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三橋君とクラブハウス
午後の学生実習を終えて、白衣のままで部室に行くと、珍しく誰もいなかった。
部室の鍵は全員が持ってる訳じゃない、から、持ってる人は持ってない人の為に、鍵を開けとく必要がある。
特に盗られるものもないとは思うんだけど、去年、クラブハウス棟で盗難が相次いだらしくて、そういうのが厳重になったんだって。
野球部で盗られて困るって言ったら、置きっぱなしになってるバットとかグローブくらいだ。でも、それだってOBさんが置いてった不用品の予備、だし。
個人用にはロッカーもあるし。それさえしっかり鍵かけてれば、部室に施錠はいらない気がする。
けど……クラブハウスの防犯は大学側からの指導だったから、経営者の身内のオレが、率先して指導に逆らうって訳にもいかない。
多少の不自由は申し訳ないけど、いちいちカギを掛けようってことになっちゃった。
うちと、阿部さんちと、それから部室、と。3つの鍵のぶら下がったキーホルダーを、ポケットからチャリッと取り出す。
鍵を開けて、誰もいない部室に入ると、こもった空気がもわっと臭った。
煙草吸う人がいないから、まだ結構マシな方だと思うけど、汗のニオイかな? 結構クサイ。
荷物を置いてさっさと窓を開けると、ふわっと風が入って来て、ちょっと肌寒いけどホッとした。
しばらく窓辺でそうしてると、数人の足音がバラバラと聞こえて、「ちわッス!」と元気な声が響いた。
振り向くと、2年生の後輩2人だ。
当たり前だけど、2人ともここの鍵を持ってない。
「先輩がクラブハウス入るの見えたんで。実習終わったんですか?」
「う、ん。今日は、すぐだった」
オレは後輩に答えながら白衣を脱いで、部室の隅にあるキャスター付きハンガーに、脱いだ白衣を吊るした。
白衣なんて盗る人はそれこそいないから、ロッカーにも入れない。
わざわざ置き白衣するのは、昼休みに部室に寄る習慣づけの為……とか先輩達には聞いてたけど、ホントのところはどうなの、かな?
でも、少なくともシワシワにはならなくて助かってる、かも。
後輩を見ると、談笑しながらもう練習着に着替え始めてて、熱心だなぁって嬉しくなる。
「キャッチして来ます!」
そう言って飛び出してく2人が、ちょっとうらやましい。
オレも去年まではそうだった。
鍵を預かるって、前みたいにそうやって、グラウンドに飛び出して行けないってことなんだ。
ため息をつきながら、もそもそと練習着に着替えてると、そのうち他の部員も集まって来た。1年生も数人混じってる。
午後は実習か授業のどっちかなんだけど、授業なら4時間目まできっちり時間割が組まれてるから、授業終わってすぐに集まっても4時だ。
「よー、三橋。今日は早ぇーな」
授業を終えた花井君も、皆と一緒に入って来た。
「うん、オレ、1番だった」
「実習、何だっけ?」
「生薬。今日は、生薬当てクイズだった、よ」
と、そんな話をしながら、部活を始める準備する。
グラウンドに出ると、1年生の1人がオレを待っていた。
「三橋先輩、あの、あとで投球練習のペアをお願いできませんか?」
そう言うのは、すっかり定着してしまったキャッチャー志望の子だ。まだ正式入部まで期間があるのに、すっごいやる気を見せている。
彼の熱心さに煽られるように、他にも5人くらいの1年生が、毎日顔を出してくれてた。
先輩、先輩、って慕われるのは嬉しいけど照れ臭い。
高校の時って、修ちゃんが一緒だったし。後輩から慕われるのは、どっちかっていうと、修ちゃんだった。
オレが「いい、よ」とうなずくと、1年生捕手は「やった」と素直に笑ってた。けど――。
「ダメだ、それじゃお前の練習になんねぇ」
そう言って、花井君があっさりと却下しちゃったんだ。
「うえ? なんで?」
オレと一緒だと、練習にならない?
キョトンとして訊くと、「お前も甘やかすな」ってぽこんと頭を叩かれた。
なんでかって思ったら、オレのコントロールが良すぎるから、だって。
構えたところにドンピシャに来るから、捕球の練習には向かないって――えー、そ、そんなことあるの、かな?
「つーか、オレが怒られるんだよ」
花井君はぼそぼそ言ってたけど、えー、誰が花井君を怒るの、かな? 先輩?
色々気になってたんだけど、結局すぐに練習が始まっちゃって。花井君とゆっくり話すことができなくて、その話はそこで終わった。
阿部さんならどう思うだろう?
でもバイト中、その話を切り出す前に、オレが他のお客さんに声をかけられちゃった。
「安中散あるかな?」
「は、はい」
返事をしながらカウンターの中を移動して、胃薬コーナーの前に立つ。
ホント言うと、漢方薬の名前にはあまり自信がないんだけど……「安中散」は今日習ったばかりだったから、すぐ分かった。
「胃薬、です、ね」
ケイヒとかカンゾウとか……とにかく、幾つかの生薬を配合してる胃薬、だ。
今日の午後は、「安中散」の中に含まれるケイヒとウイキョウとカンゾウを、すっごくいっぱいの種類の生薬の中から選び出すっていう実習をした。
クイズといえばクイズ、なの、かな?
形や色、ニオイ、それと味とで判断して、1個ずつ選んで記号を書くんだ、けど。予習をしていかなかったから、正直、カンゾウ以外は分からなかった。
カンゾウは茶色くて小さくて、なんか見すぼらしい根っこの乾燥させた物だったけど、齧るとほんのり甘いんだ。甘い根っこは1個しかなかったから――。
――と、そこまで思い出した時。
「あっ……」
白衣を、カバンに入れっぱなしだったのに気が付いた。
明日は土曜で、今学期最初の練習試合、で。
だから前々からの約束通り、今日は阿部さんちにお泊りなんだ、けど。えーと多分、明日もそのままお泊りだよ、ね?
じゃあ、家では洗えそうにない、し。
白衣……あまりキレイなものじゃない、けど、阿部さんちで洗わせてくれる、かな?
安中散をレジに打ち込み、「1580円です」って接客を続けながら、オレは阿部さんの方をちらっと見た。
阿部さんは、オレの接客ぶりをじっと真顔で眺めてて―― 一瞬目が合って、ドキッとした。
(続く)
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