小説 3
メダリオン・8
人魚のいない朝は、初めてだった。
オレは青ざめながら、いつも一緒にメシを食う場所に座り、人魚が顔を出すのを待った。
昨日の今日だから、きっとこっちには近寄り辛ぇだろうと思って。
もし、ずっと離れた岩壁の間近に、ためらいがちに顔を出すなら、「こっち来いよ」って笑顔で言ってやろうと思って。
そして、「昨日はごめんな」って謝って、許して貰えるなら抱き締めてぇと思ってた。
来て貰えねぇなんて、思ってなかった。
顔も見れねぇなんて。
ちゃぷちゃぷと波音がする度に、何度も目をやった。
何度も確かめて、洞をうろうろ歩き回って、落ち着かない1日を過ごした。
後5日しかねぇのに。
オレは何をやってんだろう?
何であんなこと言っちまったんだろう?
見殺しとか。
あいつが悪い訳じゃねーのにな。
次の日も、そのまた次の日も。人魚は姿を現さなかった。
オレは何度も海面を確かめ、人魚がいないのを確かめて、そしてゆっくり絶望した。
大声で呼ぼうとして、名前も聞いてなかったことに気付いた。
だって、ここにはオレの他にあいつしかいなくて、「あいつ」とか「お前」とかで事足りてたんだ。
人魚がいなくなって、ここは、オレ以外に誰もいない、閉じた空間になった。
ちゃぷちゃぷと波音だけが響く。
天井に空いた穴から、垣間見る外の世界。
空は高く、青く、オレとはひどく無関係に思えた。
上から差し込む光に、もう、誰の髪もけぶらない。
死への恐怖は、皮肉な事に薄れていた。
切なさと寂しさの方が、勝っていた。
誰とも一言も口をきかねぇって事が、こんなに参るもんだったなんて。
起きてんのか、寝てんのか、もう自分でも分からねぇ。
夢の中だけで、人魚に会えた。
珍妙な鼻歌を聞いたような気がして、がばっと身を起こした。
朝になっていた。
慌てて立ち上がって、海を見たけれど、やっぱり人魚はいなかった。
空耳……?
「は、はっ」
無理矢理笑おうとしたけど、笑えなかった。
13日目。今日を入れて、後2日。
身を乗り出して、海を覗き込んで見た。
何度見ても、よく分からねぇ。ここまでは、上からの光が届きにくいかんな。
かなり深そうではある。
上から覗いて分かるのは、下の方がぼんやり明るいって事くらいだ。
外海に繋がる穴だろう。
やっぱ海は外と繋がってて、その穴はそうデカクねぇって、人魚は言ってた。
前に、どんくらいの大きさかって訊いたら、人魚は言ってたっけ。
『んとね、イルカは、通れない』
『わっかんねーよ、その大きさ』
そう言ってオレは、笑ったっけ。呆れたっけ?
人魚がいつも座ってた岩に、人魚のように座る。
鼻歌を歌いながら、尾で海面を叩く様子を思い出す。
流れた涙をを誤魔化すように、オレは初めてこの海に潜った。
深い。そして、暗い。
一度顔を出し、大きく深呼吸して、もう一度潜る。
けど、穴に辿り着くのが精一杯だ。
体がうまく沈まねぇ。もしかして、筋肉が落ちてるか?
そう思って振り向いて、ぎょっとした。
とっさに息を吐ききっちまって、海水を飲みかける。
水面に戻って、ゲホゲホと咳き込む。マジダセェ。
やっぱ、海水ちょっと飲んじまったみてぇだ。喉が痛ぇ。咳が治まらなくて、一旦、岩辺に上がる。
ゴクゴクと牛乳を飲み干し、口元をぬぐって、今見たものを思い出す。
骨だった。
折り重なるように捨てられた、大量の人骨。
そういや人魚が、前に言ってなかったか。この下は骨だらけだって。
生贄を欲しがるバケモノが、食い散らかした跡なのか? 骨は口に合わねぇってか?
けど、おかしい。あの骨は変だ。
オレは海神の祠からロウソクを1個失敬し、火を点けた。
それに大きな牛乳瓶を逆さに被せて、左手に持って、もっかい海に入った。
ドプンと静かに下に潜る。
人骨をよく見るために。
(続く)
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