「…ねぇ」



ありがとう、と言おうとしてなんだか照れくさくなってやっぱりやめた。
君は不思議そうな顔でなんですかと問い返してくるけれどただありがとうと告げたところで君はその意味がわからずにまた不思議そうな顔をするのだろうから、ううん呼んでみただけだよと軽く笑い返して所在の無い視線を宙にさまよわせる。

そうですかと微笑みかけた彼女の顔が、いつものように笑いきれずにもとの無表情に戻っていくのを見て、また何かきっと難しいことを考えては振り回されているんだろうなぁとぼんやりと思う。



(未来のことなんて、考えなければいいのに)



彼女は心配性だからいつも一人で先回り先回りしては自分の首を絞めていく。
しかも自覚をしていないからなおさら厄介で、見ているこっちがいつかこの儚いひとがこわれてしまいやしないかと不安になるんだ。

どうして今ここで笑おうとしないで未来に怯えて泣きそうな顔をするのかな。

こんなに近くにいるのにいつも君はひとりでどこか遠くを見つめているんだ。

そうやって遠くばかり見ているからきっと君は、すぐ隣で君を見ているひとがいるなんてことにも気付いていないだろう。


(すきだよ、なんて言わないけど)


多分伝えたところで君は優しすぎて臆病だから、傷付けることも傷付くことも出来ずにひとりで隠れて遠ざかることしか出来ないだろうから。

もう引きなおすのが何度目かもわからない幾重ものラインの内側にたったひとりで、ねぇ寂しくない？




なんとなく泳がせていた視線をふいに彼女に向けると、ぎゅっと閉じられている彼女の瞼が僅かに震えているのが見えて、同じくらい固くぎゅっと握りしめられていた彼女の小さなてのひらにそっと自分のてのひらを重ねてみる。

驚いたように見開かれた彼女の瞳がこちらを捉えてさらにじわりと滲んだ。

泣いてるの？と問いかけてみれば、首を振って無理に笑顔を作ろうとする。

不器用なくせにそんなことする。

そのくせやっぱりぽろぽろ涙をこぼして、ああもうどうしてそうやって一人で悩んだり苦しんだりするのかな君は。


できるなら本当は今、君と一緒に笑っていたいのにそれすら叶わないというならせめて、せめて君が素直に泣ける、そんな場所でありたいとおもうのは我が儘だろうか。




「きみがなくならかわりにわらっていてあげる」




微笑って告げた言葉がどうか君を少しでも楽に出来たならと祈りも込めて、重ねたてのひらの下ですこし緩んだ君の指先を出来るだけ優しく絡めとる。

そのまま体を引き寄せてあやすように背中を撫でればほらやっぱりまた泣き出した。

押し殺した途切れ途切れの嗚咽を聞きながら強く握り締めたてのひらを出来ればこのまま離したくなくて、握りしめた小さなてのひら、その持ち主がいつか、出来ればいつも、笑っていてくれる未来以外は要らなくて、そのために出来ることが自分に少しでもあるなら、そんなふうに君を想えたしあわせを君がしあわせでいる何かに置き換えられるならいつだってこの想いを手放せる、と。


だから、





(きみをすきになってよかった)








「ねぇ、」



腕の中の彼女は何も答えなかったけど、続きを促すようにきゅっと握られた人指し指、その先から込み上げるいとしさに笑みを堪えながらありがとう、と呟いた。


側にいてくれてありがとう。



(すきにさせてくれてありがとう)




「今、側にいてくれてありがとう」





だから今は、君と過ごせる今だけは。



(遠くの未来に怯えたりしないで)



今はただ側にいてくれたら、出来れば君が笑っていてくれたら、それ以上の未来に期待なんてしないからだから今だけは。






(ここにいて)









緩い拘束をほどいて君の瞳に視線を合わせて微笑う。
つられたようにはにかんで微笑む君と、まだ繋がったままのてのひらに伝わる君の温もりに安堵して、焼き付いた君の涙がいつか満面の笑顔に変わる未来を描きながらゆっくりと瞼を閉じた。




END

(うまく、笑えただろうか)