[携帯モード] [URL送信]

小説 3
まなざしの行方・9 (完結)
 気持ちは決まっていたけれど、決心がつくまでには、やはり1週間かかった。
 あの球場での告白を聞いてから、1週間後。私は隆也さんを、父の持つ野球場の、当家の個室に呼び出した。
 三橋さんたち1軍の選手は、地方での3連戦があるとかで、こちらにはおられない。
 代わりに少年野球教室のような、イベントか何かが開かれていて、小学生くらいだろうか、子供たちがプロ選手と一緒に白いボールを追っていた。
 個室の観覧席は随分上の方にあるので、グラウンドの声は聞こえない。
 試合を映してくれる大モニターも、今は電源を落としていて、辺りはしんと静まっていた。

 交際を始めて3年にもなるのに、隆也さんがこの当家の個室に入られたのは、始めてだ。
 今までどんなにお誘いしても、決してここには来てくださらなかった。
 私たちが出会った、思い出の場所だけど――きっと隆也さんにとっては、そんな感慨もないのだろう。
 野球に関すること全てが、きっと三橋さんに繋がっていて、だから、目を逸らすしかなかったのだと思う。
 大事な恋人を裏切ることになった原因は、この私。
 なのに隆也さんは、3年間ずっと私に優しかった。私を責めることも罵ることもなかったし、尊重してくれた。人前で恥をかかせないよう、気を遣ってくれたと思う。
 だから……それだけで、もうよかった。

 個室から出られる専用の観覧席に並んで座り、イベントの様子をそっと見下ろす。隆也さんはずっと黙ったままで、空気が重い。
 私は1つ深呼吸をして、それから静かに口を開いた。
「私、結婚していつか男の子が生まれたら、野球を勧めようかと思っておりますの」
 いつか。それはもう本当に、いつのことになるか分からなかったけれど。
「お弁当を作って、試合には応援に参りますわ。旦那様と息子が仲良くキャッチボールするのを、木陰に座って眺めたり。お誕生日には新しいグローブを贈ったり。このようなプロの方たちと触れ合えるイベントに、参加したりするのも楽しいでしょうね」
 穏やかに夢を語り、くすりと笑う。そんな日々が来れば、きっと楽しいだろうと思う。
 そして――。
「そしていつか、野球が大好きな息子と並んで、ここで試合を観戦したいと思いますわ。その頃には三橋さんは、メジャーでも有名な投手のおひとりになられていて……」

「……あなたもきっと彼と一緒に、渡米なさっているでしょうね」

 そう言うと、隆也さんはハッとこちらを振り向いた。
 視線を受けて、頬を緩める。
「ねぇ、隆也さん。日米野球にご出場されるとしたら、メジャー球団におられる三橋さんは、日米どちらの代表におなりですの?」
 その問いに、隆也さんはお答えにならなかった。
 私も本気で質問したかった訳ではなかったから、構わない。
 数秒待ってから、彼の沈黙に微笑んで席を立ち、観覧席から個室へと戻る。パーサーはお断りしたので、部屋の中は2人きり。
 ソファに腰を下ろして、冷めた紅茶を1口飲んだ。
 隆也さんは観覧席への出入り口にもたれ、真意を測るように、私をじっと見つめていた。

 3年間お付き合いし、婚約までしていたのに。こんな風に彼にじっと見つめられたのは初めてで、少し頬が熱くなる。
 じんわりと胸が痛むのは、まだ彼のことが好きだからだ。
 先程語った夢のように、隆也さんや私たちの息子と暮らせれば、どんなに幸せだろう。
 けれど彼の事情を考えれば、隆也さんが息子に野球をさせることを心から喜ぶはずもなく――そんな歪みを抱えたままで、幸せになれるとは思えなかった。
 幸せになれない未来は、見たくない。なら、選択肢は1つだ。

