小説 1−10
鬼子ども・4
この川は、落ちた吊り橋のある川の、少し上流に当たるらしい。
随分昔の物なのだろうか、木でできた橋は朽ちかけていて、ミシミシと不気味な音を立てた。
それでも渡ろうという勇気が持てたのは、それほどの高さがなかったからだ。
具体的な尺寸は、まだ子供である梓にはよく分からない。ただ、冬に雪かきで登った自宅の屋根の方が、まだ高そうだったように思う。
「わー、ボロい橋だな」
無邪気に笑う悠一郎に、「そーだな」と返事しながら、朽ちかけた古い橋を渡る。
「お前、毎日この橋渡ってんの?」
廉に訊くと、「ううん……うん」と首を横に振ったり縦に振ったり、よく分からない返事が返って来た。
「どっちだよ」
半分呆れながら、ちょっと笑う。3人で笑い合うと、疲れが少し取れた気がした。
「後は、川沿いに、ずっっっとまっすぐ」
ずっっっと、という言い方が不穏だが、仕方ない。廉の頼りない道案内に従って、それから3人はどんどん歩いた。
鹿を見かけたり、大きな鳥を見かけたりもした。こんな山奥まで入っていくのは初めてで、得体が知れなくて少し怖い。
梓たちを見ても、動物たちが逃げないのが、余計に怖い。脅威だと思われていないのだろうか。
「なあ、この辺、イノシシとか出たりしねーよな?」
恐々訊くと、廉は「いるよ」とあっさりと答えた。
「熊も、いる、みたい」
その言葉もあっさりで、気負いがなくて、梓はとてもビックリした。
「熊!? お前、それ怖くねーの?」
思わず訊くと、廉はにへっと締りのない笑みを浮かべた。
「隆也、いるから怖くない、よっ」
隆也という名前に、あの整った顔をした恐ろしげな男を思い出す。優しく笑っていたし、廉だって懐いているのに、どうして彼を怖いと思ってしまうのか、自分でもよく分からない。
「へぇ、隆也ってお前の保護者? 熊も狩ったりすんの?」
悠一郎の問いに、無邪気に「うんっ」と廉がうなずく。その笑みは珍しく得意げで、キラキラと眩しい。
「仲いいんだなぁ」
感心してそう言うと、またキッパリと廉がうなずいた。
「大好き、だっ」
「へぇ〜」
適当な相槌を打つ梓も、廉の話をちっとも聞いていない悠一郎も、廉の言う「好き」の意味には気付かない。
よくも悪くもまだ子供で――だからこそ、隆也を怖いと思ってしまうのかも知れなかった。
一体、どのくらい歩いた頃だろうか。
「腹減ったーっ!」
悠一郎が唐突に叫び、道の真ん中で座り込んだ。
もしかしたら、歩き疲れたのと飽きたのもあるかも知れない。
「うおっ、じゃ、じゃあ弁当、食べる?」
「食う食うーっ!」
弁当と聞いて、悠一郎の声が跳ね上がる。
廉の黒いランドセルを下ろし、中から弁当の包みを取り出すのを見ると、梓の腹もぐーっと鳴った。
廉の弁当は、大きな握り飯と肉と卵。飾り気のない簡素な弁当だが、空腹にはうまそうに見える。
「オレの弁当もあるぞ、3人で分けよーぜ」
照れ隠しにそう言って、梓は肩掛けカバンから、竹の皮で包んだ自分の弁当を取り出した。
その時だ。
ガサッ。
やぶをかき分けるような音がして、廉がハッと顔を上げた。その顔に明確な怯えを見て、梓もドキッとしてギョッとする。
その理由は、すぐに分かった。真っ黒な獣が悠一郎の真後ろから顔を出し、2本足で立ち上がる。
思ったよりも小さかったが、熊は熊だ。
初めて間近で見る猛獣、その鋭い牙と爪に、梓の頭は真っ白になった。
「逃げ、……っ」
弁当も荷物も何もかも放り出し、廉が2人の手首を掴む。
ひとり状況が分かっていないのは、熊に背を向けたままの悠一郎だ。「なんだよ」と廉の手を振り払い、握り飯にかぶりつく。
「ゆう君っ!」
廉の鋭い警告、その直後、悠一郎の背後にいた熊が「グオー」と吠えた。
さすがに悠一郎も後ろを見たが、見たからと言って、すぐに動ける訳もない。
立ち上がり、そろそろと後ずさりしようとする廉。その廉に手首を掴まれ、立ち上がらされた梓。目と口をぽかんと開け、熊と見つめ合う悠一郎。
その3人の子供より、熊が動くのが速かった。
「グオォォォォーッ!」
再びの咆哮。
熊を初めて見た子供が、驚かないハズはない。分校でぶっちぎりに足の速い悠一郎が、驚いて走って逃げようとしたのも、不思議ではなかった。
熊は、逃げる者を追いかける習性があるのだと、梓も悠一郎も知らなかった。
「わあぁぁぁーっ!」
悠一郎が叫びながら立ち上がり、熊に背を向けて逃げた。そこを4つ足で追いかけられ、更に逃げた。
熊はすぐに追いかけるのをやめ、放り出された弁当を食い始めたが、パニックになった悠一郎が、それに気付くハズもない。
梓も廉も、止めることはできなかった。
「わあぁぁぁーっ!」
悠一郎の叫び声が、山に響いた。
叫びながらやぶを飛び越え、走っていくのを、熊に注意しながらそろそろと追いかける。
すると、間もなく。
「ぎゃああっ!」
悲鳴と共にズシャッと音がして、それきり静かになってしまった。
イヤな予感に震えながら、駆け付けた梓が見たものは、足下の河原に滑り落ちた悠一郎が、力なく倒れている姿。
うちの屋根程の高さしかない、そう高いとも思えない場所。けれど、そこから落ちるとなると、また別だろう。
「ゆう君!」
「悠一郎!」
名前を呼びながら、廉と2人で河原に駆け寄る。
熊も恐ろしいが、ぴくりとも動かない友達の姿も恐ろしい。
「しっかりしろ!」
小柄な友を抱き起すと、彼は頭から血を流していて――。
「わああああーっ! 隆也ぁぁぁぁーっ!」
廉が半泣きになりながら、梓の横で絶叫した。
(続く)
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