小説 1−15
キミに投げる球は・9
阿部君がスタッフの人に連れられて用具室に向かった後、榛名さんは体のあちこちを伸ばし、軽くストレッチを始めた。
オレも阿部君について行こうとしたけど、「三橋」って呼び止められて、ストレッチに加わる。
太もも、ヒザ裏、足首を念入りに伸ばし、背中から肩、首、腕をほぐす。こういうの適当に流してしまわないとこ、1流なんだなぁって感心する。
オレだって勿論忘れてた訳じゃないけど、榛名さんとは気構えが違う気がした。
やがてストレッチが終わった頃、黒い防具をまとった阿部君が用具室から戻って来た。借り物の防具は着心地が悪いのか、あちこち気になるみたいで視線が合わない。
防具そのものを着るのに、ためらいがあるのかも。
けど、阿部君の真意はどうでも、防具をまとってる見慣れた姿は、格好良くて似合ってた。訳もなく胸が痛くなって、そんで熱い。
オレ、やっぱり阿部君に野球続けて欲しかったなぁと思った。この姿を、捨てないで欲しかった。好きだ。
捕手じゃなくても好きだけど、捕手から逃げない阿部君の方がもっと好き。
じわっと潤む目元を、阿部君に背を向けてぐいぐいぬぐう。
「似合うじゃん」
榛名さんが当然のような口調で、阿部君に言うのが聞こえた。
阿部君がそれに何か答えるより早く、「アップしとけよ」って声が響く。榛名さんは自分でも肩をほぐしながら、大股で投球ブースに入ってった。
深緑のネットで囲まれた中に、私服姿の榛名さんが立つ。ラフなセーターにジーンズって格好なのに、まっすぐ背中を伸ばした姿は、なんでかマウンドを連想させた。
ああ格好いいなぁと思った。オレも、ああなりたい。
「榛名さん、格好いい、ね」
ぽつりと言ってみたけど、阿部君からの同意はない。ずっと黙ったまま何も言ってくれないのは、ここ最近いつものことだ。
何か言って欲しいけど、でもそうと口にできない。「返事して!」って怒れないのは、オレがヘタレじゃなくて弱いからだけかも。逃げてるのは、阿部君だけじゃないのかも知れない。
「おい、キャッチボールするぞ」
榛名さんの声と共に、ぽんと備品のグローブが放られた。受け取ってみるとちゃんと右利きので、ちょっと嬉しい。
籠の中に山積みになってるボールを、榛名さんが1個取り出す。
オレは阿部君を見て、榛名さんを見て、それから投球ブースに入った。的当てのボードの前に行き、榛名さんと向かい合うようにブースに立つと、榛名さんの向こう、ネット越しに、ストレッチを始めた阿部君が見える。
カチャカチャと防具が鳴るのがここまで聞こえて来るみたい。ヒザを曲げて、伸ばして、足首を回して、伸ばして……いつもの基礎的なストレッチなのに、胸が震えた。
榛名さんと向かい合い、立ったままでボールを投げ合う。
やんわりと弧を描く緩い球を、互いに投げ合うキャッチボール。オレも同じくセーターにジーンズで、靴だってスニーカーで、とても野球するって格好じゃない。
この3人の中で、最も野球っぽい格好なのは、防具を着けた阿部君かも知れない。
オレが緩く投げた球を、榛名さんがパシンと右手のグローブで受ける。それからくるりと振り向いて、榛名さんは声を上げた。
「ちゃんと伸ばしたか? 始めるぞ」
その張りのある声に、ドキッとした。
阿部君が立ち尽くす中、あわあわと榛名さんの後ろに移動する。オレが後ろに下がったのを見て、榛名さんがぐっと振りかぶった。
ドゴーン!
的当てのボードが音を立て、その衝撃にビビッて飛び上がる。的当てのボードも震えてる。
びりびりと余韻が続く中、もう1球手に取り、榛名さんが再び振りかぶった。力強いフォーム、ドゴーンと再び響く音。ちらっと垣間見える榛名さんの顔は真剣で、怖いくらいに迫力あった。
まっすぐに立つ榛名さんの背中に、覇気のオーラが立ち上る。
怒ってるのかも知れない。真剣なだけかも知れない。阿部君が許せないのかも知れない。許せないのは、無力な自分かも知れない。それか、運命かも。
阿部君が、ふらりとこっちに1歩踏み出す。すれ違った瞬間にふわりと鼻をくすぐるのは、きちんと洗われた防具の清潔なニオイとワックスのニオイ。
他のブースから金属バットの音が響く中、ドゴーンと3回目のボードが揺れる。
「阿部君……」
大丈夫か、と言いかけたのをぐっとこらえ、代わりにオレはにへっと笑った。
「がっ、頑張っ、て」
モヤモヤを振り払い、ぎゅっとグローブを握り締める。
足を引きずってもない、背中が傾いてもない。日常生活に丸っきり不便のないハズの阿部君が、のろのろと投球ブースの中を進む。
榛名さんは、阿部君が座るより早く、4球目の球を投げた。今度はさっきより軽いって、投げたフォームからもよく分かる。
不意打ちのように投げられた球を、阿部君は立ったまま難なくミットでキャッチして、それを榛名さんに投げ返した。
まっすぐ立つ榛名さんの背中越しに、防具を着けて立つ阿部君が見える。借り物のミット、借り物の防具、投球ブースすらも借り物で、どことなく居心地悪そう。
まだ捕手の顔になってない気がするのは、いきなりで戸惑ってるせいだろうか。
「オレの球、お前にはもう捕れねーぜ」
榛名さんが、ボールを左手で弄びながら言い放った。
「一試合通しで座れねーから野球辞めた? 甘えんな!」
怒声と共に投げられた、さっきより強い球がシュッと唸る。阿部君はまた難なくそれをキャッチして、でも、何も口をきかなかった。
「今のお前は、後ろのその的以下だ。捕手は的じゃねぇって、ボールを受けるだけが仕事じゃねえんだって、オレに言ったのはお前だろーが!」
シュッと投げられる球。立ったままそれをパシンと受ける阿部君。
榛名さんが怒りの声を上げるだけの、一方的なキャッチボール。阿部君が何も言わないまま、ただボールを受けている。
どんな顔してるのか、マスクもあって、ここからは見えない。
けど、ずっと下を向いてたようだった阿部君の顔が、ゆっくりと前を向き始めたのが分かった。
「座れ」
短く告げられた榛名さんの指示に、ドキンと心臓が跳ね上がる。
静かにその場にしゃがむ阿部君。緊迫の一瞬。榛名さんはボールをきゅっと握って――振りかぶる代わりに、オレの方を振り向いた。
(続く)
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