けよ」


コンタクトでもいい、と言った。俺はぞっとした。眼鏡を常にかけている柳生には失礼な話かも知れないが、眼鏡やコンタクトっていう視力矯正器具が必要なくらいに俺の目の機能は落ちたのだと思うと手は震えるし寒いし、俺のほとんど全身が絶望に浸かっているようだった。


「…目ぇよくするのって、できないんか」
「レーシック手術でもするか?」


手術と聞いて俺はいよいよ倒れそうになった。手術!目を!俺の眼球を!柳は俺の顔をみて、いつにも増して真っ青だが一体どうしたんだ、と言った。俺はしゃべるのも難しいほどに血の気がひいていたけど、かろうじて「柳生呼んできて、」って言うのに成功した。柳はため息をついて歩いていった。



途端に俺は世界にひとりになった。



俺はひとりでテニスコートに立っていて、向こうのほうには黄色いジャージを着た人影が動いている。みんなの声は聞こえてくるけど、その声は一体どの人影から聞こえとるんか俺にはさっぱりわからなかった。ジャッカルー!っていうブンちゃんの叫び声、赤也あ、幸村あ!と怒鳴る真田の声、笑う赤也と幸村の声、音は前と同じように俺に飛びついてくるのに、みんなの姿は見えなくて、俺にわかることと言えば黄色い人影の身長差くらいで、俺はあまりにも恐ろしくていますぐにみんなのところに行きたいのに、あそこの黄色い人影たちがみんなやなかったらどげんしよう、っていう可能性のせいで身動き出来ない。からからの喉から、やぎゅう、っていう掠れきってほとんど聞こえない名前が、ぽろ、と零れ落ちた。


「仁王くん、」


どうしたんですかっていう声に振り向いたら柳生がいた。近いからちゃんとわかる。柳生、と呼ぶ声がもうちょっとはっきりした。柳生は、はい、と返事して、ラケットを握りしめすぎて白く強ばった俺の指をちらっと見た。


「柳くんに呼ばれたんですが、」
「……うん、俺が呼んだ」
「はい、で、なぜ?」
「……あいたかった、」
「…………は?」


ぎゅうと抱きしめたら柳生はますますわけわからなそうにしていたけど、尋常じゃない俺の様子に気付いたのかおとなしくしていてくれた。この暑いのに。柳生の匂い、熱さ、感触、全部が俺の衰えた視力を庇って、補って、俺に柳生を教えてくれた。柳生は俺に抱きしめられたまま、視力が落ちたそうですね、と言った。


「柳くんに聞きました」
「………………」
「眼鏡にするんですか、コンタクトにするんですか」
「…………見えんの」
「え、」
「遠くが見えんの。いまも、誰の顔も、見えんくて、」
「それはまあ、急に随分落ちましたねえ」
「怖い」
「……仁王くん?」
「怖いよ、柳生、こわいよ、おれ、もう、柳生さんのことも見えんようなって、」
「仁王くん、」
「おれ、もう、柳生さんが遠くで俺のこと呼んでてもわからんかも知れん……」


柳生さんは少し黙って、そのあと俺の(暑いなか柳と打ちあった上に冷や汗だくだくの)背中をやさしくぽんぽんして、大丈夫ですよ、と言った。


「仁王くんが見えてないようだったら、私が一生懸命仁王くんを呼びますから。だから大丈夫です」
「……ほんと?」
「本当です」
「けど、柳生さんが助けて欲しいとき、俺、助けよらんかも知れん」
「そういうときも、仁王くんを呼びますから。一生懸命仁王くんって叫びます。仁王くんは、気がついたら助けに来てくれるんでしょう」
「あたりまえじゃ!」
「だったらやっぱり大丈夫です。仁王くんも、私も、大丈夫」


柳生さんはにこっと笑って、だから仁王くん、一緒に眼鏡を作りに行きましょうと言った。俺眼鏡似合うかのう、と言ったら柳生は吹き出して、


「いつも私のかけてるじゃないですか」
「……そーいやそうじゃな」
「私眼鏡似合ってます?」
「うん、」
「だったら多分仁王くんも似合いますよ」
「あ、そっか」



柳生さんに手をひかれてみんなのところに戻ると、幸村が真田に怒られている最中なのに俺たちを見て、仲良しだねえ、と笑ってみせた。



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