Season企画小説
さよならが降り積もる(Side M) 4
阿部君が銀の指輪を買ってくれた。
「中指用な」
と、照れながら言った。右手じゃ投球の邪魔になるし、左手の薬指なんて意味深過ぎるし……。そう言って、左手の中指に阿部君がはめてくれた。阿部君の同じ指にも、同じ指輪が光っていた。
付き合ってちょうど一年になるんだって、そのとき初めて気付いた。記念日だったんだ、って。
ごめん、オレ、何も用意してない。そう言ったオレに、「いいよ、別に」と阿部君は笑った。
でもオレ記念日忘れてたなんて。謝る俺の肩を抱き、「じゃあ、お前からのプレゼントはベッドで貰う」って、キスされた。
激しい夜だった。でも幸せな夜だった。
その日だけじゃなくて、毎日、毎晩、幸せだった。
阿部君が指輪を外したのは、2年生の秋ぐらいだったかな。実験で薬品を使うから、貴金属はダメなんだって言ってた。金やプラチナなら大丈夫だけど、銀だから酸に負けるって。白く濁ったり、溶けたり、イヤだからって。
でもその実習の期間が終わっても、阿部君は指輪を戻さなかった。
ホントは、別の理由もあったって、オレ気付いてた。オレもきっと、同じだったから。
オレの場合は、すぐに真っ赤になるし、どもるし、田島君のフォローのお陰もあって、からかわれることは少なかったけど。でもやっぱりちょっとは言われたんだ。「男に指輪とか、お前のカノジョは、束縛激しいのか?」って。
阿部君は照れ屋だから、からかいの種を身に着けておくなんて、到底できないよね。だからオレ、言わなかった。指輪はめないの?……って。
言えば良かったかな? 言えばずっとはめててくれたかな? それともやっぱり、またすぐに外したかな?
外した指輪、ちゃんとしまっててくれてるのかな? どこにあるかとか、分かっててくれてるのかな? 「見たい」って言ったら、すぐ見せてくれるかな?
……失くしてしまったり、してないかな?
そんな話をして、ウザがられるの、怖い、な。
オレはずっとはめっぱなしだった、自分の指輪を抜こうとした。でも指が太くなってて、簡単には抜けなかった。
一度抜いたら、はめられなくなる?
ちらっと脳裏に浮かんだのは、余計な心配。
オレはハンディーソープをたっぷりとかけ、泡立ててなじませた。どこかで聞いた豆知識は役に立った。
「ふ……抜けちゃった、な」
誰もいないキッチンで、独り言を呟く。
今夜も阿部君は、帰りが遅い。
自主練を終えて、ロードワークを長めにしても……やっぱりオレの方が、帰ってくるのは早かった。
食生活に気をつけることは、プロを目指すオレの自己責任の一つで、大学のトレーナーが用意してくれた献立表を見ながら、ご飯を作るのが日課だった。始めは阿部君と一緒に作ってた。でも阿部君が忙しくなってからは、ずっとオレが作ってた。作ってても食べてくれなくなってからは……作るのをやめた。
今日も、田島君ちでご飯を食べた。田島君と一緒に作り、一緒に食べた。一緒にごちそうさまをして、一緒にTVを見た。
ラーメンの日以来、田島君はオレに阿部君の話題を振らなくなった。家に帰りたがらないオレを、黙って部屋に上げてくれた。
もしかして阿部君も一緒かな、って思うようになった。オレと同じで、この2LDKに帰りたくないのかな。それって、オレのせいなのかな?
オレが待ってても帰って来たくないのかな?
オレが待ってるから、帰って来たくないのかな?
オレは、どうして帰りたくないのかな。
オレは外した指輪を、コトンとダイニングテーブルに置いた。
阿部君がこれに気付いて、何か言ってくれる事に期待した。ちょっとは焦ってくれるかなって。ドキッとしてくれるかなって。
それが、会話のきっかけとかになってくれればいいなって。
しばらくして、阿部君が帰ってきた。
オレは冷蔵庫の方を見て、「お帰り」と言った。阿部君は「あー」と答えて、そのまま部屋に入って行った。
あれ、全然気付いてくれなかった?
ぼんやり阿部君の部屋の方を眺めていたら、ドアが開いて、阿部君が出てきた。
オレは慌てて冷蔵庫を開け、中を覗いてるフリをした。
今に何か言われるか、何か言われるかと緊張した。
「おい」
阿部君の声に、飛び上がる。
「はっ、はい!」
上擦った声で返事をすると、グイっと体を押し退けられた。そして言われた。
「そこ、邪魔」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、パックのまま飲み始めた阿部君の背中を、オレはただ、黙って見つめた。
阿部君はダイニングテーブルに牛乳を置き、オレの方をちらっと見て、お風呂に入って行った。牛乳の横には、指輪が置いてあったのに。
気付かなかったのかな、それとも気にしてないのかな? 気付いたとしても、もうどうでもいいのかな?
十分もしないうちに、阿部君が出てきた。タオルで頭を拭き拭き、キッチンを横切る。そしてテーブルの上を見て、言った。
「牛乳、しまえよ」
指摘されてびくっとした。指輪のことに意識が行っちゃってて、いきなり話しかけられた事に、あわあわした。
そんなオレを見て、阿部君が舌打ちした。
指輪には目もくれず、牛乳を冷蔵庫に入れて、乱暴に扉を閉める。
バン! 大きな衝撃に、中のビン類がキランカランと音を立てた。
また怒らせた。なんでこうなんだ。
せっかく話しかけてくれたのに、会話できないの、もしかしてオレのせい?
ふいに涙があふれて、オレは下を向いた。ポタポタポタ、と床に音を立てて落ちていく。何か言いたいのに、何も思い浮かばなくて、唇はただわなないて、もう笑うこともできなかった。
ねえ、こんなとき阿部君は……オレを抱き締めて……頭を撫でて……だ、抱き、締めて…………。
大きなため息が聞こえた。
「お前さ……」
阿部君が言った。
「泣いたりすんの、もうちょっと我慢できねーの?」
オレ、我慢できてないかな?
オレ、我慢できてなかったかな?
もっと我慢しなきゃいけないのかな?
オレ、我慢してたと思ったけど、足りなかったのかな?
まだ足りないのかな?
何が足りないのかな?
何を我慢するのかな?
我慢しなきゃいけないのかな?
……もう、ムリだ。
さよならが降り積もる
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