「結婚のお話、なかったことにしてください」

 精一杯の穏やかな口調で言った私に、隆也さんが1歩近付いた。
「……あんたはそれでいーのか?」
 無感情な低い声。
「はい」
 キッパリとそう言って、ゆっくりと息を吐く。
 後悔はない。
 あるとすれば3年前のあの日、初めての恋の行方を父に任せてしまったことだ。
 あの時堂々と自分の口で、交際を申し込んでいれば。自分の耳でお断りの返事を聞いて、ちゃんと玉砕していれば。互いの傷も、こんなに大きくなることはなかった。
「父には私からお話します」
 私の言葉に、隆也さんは「ああ」とうなずいた。

 震える足に力を入れて立ち上がり、これが最後と、彼の前に立つ。
 見上げる長身。整った顔立ち。まっすぐに背を伸ばす、姿勢のいい立ち姿。冷静で静かで、時折皮肉なことを口にする、8歳年上の大人の男性。
 顔を見るだけでドキドキしたし、声を聞くだけで胸の奥が熱くなった。
 出会った時から婚約を経て、別れを口にした今でも、ずっとこの人に恋してる。大好き。本当は、私だけを見て欲しい。
 私はそっと手を伸ばし、目の前の厚い胸に触れた。
「最後に、キスしていただけませんか……?」

 ガキが何言ってんだ、とは言われなかった。
 温かい大きな手が、そっと私の髪を撫でる。ゆっくりと顔を寄せられ、目を閉じると――額に柔らかなものが触れたのが分かった。
 ああ、キスだ。
 閉じたまぶたから涙がぼろぼろとこぼれたけれど、誰もそれをぬぐってはくださらず。私の恋は、終わった。


 婚約破棄を父に言うと、大変驚かれた。
「聞いたぞ、球場まで三橋に会いに行ったそうじゃないか。あの男に何か言われたのか?」
 珍しく声を荒げるのを聞き、恐ろしいよりも先に、カッとした。
「あの男などとおっしゃらないで。三橋さんは、とても素敵な方ですわ」
 それは初めて口にする、父へのささやかな反抗だった。
 好きな方を、そのように貶める声を聞きたくはなかった。これもファン心理というものなのだろうか?
「私、あの方のご活躍を応援したく思います。それに……隆也さんと私との破局に、どうして三橋さんが関係するでしょう。これは2人だけの問題ですわ」
「しかし……」
 父は何か言い募ろうとしていたけれど、私はそれを、首を振って遮った。

「私、この3年、隆也さんのような素晴らしい方のお側にいられて、幸せでした。お父様にも感謝しております」
 そう、感謝している。
 手段には問題があったけれど、父は恐らく純粋に、私のワガママを叶えようとしてくれたに過ぎないのだ。
「でも、世の中にはもっと素敵で、私だけを愛して下さる男性が、きっといらっしゃると思いますの。今回のことはきっと、幸せな未来への過程の1つなのですわ」
 にっこりと微笑み、窓の外を見上げた私に、父はそれ以上何も言わなかった。
 青い空はスッキリと晴れやかで、風が気持ちよさそうだと思う。
 街に出よう。
 ひとりで歩こう。
 歩幅を合わせて一緒に歩いてくれる方は、もういないけれど、寂しくはなかった。

 お友達に報告すると、やはりみんな驚きの声を上げた。
「まあ、お似合いでしたのに」
 口々にそう言われ、お世辞ではなさそうで嬉しかった。
 隆也さんのことを、悪くおっしゃる方もいなくて良かった。私の周りは、やはり今でも、私に優しくできている。
 親切な友人、和やかな会話、春の陽だまりのように優しい世界。
「この先、どうなさるおつもりですの?」
 お友達の質問に、穏やかに首を振る。

「結婚も恋愛も、当面は考えておりません」
 大好きな方たちを思い出しながら、私は笑って遠い空に目を向けた。

   (終)

※波瑠様:キリリクありがとうございました。「婚約者がいてそれなりに大事にするけど、やっぱり三橋じゃなきゃダメな社会人阿部」でしたが、いかがでしたでしょうか? 三橋視点、阿部視点、モブ婚約者視点と迷いましたが、モブ視点で書かせていただきました。また「ここをもっと詳しく」「この辺をこんな感じで」などのご要望がありましたら、修正しますのでお知らせください。改めまして、キリ番、おめでとうございました。

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!