Season企画小説 リラックスコーヒー (2014コーヒーの日・店員阿部×プロ選手三橋) その喫茶店を見つけたのは、ほんの偶然だった。 オレは、ホームでの先発登板を明日に控え、投球練習を抑えてて。 球場の練習場だと投げたくなるし、ジムにいても気が乗らないし、トレーニングをサボる度胸もないしで、仕方なく外にロードに出た。 車や自転車なんかには気をつけなきゃいけないけど、そうやってロードワークに出るのは、昔から好きだ。景色はいいし、気分転換にもなるし。 右手にボールを握ったまま、入念にストレッチして出発した。 ボールを持って走るのは、握力を鍛えるためと、ボールの感触を忘れないためだ。 毎回やってることだし、落としたこともなかったんだけど――今日に限って、なんでかふいに、ぽろっと手の中から転がり落ちた。 「うわっ、うえっ」 慌てて振り向いても、ボールは勝手に止まってくれない。てんてんと弾んで、脇道の方に転がって行く。 ボールにまで見放された、と一瞬ネガティブになったのは、ここのところ思うように投げられてないから、だ。集中できてない。 いや、勿論全敗って訳じゃないし、先発ローテにも入れて貰ってるし、この間も投げたし、明日も投げる、けど。 でもどうにも調子が出なくて、明日もちょっと不安だった。 そこへ来て、このボールだ。 「もう、やだ、なぁ……」 マウンドの上で、うっかりぽろっと落としちゃうフラグかな? ノーアウト2、3塁でボークとか、シャレにならないんだけど。 はぁ、とため息をつきつつ追いかけると、ボールは誰にも拾われないまま転がって、小さな看板の足元で止まった。 その看板には、「珈琲」って漢字で書かれてて。 ボールを拾い上げた瞬間、ふわっとコーヒーの、いい匂いがした。 普段からよく走ってる道なのに、ちょっと脇道に逸れただけで、新たな発見ってあるんだな。 何となく誘われて、そのままカランとドアを開ける。店内はあんま広くなくて、少し暗めで落ち着いた感じだ。 カウンター席が幾つかと、ソファ席が4つ。カウンターには新聞読んでるお客さんが座ってたから、オレは隅っこのソファ席に座った。 何気なくドスンと座って、うおっと思う。見た目は普通の革張りっぽいのに、すごく柔らかくて体が沈んだ。 ソファに埋もれたままぼうっとしてると、目の前のテーブルに水が置かれた。 「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか?」 響きのいい低い声に促され、「うえっ」と慌ててメニューを探す。 しまった、ぼうっとしてる場合じゃなかった、よね。けど、テーブルの隅を見ても、メニューブックらしき物がない。 「め、メニュー、は……」 店員さんに尋ねようと顔を上げると、その人の肩越し、カウンターの上の部分に、メニューが並んでるのがようやく見えた。 「あっ」 あった、と思って口を開けて、でも、ついそのまま固まってしまう。すごく種類が多かった。 ブレンド、アメリカン、エスプレッソ、カプチーノ、シナモンコーヒー、ウィンナーコーヒー、モカ、キリマンジャロ、ブルーマウンテン、コロンビア……。 えっと、アメリカンは薄いんだっけ? カプチーノってどんなんだっけ? シナモンコーヒー? ウィンナーコーヒーは聞いたことあるけど……。 ぐるぐる考えてたら、くくっと笑われた。 ハッと目を向けると店員さんが真横に立ってて、目尻の垂れた目でオレを見てる。 口、開けっ放しなのに気付いてそっと閉じると、「何にします?」って穏やかに訊かれた。 何にします、って言われても、困る、し。 メニューと店員さんとをキョドキョド見比べてると、「ははっ」と笑われて、カーッと顔が赤くなる。 もう、ホント、ついてないと思った。 赤面し過ぎて暑くなっちゃったから、冷たいモノにしよう。コールドドリンクのメニューも色々並んでるみたいだけど、『アイスコーヒー』しか、もう、目に入らない。 「ア、イスコーヒー」 つっかえながら注文すると、「はい」っていい声でうなずいて、店員さんはカウンターに戻って行った。 テーブルに置かれた水を飲んで、はーっ、と深いため息をつく。 ただの氷水じゃなくて、ほんのり柑橘の香りがして、小さい店なのにシャレてるなぁと思った。 店内はうるさくない程度にジャズ音楽がかかってる。 平日のお昼前だからか、客はオレを入れて2人だけ。 