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小説 3
信号は青だった・2
 うちに来たことのある子だ。
 2週間か3週間か、それくらい前だっけ? そう、確か、阿部君の大学の野球部のマネージャーだとか聞いた。
 部活が終わって、へとへとでアパートに帰ると、家の中にその子がいて――じゃーじゃー水音を立てながら洗い物してたんだ。
 ありったけのお皿にありったけのコップやカップが流しの中にあったから、大人数でいたんだなってのは分かった。
「お邪魔してまーす、洗い物終わったら帰りますねっ」
 笑顔でそう言われて、「はい」とは言ったものの、すっごく複雑だったの覚えてる。
 汚れたお皿を、てんこ盛りで残されてるよりはマシかも知れない。
 でも、勝手にオレのキッチンで、料理したり洗い物したりしないで欲しい。
 周り、水浸しでびしょ濡れだよ?
 そのエプロン、オレのだけど……?

 言いたいことを飲み込んで自分の部屋に入ると、阿部君とその子が明るい声で喋ってんのが聞こえた。
「ワリーな、助かった」
 とか。
「スゲー美味かった」
 とか。
「またいつでも来いよ」
 とか。女の子の笑い声の中に、阿部君の声を拾った。
 ぼうっと聞いてたら、カチャッと部屋のドアが開いて、阿部君が顔を覗かせた。
「アイツ、送って来るから」
 オレが「うん」って答えるより先に、部屋のドアがパタンと閉まって――すぐに、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。

 アイツ、って呼び方にもモヤッとした。
 ああ、あの時の子だ。

 ショックだけどちょっと納得もして、じわっと目が熱くなる。
 パッと目を逸らすと、同時に「てめぇっ!」って真横で泉君が叫んだ。
「田島! 三橋連れて走れ! お前らは関係ねェ!」
 泉君の叫び声に、えっ、と思う間もなく、ぐいっと腕を掴まれた。
 一瞬振り向いたけど、数人が揉み合ってるのが見えただけで、何がどうなったのか分かんない。
「違っ、これは……!」
 阿部君の声も聞こえたけど、何が違うのかも分かんない。
 どうして走んなきゃいけないのか、それも分かんなかった。
 でも、変なの。オレにやましいトコなんか何もないのに、走り出したら止まんない。

 逃げたい。見たくない。
 もうあの場にいられない。

 後ろで「わー」とか「きゃー」とか叫び声が聞こえたけど、確かめようとは思えなかった。むしろ怖くて、ますます走る足が速くなった。
 たちまち派手なネオン街を抜け、大通りが見えてきた。
「三橋、もういいって。止まれ!」
 横で田島君が言ってたけど、頭の中はぐるぐるで、言ってる意味が理解できない。
 唐突に、冷えたギョーザを思い出す。
 阿部君と彼女がオレたちの部屋を出てった後、のろのろとダイニングに戻ると、テーブルの上には出しっぱなしのホットプレートと、ラップをかけたギョーザがあった。
 独特のニオイがぷーんとして、ああ、ギョーザ焼いたんだなと思った。
 水切りカゴの中にはお皿やコップが山盛りで、流し台はびしょ濡れ、エプロンもびしょ濡れで、阿部君がやがて戻って来るまで、オレはぼうっとそれを見てた。

 残り物のギョーザは、冷えて固かった。
 食べながら「美味しい」って言ったけど、美味しくなかった。
 目の前の信号の赤が、涙で滲む。
 口の中に、ニンニクのイヤなニオイがよみがえる。
「三橋、止まれって!」
 田島君に腕を掴まれ、ぐいっと引かれたけど、立ち止まりたくなかった。今立ち止まれば、もう走れなくなりそうだった。
 何も考えたくない。
 このまま走って帰りたい。

「ギョーザ、美味ぇだろ」
 なんて、他人の料理を自慢げに誉める阿部君なんか、見たくない。
「アイツ、ちょっと変わっててさ……」
 なんて、よそのマネジの話も聞きたくない。

 交差点に着く前に、信号が青に変わった。
 このまま進めって言われてる気がした。振り向かないで、進め、って。
 大通り、開けた交差点、立ち止まってた人が動き出す。
 その、人の波の中に飛び込もうとした時――キュキュキュキュキュ、と、右手の方にタイヤの音を聞いた。
 交差点をスリップしながら、赤い車が横断歩道に突っ込んで来る。
「きゃーっ!」
「きゃーっ!」
 人々の悲鳴の中に、「三橋!」って混じる誰かの声。赤い車に跳ねられた誰かが、人形のように弾かれて宙を飛ぶ。
 考える暇はなかった。
 オレを呼んだのが誰だったかも、考える暇はない。とっさに両手を広げて、飛んで来た誰かを受け止める。

 衝撃は予想以上、で。
 オレ自身、飛ばされて誰かにぶつかったのが分かったけど、どうしようもなかった。
 どんっ、と背中を打ち、直後にゴチンと頭を打つ。
 尾を引いたような青信号の残像を見た後、目の前が真っ暗になった。

「三橋、三橋!」
 闇の中で、誰かの声を聞いた気がする。
 2種類のサイレンの音。叫び声。

「しっかりしなさい、目を開けて」
 誰かに促され、肩を叩かれて目を開けると、光の渦が飛び込んできた。
 白衣の人がちらっと見えたけど、それ以上目を開けていられない。
「三橋!」
 オレを呼んでんのは、誰だろう?
 眩しい。痛い。全身が重くて、指1本も動かない。
 耐え切れずに目を閉じると……その闇に吸い込まれるように、意識が急激に失せてった。

(続く)

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