小説 1−11
覚悟はとっくにできている・前編 (プロ選手・後輩×先輩)
「では、これで失礼いたします!」
引っ越し業者の威勢のいい声が、ドアを開けっ放しのリビングダイニングに届く。
それに応えるのは、スポーツマンらしくねぇ穏やかな声だ。
「ご苦労さま、でした」
しばらくのやり取りの後、玄関がパタンと閉じられる。間もなく戻って来た彼は、オレを見てにへっと頬を緩めた。
「阿部君、も、お疲れ様」
「いえ……」
首にかけたタオルで顔をぬぐいながら、彼から目を逸らしてダイニングを眺める。
ダイニングだけじゃなく、リビングも、寝室も、きれいに整頓された部屋の中は、さっきまでドタバタ作業してたとは思えねぇような状態だ。
荷物運びだけじゃなく、梱包も開封もセットで業者に頼んでたらしくて、オレが手伝えたのはわずかしかなかった。
まあな、なんたって、プロ1軍の投手陣の1人だ。ただでさえ多忙な三橋さんが、普通に自力で引っ越し作業なんてしねーよな。
寮を出るって話を聞いて、「引っ越し手伝います!」って押しかけたけど、心配する必要なかったかも。
けど、そんな手伝いでも、あるのと無いのとじゃ違ったみてーだ。
「いてくれて、よかった」
穏やかな口調でねぎらわれ、少なくとも迷惑じゃなかったようで、ホッとした。
引っ越し作業中、いつの間にかビール買ってくる余裕もあったらしい。
「どうぞー」
500mlの缶ビールを1本渡されて、誘われるままダイニングのイスに座る。
今日に合わせて買ったらしい家具は、真新しくてピカピカだ。
急な引っ越しだと思ってたけど、オレが知らなかっただけで、実際はそんな、急な話でもなかったのかも。
モヤッと浮かびかけた思いをビールと共に飲み下し、ぷはっと息をつく。向かいのイスに座る三橋さんも、同じくビールをぐっとあおって、それから「ふああー」と息を吐いた。
「お疲れさまっス」
苦笑しながらねぎらって、疲れ顔の先輩を見つめる。
ベンチで見るのとは違う、無防備な雰囲気。
試合の前後だと、むしろぞくっとするくらいの気迫があるのに、この落差は何だろう?
そのデカい目には、ギラついた輝きが少しもなくて、むしろ穏やかで静かだ。
――この人のこんな顔、オレだけが見てられたらいーのに。
はあ、とため息をつきそうになんのを、ビールを飲むことで抑え込む。
「エアコンもついたし、後はガスだけっスね」
そんな話題を振ると、三橋さんはふにゃっと気の抜けた顔で、「うん」と笑ってうなずいた。
「ガス屋さん、何時に来るんスか?」
「もうすぐのハズ、だ、けど。ガス屋さん来ないと、シャワー浴びれない、ね」
シャワーって単語に、ドキッとする。
「浴びてく、でしょ?」
言葉尻は疑問形だけど、ほとんど決定してるみてーに聞こえて、じわじわと体温が上がってく。
それは誘ってんのか、それとも単に汗かいただろって言われてんのか。意味深に取りてぇと思うのは、きっと惚れた弱みなんだろう。
息苦しさにハッと顔を上げると、マウンド上にいるみてーな目で、まっすぐズドンと射抜かれた。
好きだ、と思った。
この強さも、眼差しも、オレだけのものにしてぇ。
たった2度だけ抱いた肌が、鮮やかに脳裏に浮かび上がった。
同じ球団の先輩であるこの人と、そういう仲になったのは、春のキャンプのことだった。
オレはまだ入団したてのルーキーで、抜擢され、1軍キャンプに参加できたっつー幸運に、信じらんねぇって思いながら浮かれてた。
チームの要って言われてる大先輩の正捕手が、どうやら今季で引退をしたがってるらしい……って聞いたのは、そのキャンプが始まってからのことだ。
息の長い選手を育成しようってことで、1年目からの抜擢になったみてーだ。けど、そんな球団側の思惑よりも、オレを真っ先に虜にしたのは、三橋さんの投球だった。
決して初対面じゃなかった。
投球シーンを見たこともある。けど、実際に球を受けたのは初めてだった。
元々制球力には定評がある人だったから、名前や経歴も一応は把握してたけど、そんなデータ上の評価なんて、ホントには役に立たねーんだな。
マウンドに立ち、まっすぐにオレを見つめる目。まっすぐにオレのミットに届く球。例え紅白戦でも、練習試合でも、1球1球真剣に投げる姿はすげー眩しくて強烈だった。
そのくせ、宿舎に戻ると別人みてーにふにゃっとしてて、穏やかで優しくて、人見知りで可愛い。
先輩だとか、チームの主力の1人だとか、男同士だとか……そんなことは何もかも吹き飛んで、気が付くともう、後戻りできねぇとこまで囚われてた。
好きだ。好きになって欲しい。自分のものにしてぇ。マスク越しじゃなく、見つめて欲しい。
「あんたのことが、好きなんス」
練習の後、たまたま2人きりになったシャワー室で、裸のまま気持ちを告げ、唇を奪った。
キスは無理矢理だったけど、セックスは多分、合意だったと思う。
ざーざー降り続くシャワーの中、壁に縋る背中を腕ん中に閉じ込めて、思いの丈を打ち込んだ。
無我夢中だったからよく覚えてねぇけど、「やめろ」って言われてねーし。結果的には逃げられなかったんだから、後悔はしてねぇ。
「絶対好きにさせますから、覚悟してください」
そんな言葉を放って、直後に始まったペナントレース。控え捕手のオレに、あんま活躍の場はなかったけど、それでも一緒にベンチに入れる機会があるだけ幸せだった。
2度目のセックスは、7月のオールスター戦の後。
そして、3度目は――。
「覚悟、できたんスか?」
ビールを飲み干して、空き缶をコトンとテーブルに置く。三橋さんはそれを黙ったまま見つめて、同じくビールを飲み干した。
「覚悟なんて、とうに、できてる、よ」
そんな言葉と共に、三橋さんの右手のアルミ缶が、ぐしゃっと握りつぶされる。
ピーンポーン、と呼び鈴が鳴ったのは直後のことで、ガス工事業者の訪問に、なんでかオレの方がホッとした。
(続く)
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