カウンター席のおじさんの、新聞をめくる音がペラッと響く。カウンターから聞こえるのは、カタッとかチリンとかのわずかな音。 そして……コーヒーの匂い。 「お待たせしました」 店員さんの声にはビクッとしたけど、恐る恐る視線を向けると、優しい顔で笑ってた。 「ごゆっくりどうぞ」 深みのある声にうなずいて、ストローに手を伸ばす。 シロップとミルクをたっぷり入れて一口飲むと、ほろ苦いのにスッキリで、味が濃くて、シロップにもミルクにも負けてなくて、美味しかった。 こんなアイスコーヒー飲んだの、初めてかも。 店内に漂うコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込んで、はぁー、と大きく息を吐く。 ソファにもたれると、背もたれも柔らかくて、包み込まれるみたいだ。 静かだから? 明るさが抑え目だからかな? さっきキョドリまくったのが、ウソみたいに落ち着く。 人目とか、気にしなくていいから、かも? 冷たいアイスコーヒーが、ノドから胃の中にするんと落ちて、余分な熱を取ってくれる。 なんだか飲み干してしまうのがもったいなくて、でも美味しくて、1口1口味わって飲んだ。 やがて、カウンターに座ってたおじさんが、バサッと新聞を閉じた。 「阿部君、お勘定」 おじさんの声に、さっきの垂れ目の店員さんが「はい」と答えて、布巾を置いた。阿部君、っていう名前なのか。 つい目で追ってると、阿部君はレトロなレジの前に立ち、響きのいい声でオジサンに言った。 「400円です」 「んー」と応じるおじさんの声。 カラン、と入り口の戸が開いて、コーヒーの香りがふっと薄れた。 店内には、2人きり。 ぼうっと見てると、目が合った。ハッとした瞬間、キリッと濃い眉を優しく緩めて、阿部君が笑った。 「お代わりどうですか、三橋さん?」 「あっ、いえ、いい、です」 とっさに断ってしまったのは、ビックリし過ぎたからだ。 それに、これ以上彼と2人きりでいたら、ドキドキし過ぎて、せっかくのリラックスが台無しになってしまいそうだった。 名前を呼ばれた、と気付いたのは、ワンテンポ遅れてからのことだ。 「あ、の、名前……」 すると阿部君は破顔して、真っ白い歯を見せて「ははっ」と笑った。笑うと目尻がますます垂れて、でも眉はキリッとしたままで、爽やかで格好いい。 「そりゃ知ってますよ、ファンですから」 って。カウンター越しに笑いかけられて、ドギマギした。 「ど、どう、も」 ギクシャクと礼を言うと、阿部君は優しい声で。 「いつでも応援してますよ」 って。 ファンの人と触れ合う機会なんて、たくさんあるハズなのに。みんな「応援してますよ」とか「頑張って」とか言ってくれる、のに。 なんでだろう、こんなに照れ臭い思いをしたのは、1軍に上がって以来、だ。じわっと顔が熱くなる。 「オレ、最近なんかイマイチ、で」 言い訳するようにごにょごにょと言うと、「んなことないですよ」って言われた。 「三橋さんは、いい投手ですもん。もっと落ち着いて、自信持って投げりゃいいんですよ」 ――いい投手。落ち着いて。自信持って。 阿部君の言葉が、胸の奥にずーんと響く。 リップサービスだろうな、とは思うけど、なんでかいつもより嬉しくて、力が湧いて来るみたい。 投げたいなぁ、と思った。 こうしちゃいられない、走らないと。そんで、ロードの後はジムだ。 わずかに残ったアイスコーヒーを、ずずっと音を立てて最後まで飲み干す。 「阿部君、お勘、定」 さっきのおじさんの真似をして呼ぶと、阿部君はちょっと目を見開いて、爽やかにまた笑った。 「400円です」 響きのいい声と共に、レトロなレジがチーンと鳴る。 「明日も、やってます、か?」 そう訊くと、「お待ちしてますよ」って言われた。 「明日、登板でしょ?」 って。 オレのじゃなくて、チームの、かも知れないけど、ファンだっていうのはホントみたいだ。それでも嬉しい。 「じゃあ、明日」 にへっと笑ってカランとドアを開けると、一気にコーヒーの匂いが遠ざかる。 けど、惜しいなとは思わなかった。また来ればいい。ゆっくりとスピードを上げ、風を切って走り出す。 明日はナイターだから、今くらいの時間に来よう。 ゆっくりここでコーヒーを飲めば、阿部君の言うように、もうちょっと落ち着いて投げられる気がした。 (終) [次へ#] [戻る] |