小説 3 追憶のカウントダウン・6 「阿部君、すまん。このデータを大至急まとめてくれ」 そう上司に言われて、残業を悟ったのは昼メシが終わった後だった。 金曜日。 んなもん派遣の仕事だろ、と一瞬思ったが、それも考慮済みだったらしい。 「まとめてくれたデータは、直接クライアントに持って行くから。そのつもりで頼む」 って。つまり、それなりに真価を問われてるってことか? 「わかりました。今日中に仕上げます」 オレは上司にそう答え、それからトイレに立つフリをして、三橋のケータイに電話した。 メールでもいいかと思ったけど、やっぱ電話でちゃんと伝えたかった。 仕事中だろうし、当然留守電だろうと思ってたら、『はい』って本人が出たんで驚いた。 「あ……オレだけど」 一瞬戸惑いつつも話しかけると、三橋も電話の向こうで戸惑ってんのが分かった。 『うん……なに……?』 そういやこんな風に、電話で話すのも久し振りだと思い出す。 前に電話したのはいつだった? 考えながら、要件を口にする。 「あのさ、今日、急な残業で……」 そこまで言って、ハッとした。 『今日、急な残業で』 数ヶ月前、三橋にウソの電話をして、オレは――。 『……わか、った』 三橋の声のトーンが、少し低くなったのが分かった。 一瞬で心臓が凍りつく。 「待て、ホントに……」 言いかけて口ごもる。ホントに「今日は」残業なんだとか、今更言い訳してどうする? ウソを散々つきまくったせいで、ホントの残業に信憑性がねーとか。狼少年かっつの。コレもブーメランだ。自業自得だ。 三橋がゆっくりとうつむいていくのが見える気がする。 「なるべく早く、終わらして帰るから」 『うん、待ってる……』 三橋は沈んだ声で言って、「じゃあね」も「頑張って」も何も言わずに電話を切った。 スゲー胸騒ぎがしたけど、だからって仕事放り出して帰る訳にいかねーし。そっからは、休憩もほとんど取らずに無茶苦茶集中して仕事した。 上司に引き渡しまで済ませ、会社を出た時には9時を過ぎていた。 「急に悪かったね、1杯どうだ?」 気さくに誘われたけど、「人が待ってるんで」つってキッパリと断った。 今から帰るって三橋に早く伝えてやろうと、歩きながらケータイを取り出す。けど、電話帳を呼び出す前に、聞き慣れた高い笑い声が聞こえて――。 「きゃぁ、タカヤじゃーん!」 横から、跳ね上がった声で名を呼ばれた。 うっかり振り向いて、思いっ切り悔やむ。浮気相手の女が、両腕で両脇の男2人にぶら下がって、だらしねぇ笑みを浮かべてた。 「今帰りぃ? もうカノジョの為に早く帰るのやめたんだ? だよね、居心地悪いって言ってたもんね、今更モトサヤになんて戻れっこないよね〜?」 どうしてこの女は、人の図星突いてくんのがうまいんだろう。ひくっと頬が引きつる。 ムカついてイラつく。 歯ぎしりしながら睨みつけると、女は両脇の男たちを振り払い、オレの方に駆けて来た。 「ねー、今からうち行こう?」 ドン、と抱きつかれてぎゅうっとしがみ付かれる。嗅ぎ慣れた香水に混じって、酒のニオイが鼻につく。 「はっ……」 オレは自嘲に唇を歪めた。 なんで今まで、こんな誘いに乗っちまってたのか意味分かんねぇ。 「放せ!」 短く言い捨てて引き剥がすと、女は「もうー」と頬を膨らませた。 「冷たいの。まあ、そこがいいんだけど。攻略しがいがあるし」 酒のせいか、女はケラケラと陽気に笑って、「明日メールするー」つってオレに手を振った。 冗談じゃねーと思った。 苛立ちが募って、ぶるぶると手が震える。けど、今ここで女を追いかけても押し問答になるだけだろう。「じゃあゆっくり家で話そう」とか言われんのがオチだ。 それより今は――三橋の元に帰らねーと。 駅までの道を小走りに駆け、急いで改札を抜けて電車に乗る。 結局電話しなかったな、と、気付いたのはうちの前に着いてからだった。 玄関の戸を開けた途端、TVの音がやかましく聞こえて来てビックリした。 「おい、三橋?」 時計を見ると、もう10時。そんな壁の薄いマンションじゃねーけど、さすがに時間的に非常識だ。 「三橋、ボリューム下げろ!」 大声で呼びかけたけど返事はねぇ。 寝てんのか? それともまた出掛けてんのか? 慌てて靴を脱ぎ、中に入ると――三橋は大音量のTVの前で、ヒザを抱えて座ってた。 うるさくねーんかな? 顔をしかめつつリモコンを探し、ぶちんとTVを消してやる。 しんと静まったリビングにホッとする。 「近所迷惑だろ?」 声を押さえて注意すると、三橋はようやくオレに気付いたみてーに、のろのろとこっちを振り向いた。眉を下げ、泣きそうな笑みを浮かべる。 けど直後、大きな目を見開いて、ヒュッと鋭く息を呑んだ。 一瞬で青褪めた顔に、絶望の色が走る。 何だ、と思って視線を辿って、オレの方もビックリした。スーツから覗いてるYシャツの胸元に、べっとりと口紅が付けられてた。 さっき抱きつかれた時だ、と、女を呪ってももう遅い。なんで気付かなかった? 「違う、これは……」 オレは情けなく首を振った。けど、それ以上言葉が続かねぇ。 「……香水、いつもの、だ」 そう言って、三橋が唇をへの字に歪める。 「違う……」 オレはもっかいそう言って、三橋の顔を見た。もうウソも誤魔化しも通用しそうにねぇ顔だ、と、前にも思ったのを思い出す。 「ぶつかって来られたんだ。さっき、会社の前で偶然会って。そん時ついたんだろ、気付いてなかった」 抱き付いて来られた、とは言えなかった。しがみ付かれたとか。誘われたとか。わざとだろうとか。 『今更元サヤなんて戻れっこないよね』 女の言葉が突き刺さる。 いや、これもやっぱブーメランだ。 ずっと前に投げたモノが今頃になって戻って来て、オレたちに取り返しのつかねぇ傷を付ける。 「今日は、ホントに残業だった」 信じて欲しい、と思いを込めてキッパリ言うと、三橋はふっと口元を緩めて、「うん……」と力なくうなずいた。 笑ってるつもりだろうけど、笑えてなかった。 ちっとも信じてねぇんだなって、それだけはハッキリ伝わった。 (続く) [*前へ][次へ#] [戻る] |