小説 3 凍える夜・後編 急に部屋の温度が下がったような気がして、無意識に指先を口元に持って行った。 はあ、と息を吹きかけると、白い蒸気がほわほわと、束の間指先を温める。 それを見てると――昔の頃を思い出した。 ギシギシ荘。 建てつけが悪くて、歩くとギシギシ音がして。隙間風がピューピュー入って来る家だった。部屋の中にいても、吐く息はいつも白かった。 でも、不思議と、寒かったっていう覚えはない。 子供だったからか薄着だったし……小さなストーブは、あった気がするけど。 ストーブ。 エアコン直らなかったら、ストーブ買ってこようかな? 石油とかは面倒そうだから、電気ストーブ。 それとも、こたつ? どっちの方が温かいだろう? どっちの方が、阿部君は喜んでくれるだろう? そこまで考えて、そう言う問題じゃないな、と思った。 ギシギシ荘が寒くなかったのは、きっとみんなが温かかったから、だ。 ハマちゃんも、しょーちゃんもいて、子供たちみんな仲良くて。ひっついてた。温かかった。 笑顔だった。 お父さんも、お母さんも。 いつも一緒で、ひっついてて。そして笑顔だったんだ――。 なんだか着替えるのも面倒くさくて、スーツの上着をベッドに投げた。ネクタイを緩め、シャツのボタンを2、3外して、ベッドの脇に座り込む。 何かに背中を預けたかった。 ベッドは固くて冷たかったけど、オレを置き去りにはしなかった。 ……こんな考えが、ダメなのかな? 背中を預けたい、とか。寄りかかりたい、とか。 重かったのかな? オレ、負担だった? 「少しは自分で考えろよな」 こんなセリフ、今までに何度、阿部君に言わせちゃっただろう。 高校時代、配球では――阿部君だけに頼るのやめようって、約束して、それでちゃんとできたのに。 いつの間にかまた、阿部君にばかり面倒な事押し付けていたのかも。 事実オレは、エアコンの手入れ方法1つ知らなかった。説明書を読んだこともない。 直し方も分からなくて、修理にはどこに連絡すればいいか、そんなことも分からない。 メーカー? それとも先に管理会社? 迷った時、判断するのは決まっていつも阿部君で。オレはそれを聞いて、「分かった」ってうなずくしか、今までして来なかった。 「サイテーだ、オレ」 呟いて目をつむると、ぬるい涙が頬を伝った。 寒い。ガチガチと震える。でも、心が寒いだけなのかも。 今はそれより眠かった。頭の裏がキィンとする。まぶたが重くて仕方ない。 胸の奥が冷たくて、まるで氷の塊を、丸ごと飲み込んだようだった。 ふ、とラーメンとにんにくのニオイがした。 「……はし、みはし! ……」 阿部君がオレを呼んでいる。 厳しい声。 ああ、またキミを怒らせた。ごめん。情けなくて涙が出た。 「てめー、何で……で……てんだっ!」 阿部君の怒鳴り声。 ガクガクと揺さぶられて、何を怒られてるかよく分からない。 胸倉掴まれて……マウンドで、怒られた事、あったよね。 ふひ、と頬が緩む。 阿部君はいつも、オレのこと1番に考えてくれていた。 なのに、いつもオレが阿部君を怒らせる。オレは何かと、気が回らなくて。阿部君がして欲しいこと、しないで欲しいこと、気付けなくて、間違って。 怒られてばかりで。 ああ、ほら、今も。 「三橋っ!」 阿部君の怒鳴り声。 でも、それだけじゃなくて。パン! と頬を張られた。 「起きろ!」 パン! もう一度、刺すような痛みが反対の頬を襲う。でも、何で叩かれてるのか理解できない。 キョドるよりも頭が真っ白で、今、自分が起きてるのか夢なのか、それすらよく分からなかった。 のろのろと手を挙げて頬を覆うと、冷え切った手が、ひんやりと頬を冷やした。 目の前の阿部君は、鬼のような形相でオレを覗き込んでいた。 