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小説 3
まなざしの行方・8
 隆也さんの告白に、三橋さんは応えなかった。
 受けもせず、否定もしないで、代わりに穏やかに言った。
「オレね、今年こそ最多勝目指す、よ。最多奪三振も、勝率と防御率の首位、も……阿部君の守ってくれた野球、だから、精一杯、頑張る」
 野球のことをよく知らない私には、それがどのようなものなのか、よく分からない。
 ただ、隆也さんを牽制しているように感じた。野球に生きるのだ、と。
「日本のエース、目指す。そんで、メジャーも目指す」
「メジャー……」
 隆也さんの呟きに、三橋さんが「うん」とうなずく。

 メジャーとはアメリカ合衆国の、メジャーリーグのことだろうか。三橋さんは、いつかアメリカに行ってしまう?
 常識的に考えれば、それは多分、応援すべきことなのだろう。「あなたならできる、頑張って」と、激励するべきステップアップなのだろう。
 私にとっても、婚約者の想い人が遠い海の向こうに行ってくれるのは、喜ぶべきことなのだろう。
 けれど、とてもそうとは思えなかった。
 ついさっき、「野球だけでは幸せになれない」とおっしゃったばかりのその口で、野球に生きると宣言している、三橋さんの想いが痛い。
 光の中に立ちながら、ほろ苦い笑みを浮かべて、眉を下げて、空を見上げる姿が目に浮かぶ。
『結婚も恋愛も、当面は、考えておりません』
 意識を失う直前に聞いた、彼の言葉を思い出す。
 彼は隆也さんを想い続けて、おひとりで過ごされるおつもりなのだろうか? いつまで?

「キミに会えて、よかった」
「三橋……」
「彼女にも、会えて、よかった」
 気負いのない静かな言葉に、ズキッと胸が痛む。
 私に会えてよかったと……彼のお言葉に嘘はなさそうで、余計に居たたまれない。
『阿部君を、よろしくお願いします』
 昼間に聞いたあのお言葉を、三橋さんはどんな思いでおっしゃったのだろう?

「忙しくなる、から、さ。結婚式には行けそうにない、けど、祝電くらいは送る、よ」
 静かに笑う声。
 三橋さんがドアの方に歩み寄った。それまでカーテンの陰で見えずにいた、彼の姿が現れた。
「じゃあ……元気で」
 ドアノブに三橋さんが手を伸ばす。それを、「待てよ」と引き留める隆也さん。
 腕を引かれた三橋さんが、ハッと後ろを振り返る。
 その瞬間、目が合った。

 ビクッと肩が跳ね、息が詰まる。
 真っ赤な目をした三橋さんを、隆也さんがキツく抱き寄せ、顔を寄せた。慌てて顔を背けたから、私は何も見ていない。見ていないけれど――。
 ――キス、してると悟らざるを得なかった。
「ん……」
 小さく漏れる声が生々しくて、たまらなくて口元を覆う。
 ずっとずっと欲しかった、長い長いキス。それを隆也さんから貰うのは、私ではなかった。
 床に降ろした視線が、ショックでふわふわと揺れ始める。

 ああ、いけない。そう思った時……。
「ごめん」
 三橋さんが、涙声で言った。
 つられるように視線を上げると、また目が合った。色素の薄い大きな目が、まっすぐに私を見つめている。
「お幸せ、に」
 にっこりと笑っているのに、泣いているように見えた。
 それは、誰に向けた言葉なのだろう?
 息をするのも忘れて見守る中、パタンと音を立ててドアが閉まった。

「ふっ……」
 隆也さんが、崩れるように床にヒザを突く。
「くそっ」
 初めて聞く悪態に、胸が軋んだ。
 私はそっとベッドから降り、裸足のまま婚約者の側に寄った。
 細かく震える広い背中にそっと手を当てたけど、隆也さんはぴくりとも反応しなかった。
 そのまま縋るようにぺたりともたれて、黙ったまま頬を寄せる。
 広くて温かくて、固い背中。
 私の腕はちっぽけで、彼を包むには足りない。
 慰めることも、癒すことも……幸せにすることも、私にはできないのだ。その事実に、涙が出た。


 8歳年上の隆也さんは、格好良くて優しくて、ちょっぴりワイルドで、自立していて、そして大人なのだと思っていた。
 デートの約束も、キスやハグも、求めれば求めるだけ、与えられるのが当たり前だと思っていた。
 幼い頃から、なに不自由なく育てられた自覚がある。
 優しい家族、穏やかな友達、和やかな学校生活、心地のいい暮らし。それは当たり前のように手の中にあったから、今まで何の疑問も抱いたことはなかった。
 素敵な恋人も、婚約者も、求められるまま与えられたって、少しも不思議なことではなかった。
 好きだった。今でも大好き。
 顔を見るたびにドキドキしたし、彼のことを考えるだけで、胸の奥が熱くなる。

 私のスピードに歩幅を合わせ、隣を歩いてくれるのが嬉しかった。
 例え会話が弾まなくても、手を繋いでゆっくりと街を歩くだけで幸せだった。
 数年後にはこの人と結婚することができるのだ。そう思うと誇らしかったし、周りのみんなにも「お似合いだ」と言われていた。
 隆也さんだって――私と結婚することを喜んでいるのだと思っていた。
 ほろ苦い笑みを浮かべ、どこか遠くを見つめていた隆也さん。彼が本当は何を求めていたのか、私にはずっと分からなかった。
 いつも冷静でクールな人だと思っていた。

 あんなふうに震える声で、愛を告げる人だなんて知らなかった。

「全部、聞いてしまいました」
 背中に縋ったまま、ぽつりと呟いた言葉に返事はない。

 隆也さんには3年前まで、とても大事にされていた恋人がいらした。
 その方の名は、三橋廉さん。父の持つプロ野球球団に所属する選手で、人気・実力ともにある投手だった。
 私が交際を申し込んだとき、隆也さんは最初、「もったいない」「つり会わない」と言って、お断りされたと聞いている。
 けれど、本当は……「恋人がいるから」という理由だったのではないだろうか?
『大丈夫、お父様に任せなさい』
 頼もしく請け負ってくれた父は、どうやって彼を説得したのだろう?
 ちょうどその頃、三橋さんが突然2軍に落とされた原因は? 人気も実績もあったのに。故障や怪我でなければ、何だったのか?

 1軍に復帰するまで、隆也さんがお側で支えてくれたと、三橋さんはおっしゃっていた。その後、破局したのだと。
 その期間を調べてみると、ちょうど私と交際を始めてくださった時期と重なっていて――彼の言う「裏切り」と、無関係だとは思えなかった。
 考えれば考える程、悟らずにはいられない。
 三橋さんの野球を守るという意味。私にも私の父にも、野球を観戦する資格がないという理由。
 隆也さんを私の交際相手に据える為に、父はきっと球団オーナーとして、とても卑劣な手を使ったのだろう。
 けれど、父だけを責めることはできない。

 そもそもの発端は私の勝手な横恋慕で。彼らを引き裂いたのは、ワガママな私自身なのだ。

(続く)

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