小説 3
早桃恋・後編 (にょた)
会話を耳にしたのは、偶然だった。
オレは偶然庭に一人でいて、だから門より少し離れた塀の向こうで、誰かが呼ぶのを聞いたのだ。
「廉」と―――。
「なぁ、今日の試合、どうだった?」
「う、と、格好、よかった、です」
快活な少年の声に、少し控えめの涼やかな声がそう応えた。
「漠然としてんなぁ。どの辺が格好良かったんだよ?」
「え、と、三振とった、とこ?」
「何で疑問形? ってか、三振なんか、いっぱいとっただろ」
あはは、と少年が笑うのを聞いた。
色のある笑い方だ。訊かなくても分かる……この少年は、目の前の少女に恋してる。
オレはゆっくりと庭を回りこみ、門の外に出た。
「あの、マウンド、の周りに、皆が集まって、それで、おーって言って、声出したとこ、が、格好よかった、です」
「それ、オレが格好いいんじゃねーじゃん」
「そ、ですけど………いいなあって」
ふひ、と笑ってるのは、薄茶色の髪を背中まで柔らかく伸ばした少女。うつむいて後ろ向きで、こちらからは表情が見えない。
気にせず歩いて行くと、少年と目が合った。勝気そうな猫目が印象的な少年だ。
三振とった、と言うからには投手か。……成程、度胸はありそうだ。
少年の緊張を感じ取ったのだろうか、廉がふと後ろを振り向いた。そしてオレを見て、大きく息を呑む。
ひぅ、とか細い音がした。
そこにいたのは、もう、小学生じゃなかった。
琥珀色に揺れる、大きな瞳も。長い睫毛も。青ざめた頬も、わななく唇も。
面影はあるのに、まるで記憶とは違っていて……内心、ちょっと焦る。4年の空白が、意外に大きかった事を知る。
「久し振りですね、廉さん」
「あ……はい、あの。お、久し、振り、です」
廉は、搾り出すように言葉を紡ぎ、オレに深く頭を下げた。
「……誰?」
少年が、廉に小声で尋ねてる。
廉は困ったように眉を下げ、オレの顔をちらっと見た。オレは、多分初めて、自分から彼女に笑いかけた。
すると彼女はごくりと生唾を呑み、ぎこちなくオレから視線を外した。
「私の婚、約者の、阿部さん、です。阿部さん、こちらは、そこのお家にお住まいの、叶君、です」
廉はすぐ前の家を指した。成程、表札には叶と書かれている。
「ご近所のお友達ですか? 廉さんとは親しくされているようですね」
オレは叶を見下ろすように話しかけた。叶は頬を少し赤く染め、顔を背けた。
こんな8歳も年下の子供に向かって、大人気ないと自分でも思う。
けれどこの三橋廉はオレの婚約者で……だから、オレのものに色目を使われるのは、たとえガキが相手だろうと、イヤだった。
「さあ、廉さん、そろそろ」
オレは廉を促すように、背中に手を当てて軽く押した。
廉は大人しくそれに従った。
オレ達が三橋家の門の前まで歩いた時、叶が大声で言った。
「三橋!」
廉が、ぱっと振り向いた。
「誕プレ、何がいい?」
叶の質問に、廉は少し考えて応えた。
「優勝、が、いいです」
それは……そんなプレゼントは、オレからは与えてやれないじゃないか。
「分かった! 期待して待ってろ!」
叶が大声で宣言する。
オレはもう聞きたくなくて、廉の背中を押す手を強め、三橋家の門をくぐった。
敷地の中に数歩入ってから、立ち止まる。
同じく立ち止まった少女の肩を掴み、アゴを捉え、上を向かせて唇を合わせた。
一瞬の口接け。ふわりと香る、甘い匂い。
少女は呆然とオレを眺め、それからゆっくりと赤くなった。
はああ、と大きなため息が出る。
子供相手に、オレは何をしてるんだ。8歳も年下の、中学生だというのに。
どうして手に入れたいと思うんだ。
その日から約2年……。
彼女に会うと、オレはため息を禁じえない。
桃のような色香に誘われるたび、口接けを繰り返してはため息をつく。
この実はまだ青い。固くて、幼い。
そう自分を律して突き放さなければ、到底我慢などできそうになかった。
なのに当の廉はというと、オレのそんな我慢など、思っても見ない様子で。
「お友達と、夜桜を見に……」
ベビーカステラを胸に抱き、日も暮れてから、頭に花びらくっつけて。無防備にも程があるだろうと、本当に呆れた。
「桜が見たいなら、オレがお連れします」
気まずそうにうつむくなら、初めからしなければいい。
家まで送ると言うと、困ったように眉を下げる。
何を考えてるか、まるで分からない。
そして、別れ際に口接けると……ふわりと甘く香る早桃。
もっと深く味わいたくなるのを、懸命に律して。
「おやすみなさい」
静かに告げて、逃げるように去る。
タクシーに乗り込んでから、オレがまた何度目かのため息をついたことにも……きっと彼女は、気付かない。
同時にオレも……彼女が抱える不安な想いに、気付いてやる事はできなかった。
(終)
※S本様:フリリクのご参加、ありがとうございます。「桜花恋の阿部視点」、どこからどこまでを書くのか迷いましたが、空白になっている過去の部分を、ひとまず書かせて頂きました。この後、春休み中、きちんと告白できるまで、阿部の一人我慢大会な感じです。そんな我慢大会なむっつりスケベさんをご所望であれば、書き足しますのでおっしゃって下さい。書くのは難しそうですが……。
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