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小説 1−10
鬼子ども・5
 廉の声は、森に山に高く響いた。
「隆也ぁぁぁぁーっ! 隆也ぁぁぁぁーっ!」
 半狂乱、という訳ではない。どちらかというと泣きべそに近かった。
 転んで泣いた妹たちが、母を呼んでわぁわぁ泣き喚く、そんな様子を思い出した。
 自分がしっかりしなきゃと思ってはいるものの、真横でそんな風に泣かれては、梓だって平然としてはいられない。
 まだ近くには熊がいる。悠一郎が目を覚まさない。彼を背負って、屋根程の高さの崖を上り、さっきの道まで戻れるような体力も自信も何もない。
「泣くなよ、熊、来ちゃうだろ」
 震える声で廉をたしなめ、降りてきた道を見上げた時――熊よりも、もっと恐ろしい「何か」の吠える声が聞こえた。

「オオオオ――ォォンン!」

 ざわりと木々が揺れ、たくさんの鳥が一斉に、逃げるように飛び立った。
 梓たちを見ても、ちっとも怯えなかった鹿や鳥、動物たちが、森の奥に一目散に逃げていく。
「ひぃっ!」
 梓は本能で恐怖して、悠一郎を抱えたまま身を竦めた。
 背中を丸め、目を閉じて、無意識に小さく丸くなる。
 怖い、怖い、怖い、怖い……。もう、怖いとしか思えない。助けてと、誰かに縋ることすら思い浮かばない程の、大いなる恐怖。

「エエエエ――ェェンン!」

 野太く恐ろしい声が、更に近くから聞こえた。山々にこだまし、木々を震わせ、川の水面を波立たせる。
 赤く色付き始めた山に、響き渡る「何か」の叫び。
 怖くて怖くて息もできないでいると、意外にもさっきまでべそをかいていた廉が、立ち上がって声を張り上げた。
「こ、こぉぉぉ――っ! こ、こぉぉぉ――っ!」
 それはまるで、声の主をこちらに呼んでいるように聞こえた。ここだ、と。ここに来い、と。そんなバカなことをするヤツがあるだろうか。
 ――バカッ、お前っ。
 梓は廉を叱りたかったが、それは声にならなかった。恐ろしくて、顔を上げることもできなかった。
 ザザザザ、とやぶをかき分ける音が崖の向こうから大きく響き、直後。
「レンッ!」
 地面に響く程の大声と共に、ズシンと河原に衝撃が走った。

 巨大な化け物が、崖を飛び降りて来たとしか思えなかった。
「わああっ!」
 悲鳴を上げ、尻もちをつく。
 ――鬼だ。
 真っ黒な鬼だ。
 さっき見た熊よりも、何倍も大きくて恐ろしい。目の前に、真っ黒な鬼がいる。

 けれど、「廉、無事か!?」と、そんな声が聞こえて、ハッとしてドキッとした。
「隆也ぁ」
 ガバッと勢いよく鬼に抱き着き、廉が「わぁん」と泣き声を上げる。
 隆也とは、廉の保護者の名前だ。
 軽々と廉を片腕に抱き上げて、鬼が――いや、男が、少年をあやすように抱き締める。
 その姿は、いつか見た校門での2人と同じで、ああ、と思った。
 鬼じゃない、廉の保護者の青年だ。真っ黒な服に真っ黒な髪をして、大声を上げるものだから、誤解した。

 梓がぽかんと見上げる中、保護者に抱き上げられた廉は、べそをかきながらつっかえつっかえ、何があったかを説明する。
「く、熊、が、ゆう君、お弁当……」
 とても説明にならない、支離滅裂な報告ではあったけれど、男はひどく優しい声で、「そーか、怖かったな」ってうなずいてる。
 優しい笑み、優しい声、何より廉がこんなに懐いているというのに、どうして彼のことを、恐ろしい鬼だと思ったのだろう。
 梓はごくりと生唾を呑み込んだ。
 目の前に、廉がそっと下ろされる。男が梓の脇に寄り、ヒザを落として、血まみれの悠一郎を見下ろした。
「ああ、ちょっと切っただけだろう。もう血は止まってるし、気ィ失ってるだけだから、大丈夫だ」
 男はそう言って、梓と廉の頭をポンと撫でた。

「うちに連れてって、手当てしてやろう。負ぶされ」
 保護者に促され、廉が彼の背中にぎゅっとしがみつく。男は廉を背中に乗せたまま、梓と悠一郎を軽々と両手に抱き上げた。
「うわっ、ちょっ」
 梓は悲鳴を上げたが、男は下ろしてはくれなかった。
「しっかり捕まってろよ」
 どちらにともなくそう言って、それからダッと崖を駆け上がる。
 男の胸元からは、陽だまりの匂いがした。
 細い獣道を駆け、やぶを飛び越え、木々の間を駆け抜けて、男は恐ろしい速さで山道を行った。
「あっ、カバン!」
 途中で気付いた梓が声を上げると、「後でな」と短く返事をされる。

 熊に食い散らかされているだろう弁当はともかく、大事な教科書は大丈夫だろうか? 廉のピカピカのランドセルは?
 帰りに取りに寄ればいいのだろうか? 帰りも、またあの道を通るのか?
 梓がぐるぐると考えていると、やがて道は獣道から農道に変わり、なだらかな丘に出た。
 浅い小川がさらさらと流れ、小さな畑の方へと続いている。畑の脇には、小さくまだ新しい小屋があった。
 その小屋の前で下ろされて、中に入るよう促される。
 廉と隆也の住む家なのだ、と、説明されなくても分かった。
 ぐったりした悠一郎を横抱きにして、男は小屋の中に入り、悠一郎を真っ黒な毛皮の上に横たえた。

 小屋の中は案外広かった。
 囲炉裏と大きなベッド、小さな文机があり、囲炉裏の周りには毛皮の敷物や、籐で編んだ円座などが置かれていた。
「廉、拭いてやれ。カバンを取って来る」
 白地に紺の模様のある手拭いを廉に渡し、男が小屋を後にする。
「わ、かった」
 キッパリと返事する廉をよそに、男の後を追うようにして外に出ると、男はとうに荷物を取りに行った後らしく、影も形も見当たらなかった。

(続く)

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