Season企画小説 さよならが降り積もる(Side M) 3 オレはよく部屋のドアを開けっぱなしにしちゃうんだけど、阿部君はいつも、きっちり閉める。実家でそんな風に開けてたら、弟のシュン君が勝手に入っちゃうからだそうで、兄弟がいるかいないかで、いろいろ違いがあるみたい。 「シュンはさー、勝手に入るだけじゃなくて、引き出しとか開けちまうんだよ。ったく、ウゼーよな。んなとこにエロ本とか、隠してねーっつの」 オレは一人っ子だから、ウゼーのでも羨ましいな。そう言ったら、「変わってんな、お前」と笑われた。 じゃあオレも勝手に入らないようにするね、と言ったら、「お前は恋人なんだから、気にしなくていーんだよ」とキスされた。 そんな事を思い出したのは、阿部君の部屋のドアが、珍しく開いていたからだ。 キッチンから、そっと中を覗いて見る。阿部君はいないみたい。 もう一歩近付く。うん、いない。 後ろを振り返る。リビングにもいない。お風呂にも……いないよね。 ちょっとだけならいいかな。 オレはそっと阿部君の部屋の前に立った。オレと阿部君の部屋は、キッチンを挟んで反対側にあるから、この場所に立つのは久し振りだった。 ぎゅっとこぶしを握り締める。緊張しながら、もう一歩進む。部屋の敷居をまたいで……途端にうっと来るニオイ。 く、臭い! オレは慌ててキッチンに戻り、呆然と部屋の入り口を見た。信じられなくて、鼻をゴシゴシこする。 阿部君はオレよりキレイ好きだったのに、あのニオイはどうしたんだろう? あれってやっぱりタバコのニオイかな? 自分でどんなに臭いか分かってないのかな? あれだけ部屋が臭かったら、きっと服とかにもニオイ、付いてるぞ。どうしてオレ、気付かなかったんだろう? 周りの人は言ってあげないのかな? そう考えて……悲しくなった。 阿部君の周りの人って、オレじゃないか。 オレが気付かなかったのは、きっと最近、抱き締められてないからだ。でもそんなのは言い訳で、一緒に住んでる以上、オレが気付いてあげるべきだったんだ。 阿部君に悪いことしたな。いつも自分の事ばっかで、視野が狭くて、色々気付かなくってごめんね。でも、もう気付いたからね。 オレは自分の部屋から、消臭スプレーを持ってきた。衣類用だけど、空間にも使えるやつ。除菌もできるんだ。田島君と一緒に買った。 オレも田島君も、甲子園の頃から有名になってて、大学野球でも注目されてて。いつ誰が見てるか分かんないから、身だしなみ、気を付けようって。臭いの厳禁って言われたから、服とかロッカーに、いつも使ってるんだ。 鼻をつまんで、もう一度阿部君の部屋に入る。まずは換気だ。ダダッと窓に走り寄って、カーテンを開け、窓を大きく開け放つ。2月の冷気がビュウッと中に入り込み、ぶるぶる震える。 うう、寒いけど、ちょっと我慢だぞ。 そして片っ端からスプレーをかける。まずはカーテン! なんかべたっとしてる。これ何でだろう? 次にベッド。改めて見ると、やっぱ狭いな。そして空間。まんべんなくミストが行くように、ちょっとずつ移動しながら。 これで少しはマシになるかな。阿部君、喜んでくれるかな。 ちょっとウキウキしながら入り口の方を振り向いて……全身が固まった。 「何やってんの?」 阿部君が立っていた。怖い顔。静かな声で、もう一度訊かれた。 「ひとの部屋で勝手に何やってんの?」 「あ……く……か……」 滅多に出なくなったどもりが出る。「臭かったから換気を」とすら言えない。このドキドキには覚えがある。中学の時と同じ、だ。 阿部君がオレの右腕を掴んで、ぐいぐい引っ張って、部屋から連れ出した。阿部君、それ右腕だよ。言いたいけど言えない。言葉が出ない。いくら怒ってたって、右腕をこんな乱暴に掴んだりする阿部君じゃなかったのに。 ねえ、もうオレの右腕は、阿部君にとって大事じゃないのかな? でもオレはまだ投手だよ? オレにとっては、まだまだ大事な右腕なんだよ? それに、いつでも部屋に入っていいって、言ってくれたの阿部君じゃないか! 今はタバコ吸ってないから、煙も関係ないじゃないか! オレはふいに悔しくなって、大声で言った。 「臭かったから!」 「はあ? 臭かったから、換気と除菌としてくれたってか?」 阿部君は消臭スプレーをオレから奪い取り、怒鳴って、投げた。 「頼んでねーよ!」 投げられたスプレーは、オレの頭上を越え、キッチンを越え、リビングのソファーを越えて、窓ガラスに跳ね返った。 満塁ホームラン! オレはスプレーの飛んだ軌跡を見送り、スコアボードを、走るバッターを、敵陣の観客席を思った。 ねえ、こんなとき阿部君は、マウンドに走り寄って来てくれたよね。「大丈夫か」って声を掛けて、手を合わせてくれたよね。いつも味方だったよね。「まだ序盤だ、すぐ追いつけんだから、切れんなよ」って、頭をポンってしてくれたよね。 オレはグッと口角を上げ、笑った。ゆっくりと深呼吸する。大丈夫。エースのオレは崩れない。 「マウンドでは笑顔がいいね」って、いつかキミが言ったから。 オレはもうキミの投手じゃなくて キミはもうオレの捕手じゃなくて オレの立つマウンドは他にあって オレ達の距離は18.44mより近くなったはずなのに ねえ、何で今オレは、試合中みたいな笑みを浮かべているんだろう? さよならが降り積もる [*前へ][次へ#] [戻る] |