小説 3
まなざしの行方・7
どなたかが話す声で目が覚めた。
「連絡、取れて、よかった。番号、変えてなかったんだ、ね」
「……ああ」
短く応じる声になじみがあって、隆也さんだ、とホッとする。
私はどうしたのだっただろう?
そっと目を開けると、見知らぬ天井だ。眩しさに再び目を閉じながら、ゆっくりと記憶を整理する。
「ワリー。迷惑かけた」
低く謝る隆也さんの声が聞こえていたから、慌てることもないのだと分かった。
ここはどこだろう?
固くて狭い寝台は、まるで病院の診察台みたい。高校時代に受けた、心電図検査を思い出す。
どこかの診療所か何かだろうか?
隆也さんと話しているのは?
「元気そうで、よかっ、た」
ためらうように話す、穏やかな声に耳を傾ける。
「三橋……」
隆也さんがその人の名を呼んで、ああ、と思った。そう、三橋さんだ。父の持つプロ野球球団の選手で、球団を代表する投手の1人。
人気があって実力もあって、それでいて穏やかな雰囲気の人。隆也さんの昔の知り合いで――今は疎遠だと語った人。
思い出した。私は三橋さんとお話がしたくて球場に押しかけ、登板試合が終わるまで待って、彼に面会を申し込んだ。
話してる途中、記者団の方たちに囲まれ、フラッシュと怒声を浴びて……それで気を失ったのだったか。
では、ここは球場の施設なのだろうか?
三橋さんが、私の為に隆也さんを呼んでくださった?
では、お礼を申し上げなければ。私はそう思いつつ、お二人の会話に耳を澄ませた。
下手に口を出して、3年間疎遠だったという彼らの、久し振りだろう会話に水を差してしまいたくなかった。
「婚約、おめでとう」
三橋さんの穏やかな声に、隆也さんがひゅっと息を呑むのが聞こえた。なぜだろう? 祝われるのがお嫌なのだろうか?
「いい子だね。阿部君のこと、すごく好きみたい」
「三橋、オレは……」
隆也さんの声を遮るように、三橋さんが「オレも」と言った。
「オレも、彼女のことキライじゃない、よ」
隆也さんは応えなかった。
しんと静まった狭い部屋に、気まずい沈黙が漂い始める。
静かに語られるのは、私のことだ。
いい子だ、キライじゃない――悪口とは思えないのに、なぜだか胸の奥が冷たくなった。隆也さんが黙ったままなのも気になる。
どうして何も言って下さらないのだろう? 三橋さんに嫌われる理由が、私にあるというのだろうか?
私の顔を見た瞬間の、三橋さんの戸惑いを思い出して、居たたまれない。
息を詰めて聞いていると、隆也さんがぼそりと言った。
「二度とお前の前には立てねぇって思ってた、三橋。裏切って、悪かった」
絞り出すような隆也さんの声が、ますます私の不安をあおる。
何より不安に感じるのは、三橋さんが驚いていないことだ。裏切り? 隆也さんが? その話も信じられない。
「分かってる、よ。阿部君、は、オレの野球、を、守ろうと、してくれたんだ、よね」
三橋さんが、一言一言考えるように静かに言った。
野球を……守るとは、どういう意味なのだろう? 私にも関係があることなのだろうか?
「ゴメン……」
隆也さんが謝られた。
その悲痛な響きに、聞いている私の胸も痛んだ。
聞く限り三橋さんは、とうにお許しになっている。けれど、隆也さんは許されていない。そんな気がした。
隆也さんを責め続けているのは、隆也さん自身なのだろうか?
『大事なヤツの幸せかな』
ずっと以前、大切なものを聞いたときに、彼がそうおっしゃったことを思い出す。
空を見上げて、ほろ苦い笑みを浮かべて。
彼のまなざしの先にあるのは、もしかしていつも、三橋さんだったのだろうか?
そんなに大事にしているのに、では、なぜ裏切ったのだろう? なぜ疎遠に? 何が……きっかけで?
「三橋……」
隆也さんが、大事な古い友人を呼ぶ。
「阿部君は、幸せ?」
その問いに、ドキンとした。
隆也さんは答えて下さらなくて、ますます居たたまれなさが募る。
幸せではないの? 私では不足?
「……お前はどうなんだ?」
低く掠れるような問い。
「分かんない、な、もう……」
三橋さんがそう言って、静かに笑うのが分かった。
ああ、また、あのほろ苦い笑みを浮かべているのだろうか? これが、3年ぶりに会う友達の会話?
「野球だけできても、幸せにはなれない、よ」
ふふっと笑う気配。
笑ってるのに泣いているような、憂いに満ちた顔が脳裏に浮かぶ。
隆也さんが、また息を呑んだ。いや、もしかしたら、しゃくりあげたのかも知れない。
泣いているような息遣いが聞こえて、私はたまらず目を開けた。
真っ白な壁、真っ白な天井、少しだけ引かれたクリーム色のカーテン。そのカーテンの向こうに、隆也さんの背中とドアが見える。
ゆっくりと体を起こした私の耳に、再び聞こえた隆也さんの涙声。
「……愛してる」
絞り出すような告白に、頭の中が真っ白になった。
三橋さんが、また静かに笑った。
「言う相手、間違ってる、よ」
「間違ってねーよ!」
「阿部君……」
しぃ、とたしなめる声。
身動きできずに固まっていると、また隆也さんが言った。
「オレは一生、お前だけだ」
婚約者が他の方に告白するのを、私は呆然と聞くしかなかった。
勿論ショックだったし胸にぐさっと突き刺さるようだったけれど、それよりも色んな事実が見えて来て、自己憐憫には浸れなかった。
ほろ苦い笑みを浮かべて、遠くを見ていた隆也さん。
優しくて紳士で、大人で、私のワガママをなんでも聞いてくれた。
どんなに疲れていても、デートをねだれば引き受けてくれたし。遊園地にも、ドライブにも、望むままに連れて行ってくれた。
そのくせ、自分からは私に連絡もくださらなくて――ハグやキスも、手を繋ぐことさえも、私からおねだりしなければ、手を触れてもくださらなかった。
大好きだ。独り占めしたい。隆也さんと結婚できる日を、今でも待ち望んでいる。私だけを見て欲しい。
けれど、本当は分かっていた。
彼の心は、私にはない。
愛されていないのは、知っていた。けれど、それでも好きだった。
(続く)
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