小説 3
凍える夜・前編 (社会人・同棲) 百蒼様へ@
エアコンが壊れた。
それは、2月半ばの事だった。
最近、効きが弱いな、とは思ってたけど……今日はもう、30度に設定しても、冷風しか出て来ない。
残業して、お腹すかせて、へとへとになってたのに、部屋まで寒いなんてあんまりだ。
「てめー、フィルター掃除したことねーだろ!?」
先に帰ってた阿部君が、お風呂場から出て来てオレに怒鳴った。
「お前がマメに掃除しねーからそうなるんだよ!」
って。
阿部君は、ワイシャツのままで腕まくりして、真っ黒になった歯ブラシを握り締めていた。
会社帰りで疲れてるのに、フィルター掃除をやってくれてたみたいだ。
オレは、フィルター掃除なんて言葉も初耳で、何をどうすれば、どこを掃除できるのさえも知らなかった。
「説明書読め!」
阿部君が、取扱説明書を本棚から出して来て、オレにバサッと投げつけた。
「ごめん……」
何も知らなくて、謝ることしかできなかった。
知ってたんなら、もっと早くに「掃除しろよ」って教えてくれればよかったのに――とは、言えなかった。
阿部君だって掃除しなかったんじゃないか――なんて、余計に言えるハズもない。
怒ったままの阿部君が、無言でフィルターを元に戻した。そのままスイッチを点けるのを、祈るような気持ちで見守った。
でも……5分経っても10分経っても、エアコンは冷気を吐きだすだけだった。
はー、と阿部君がため息をついた。
息が白い。
「やってらんねー」
吐き捨てるように言って、阿部君は自分の部屋にズカズカと入って行った。
その壊れたエアコンは、オレ達が一緒に暮らすこのアパートに、元から付いてたエアコンだった。
2LDKのリビング部分に1つ、最初から付いてる代わりに、他の場所にエアコン設置禁止――つまり、壁に穴を開けてはいけない――そういう条件付きの物件だった。
だからオレ達は、エアコンの無い2部屋をそれぞれの荷物置き場にして、ベッドはこの広いLDKにでーんと置いて、生活してる。
ケンカした後は気まずいけど、でも、ずっとそれでやってきた。
これからも、やっていけると思ってた。
オレは寒かったけどコートを脱いで、何か作ろうと冷蔵庫を開けた。
阿部君もお腹空いてるだろう。温かい物を手早く作って、一息ついて欲しかった。
冷凍ご飯があるから、野菜たっぷりの雑炊でも作ろう。白菜とほうれん草をざっくり刻んで、土鍋の中に放り込む。
後ろで、カチャッとドアが開く音がしたから、振り向かないで声を掛けた。
「すぐ雑炊作る、から。座って待って、て」
「………ろ」
阿部君が、ぼそりと返事した。
一瞬、聞き違いかと思って、包丁を握る手を止めた。
――1人で食ってろ。
阿部君が今、そう言ったような気がする。
玄関で音がして――何で玄関? そう疑問に思いながら、包丁持ったまま足を向けたら、そこにはやっぱり阿部君がいて。
靴を履いていた。
さっき着てたのとは違う、ワイシャツにスーツで。違うネクタイで。コートを着て。通勤カバンと、キャスター付きトランクを持っていた。
「ど、こ、行くの?」
震える声で訊いたら、阿部君はオレを冷たい目でちらっと見て、ふいっと顔を背けた。
「どこ、行く、のっ?」
返事はない。
アイボリーの鉄扉が、ぐいっと押し開けられ、びゅうっと風が入って来た。風と入れ替わりに、阿部君が出て行く。
「阿部君!?」
オレを部屋に置き去りにして――ガッチャンと重い音を立て、扉が閉まった。
訳が分からなかった。
オレを我に返らせたのは、電子レンジの甲高いピーッという音だった。
のろのろとキッチンに戻り、包丁を置いて、解凍のすんだご飯を土鍋に入れる。
水と白だしを適当に入れて……でも、コンロに火を点けられなかった。手が震えた。
だって、阿部君が出て行った。どこに行くとも言わないで。
不安で不安でたまらなくて、食欲も何だかなくなった。
今までもケンカは何度かしたし、阿部君がぷいっと出て行っちゃうことは何度もあった。
そういう時、行き先は大抵、駅前のラーメン屋さんか、近所のコンビニで……1時間もすれば、缶ジュース1本お土産にして、この部屋に帰って来てくれた。
昨日もそうだった。
先に帰ったオレがご飯の支度を始めてなかったって、阿部君を怒らせちゃった。お米を研いでもないのに、オレが、1人でメロンパン食べてたから。
「てめー! オレが腹減らして帰って来たってのに、メシの支度もしねーで、菓子パンかよ!?」
オレはメロンパンを半分残し、慌ててキッチンに立った。
「ご、ごめんね、今、用意する」
スーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩め、ワイシャツを腕まくりして、手を洗って……冷蔵庫を開けた時。阿部君が言った。
「もういい!」
って。
「うんざりだ!」
って。
そしてオレを置いて、1人で部屋を出て行っちゃったんだ。
あのね、オレもね、さっき帰ったばかりだったんだよ。
今日は色々立て込んでて、お昼休みが取れなかった。朝ご飯の後、何も食べてなかったんだ。
何かお腹に入れないと、ご飯作る元気もなかったんだよ……。
聞いて貰えなかった言い訳は、オレの胸に降り積もり、融けることのない灰になって、足元に溜まった。
でも1時間後、阿部君はラーメンとにんにくのニオイをつけて、ここに戻って来てくれた。
お土産は無かったけど、「ごめん」って謝ったら「もーいーよ」って許してくれたから、オレはそれだけで十分だった。
でも……今回は違うかも知れない。
どう考えても、ラーメン屋に行く格好じゃなかった。コンビニでもないし、公園でもない。
実家かな?
それ以外、考えられないんだけど。
明日になったら、帰って来てくれるかな?
明後日かな?
オレ達、エアコンみたいに――簡単に壊れたりしないよね?
(続く)
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