Season企画小説
失敗のフェードアウト・2
まず頭に浮かんだのは、「逃げなきゃ」ってことだった。
けど、オレが1歩後退るより、阿部君がオレに手を伸ばす方が早かった。腕をぐっと掴まれて、「どこ行くんだよ?」って不機嫌そうに尋ねられる。
「逃げるつもりか?」
ズバッと訊かれて、ドキッとした。
さすがに正直にはうなずけなくて、阿部君から目を逸らせないまま、ふるふると首を振る。
阿部君はそんなオレにニヤリと笑って――コンビニ袋をぶら下げた手で、オレの頬を軽く撫でた。
「逃がさねーよ?」
目を覗き込むように告げられて、ゾクッとする。
真っ黒なその目から、視線を逸らすのはすごく勇気がいった。
「お、オレ、コンビニ……」
「だから、コンビニはもう行ったって」
必死でひねり出した言い訳も、全部言わない内に否定される。耳のすぐ横でカサッとコンビニのレジ袋の音がして、ドキドキが止まらなくなった。
「け、ケーキ……」
「ケーキも買ったし、飲み物も買った。ほら」
ほら、と促されて恐る恐るレジ袋の中を覗き込むと、2個入りのショートケーキや数本のペットボトル、スナック菓子なんかに混じって、カラフルな長方形の箱が見えた。
ろくに知識がないオレにも、それがゴムの箱だと分かる。高3の冬に、何度も阿部君に見せられたからだ。
その時の恐怖を思い出し、ぶわっと立つ鳥肌。
ひっ、と小さく息を呑むと、アゴを捉えられて上向かされた。
ちゅっ、と唇にほんの軽いキスを落とされて、息が詰まる。
ここ、外なのに。そう思って身を引こうとしたけど、頭の後ろに大きな手のひらを当てられて、とっさに身動きできなかった。
「お前の部屋、行こーぜ」
顔を覗き込まれて、アパートの階段をアゴで指される。
「で、も」
ちゅうちょすると、「人が来るぞ」ってこそりと言われた。
「オレはいーけど、お前はイヤなんじゃねーの? キスするとこ見られんの」
ふふんと見透かしたように笑われ、じわじわと顔が熱くなる。
野球部の仲間に見られたくないとか、そういうのはやっぱあって、阿部君の言葉を否定できない。
「ほら、中入ろーぜ」
再び促され、ギクシャクとうなずく。
アパートのオレの部屋の前には、阿部君のだろう荷物が堂々と置かれてて、部屋も知られてるんだって分かって、ドキッとした。
逃げなきゃって、やっぱり思う。
なのに手が勝手に動いて、ポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開けてしまった。
オレのためらいを見抜いて、阿部君が強く背中を押してくる。
部屋に入るなり、ぎゅっと強く抱き締められて、1年半ぶりの彼の温もりに、どうしようもなく胸が痛んだ。
怖いとか、ダメだとか、思ってるのも確かなのに、会えて嬉しいって魂が震える。
「会いたかった」
抱き竦められたまま、耳元に告げられる言葉。逃げたオレには、「オレも」なんて口にする資格ないけど、突き放すだけの勇気ももうなかった。
深くキスされて、久々の感触にヒザが抜ける。
とっさにしがみつくと、キスの合間に阿部君がふっと笑った。
「なあ、いーよな?」
腰に腕を回されて、支えられ、しっかり立たされる。
「20歳まで待ったんだし、もういーんだよな?」
そう言う阿部君の顔はにこやかに笑ってて、でも目が笑ってなくて、なんだか怖い。
一線を越えること自体も怖いけど、何より阿部君の目が怖い。逃げ場所のハズのここを、とうに知られてた事実も怖い。
掴まれたまま、放して貰えない左腕。
持たされたレジ袋が、小さく揺れて音を立てる。
一方の阿部君は、冷静なまま、で。
「相変わらず散らかった部屋だな」
オレの部屋をざっと見回し、くくっと笑いながら、またオレの顔を覗き込んで頬を撫でた。
「でも、必要なのはベッドだけだし、どーでもいーや」
ベッド、って単語にドキッとする。
ベッドで何をするのか、分かんないなんて言えない。
オレの部屋を、我が物顔で進む阿部君は、同じくオレのベッドに近付き、遠慮なく布団をめくり上げた。
あっ、と思う間もなく、ベッドに引き倒されて上から覆い被される。
阿部君は満足げに笑みを浮かべてて、そのままオレに顔を寄せた。
「待っ……」
「もう十分待っただろ」
セリフを途中で奪われて、唇をキスで封じられる。キスしながらくくっと笑ってる阿部君は、ひどく機嫌よさそうで怖い。
「言ったよな、20歳になったら、って。待ってやっただろ?」
まっすぐ目を合わされ、強く言われると、うなずくしかできない。
もう逃げられないって思った。
同時に、もう逃げなくていいんだ、とも思った。
阿部君のために逃げたハズなのに、阿部君に追いかけられ、追い詰められて、嬉しいって思ってる自分もいる。
もう逃げたくない。けど、この先どうなってしまうのか、自分でも分かんなくて不安で怖い。
阿部君が怖い。阿部君が好き。一緒にいたい。でも、変わらずにいられる自信がない。
自分の気持ちが分かんなくなって、頭の中がいっぱいになって、ぽろっと目から涙がこぼれる。それをべろっと舐め取って、阿部君が優しい顔で囁いた。
「何も考えなくていい」
って。
「オレに全部任せりゃ、そんでいーよ」
って。
「お前は考え過ぎるんだよ。もっと単純に、愛し合おーぜ」
散らかったオレの部屋の中に、くくっと阿部君の笑い声が響く。
こわばってた体からゆっくり力を抜いてくと、右手を握り締めたままだったことに気付いた。
コンビニの白いレジ袋が、枕元に転がってるのを感じる。
きっと、ショートケーキも中でひっくり返ってる。
けど、それを確かめる余裕はなくて――シャツの中に、阿部君の手が差し込まれた。
(続く)
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