オレの胸倉をつかんで、右手を振り上げている。 うそ、また殴られる? 夢じゃない!? 「やあっ……」 とっさに両手で頭を庇うと、ため息とともに、掴んでた胸倉が放された。 「お前なぁっ」 阿部君がふと顔を逸らした。心底、呆れてるみたいな、そんな顔。なのに次の瞬間、ぐいっと抱き寄せられた。 温かい。 「んな格好で寝てんじゃねーよ! バカ! 部屋ん中だって、凍死するコトはあるんだぞ!?」 阿部君は耳元で怒鳴りながら、オレをぎゅうぎゅうに抱き締めた。彼に触れてるところ全部が、溶けてくみたいに温かい。 ひくっ、と喉が鳴った。 肩が震える。 何で怒られたのか、殴られたのか、まだよく分かっていなかったけど――阿部君が戻って来てくれた。抱き締められて温かい。それだけ分かれば十分だった。 「阿部君……っ」 「ゴメンな」 阿部君はそう言って、オレに久し振りのキスをした。 ピー、と電子レンジの甲高い音がして、長いキスが終わった。 「ちょっと待ってな」 阿部君は優しく頭を撫でた後、立ち上がって、電子レンジから何かを熱そうに取り出した。 「熱いから、気を付けて持てよ」 ゴトン、と床に置かれたマグカップには、ホットミルクが入ってた。 「今、風呂も入れっから」 阿部君はそう言いながら、何やら見慣れないダンボール箱を性急に開けている。 ふうふうと息を吹きかけて、ホットミルクを飲み込むと、喉から胃にかけて、また溶けるみたいに温かくなった。 温かくて、その温かいのが分かって、震えるくらい幸せに感じる。 はちみつなんて思いつかなかったのかな? 料理用の上白糖らしい、明確な甘さにホッとする。全部飲み終わったら……体の中からポカポカとしてきた。 マグカップに暖められた手で、そっと首筋や額を触る。温かくて冷たくて、その温度差は怖いくらいだ。 さっきから頭が痛かったのは、冷えたせいなんだ、と、ようやく分かった。 阿部君が開けたダンボールの中には、小型のスリムな電気ストーブが入ってた。カーボンヒーターっていうらしい。 ストーブの前しか温かくないけど、遠赤外線で、体の芯から温めてくれるんだって。 「ラーメン食って温まって、満腹になったら落ち着いてさ。寒くて空腹でイライラしてたみてーだ。八つ当たりしてるって分かってたのに、怒鳴っちまって。ごめんな」 阿部君はオレの後ろに座って、オレを両脚の間に抱き込みながら、そうして何度も「ごめん」って言った。 そういえば、エアコンの調子が悪くなってから――オレ達の仲も、おかしくなってた気がする。 「そうか、寒かった、のか」 オレはぽつりと呟いて、目の前のストーブに手をかざした。 ストーブは暖かいけど、阿部君に預けた背中は、もっと温かい。 「もっとオレに寄り掛かれよ」 阿部君が、オレの上体をぐいっと後ろに抱き寄せた。 「ストーブのが暖けーからって、前のめりになんなよな」 拗ねたように言うのが、何て言うか、すごく可愛くておかしかったから――。 「今度、交代!」 オレはパッと立ち上がり、阿部君の後ろに回って、その広い背中に抱き付いた。 阿部君の背中は、ちょっと冷たくなっていた。 「うお、お前、暖けぇ!」 阿部君が楽しそうに言った。 きっと笑ってる。オレも笑ってる。ああ、こんな感じだったと、ギシギシ荘の思い出がよみがえる。 阿部君の背中が冷たい時は、こうして温めてあげればいいんだ。そしてまた、オレの背中が冷たくなれば、逆に温めて貰えばいい。 きっとこれからも、オレは阿部君を頼って寄り掛かってしまうんだろうけど。逆に、阿部君に寄り掛かられるときは――全力で支えてあげると約束しよう。 それがきっとオレ達が、2人でいる意味だと思うから。 (終) [*前へ][次へ#] [戻る] |