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小説 1−10
三猿の母 (原作沿い高1・三橋母視点・R15)
 准教授を務める大学で2限目の講義が終わった後、女子学生に廊下で呼び止められた。
「三橋先生、質問があるんですけど、お時間よろしいですか?」
 銀縁メガネをかけ、長い黒髪をきっちりと結い上げた、真面目そうな雰囲気の学生だ。
 名前は覚えていないけど、顔に見覚えがある。確か、いつも前の方の席に座ってる内の1人だった。
「いいですよ。ここで? それとも研究室に来る?」
 快く質問を受け付けると、女子学生は「ここで」と言った。
「難しい話じゃないんです」
 そんな前置きの後、その彼女が口にした質問はというと――。

「近年、男子の精通経験年齢の平均が、目に見えて遅くなっていると聞いたんですけど、その原因について先生はどうお考えですか?」

 一瞬、悪いけど耳を疑うようなものだった。
「はっ? せ……」
 精通、と大声で口に出しそうになって、慌ててぐっと息を詰める。
 どんなイタズラかと思ったけど、彼女の生真面目な顔はひくりとも歪んでない。どうやら、大真面目で言ってるらしい。
 銀縁メガネがギラリと光る。
 講義室を出てすぐの廊下。昼食を取るべく、大勢の学生たちがカバンを持って、ぞろぞろとそこを通っていく。
 私と彼女をじろじろ見ていくような学生はいない。いないけど……そういう問題じゃないだろう。
「えーと……」
 何を言えばいいのか、目眩すら感じながら、頭の中で言葉を選ぶ。
 しかし選び終える前に、ズバッと言われた。

「中学で精通を終える男子の割合は、今3割台にまで落ち込んでいるそうです。高校卒業時でも、射精経験がある割合は9割を切っている。精通を迎える年齢の遅延、これが後々少子化をさらに悪化させるんじゃないでしょうか」
 立て板に水のごとくスラスラと喋られて、「そうね……」としか答えようがない。
 彼女は大真面目に訊いているわけだし、私が照れるのはおかしいのかも知れない。けれど、どうにも気恥ずかしさはぬぐえなかった。
「ええと、専門外だからすぐにはちょっと……それってどこのデータ?」
 引きつった頬を精いっぱい緩め、当たり障りのないことを回答しながら、考えるのは息子のことだ。
 一人息子の廉は、まさに今、高校1年生。……あの子、精通ってしてるのかしら?
 いつ「パンツを汚した」と泣きついてくるか楽しみにしてたのに、そんな気配は全くなくて、どうなのかなぁと考える。

 やっぱり、中学の3年間、手元で育てられなかったのは大きい。
 パンツを汚さないってことは、自分でその、処理してるんだろうか? いつ? どこで?
 えっ、精通、してるわよね?
 中学で精通を終える男子が3〜4割? 廉のそれはまさに「今」で、見過ごせないし、とても気になる。
 気になるけど、本人には訊けない。
 処理の仕方、知ってるのかしら? それも訊けない。
 野球のことしか考えてなさそうで、野球に全精力使ってそうなあの廉が、そもそもそういう処理を必要としてるんだろうか?


 今度父親から探りを入れて貰おうか。そんなことを考えながら、無難に講義を終わらせた後、研究室にこもって仕事をした。
 4年生の卒業論文の指導や、院生への指導。その他諸々の業務を終え、いつもより少し早く帰宅する。
 秋口に差し掛かり、野球部の練習が終わる時間も早まったらしい。まだ8時過ぎだったけれど、家には灯りが点いていた。
「ただいまぁ」
 声を掛けながら玄関を開けると、脱ぎ捨てられたスニーカーが2足。
 どっちも廉の物か、西浦の誰かが来てるのか、パッと見ただけでは区別がつかない。
「レーン、誰か来てるのー?」
 リビングを覗くと勉強してた痕跡はあるものの、肝心の息子の姿がどこにもない。
「レーン?」
 階段の下から2階に声を掛けてみたけど、真っ暗で明かりも点いていないから、きっと2階じゃないんだろう。

「もう、どこ行ったのかしら?」
 ぼそりと呟きながら、手を洗うべく洗面台の方に行くと――浴室に明かりが点いてるのに気が付いた。
 なんだ、お風呂に入ってたのね。
 そう思って納得しかけて、待てよ、と思う。
 そろそろと近付くと、お風呂の中からは2人分の声がした。高校生でも、友達と一緒に入ったりするもの?
 何やってるの、と半分呆れる一方で、わいわい楽しそうでいいなぁとも思った。
『あっ、ダメっ』
 廉の上ずった声に、誰かが『ははは』と明るく笑う。

『ダメじゃねーだろ、こっち来いって』
 そう言ってるのは……あの声は、阿部君かなぁ? 野球部で廉とバッテリーを組むキャッチャー。
 くすぐり合いでもしてるのか、廉がわぁわぁ騒いでる。
 高校生って、大きくなったと思ったけど、まだ子供ね。微笑ましいやり取りを聞きながら、手を洗い、台所に向かおうとした時――。

『ああんっ!』
 廉が悲鳴を上げるのを聞いて、ドキッとした。何、今の声?

 衝撃に身動き取れない私をよそに、浴室の中からはどんどん高くなる声が漏れだした。
『あっ、ああっ、んっ、ダメ、出ちゃうっ』
『いーから出せよ、気持ちいーだろ』
『んんっ、あっ、阿部君っ、そこっ』
『ここか? ほら、イケ!』
『あああんっ』
 すりガラス越しに、浴室の中を覗くことはできない。廉が誰と何をしてるのか、覗く勇気はカケラもない。
 ただ、このままここでぼうっと聴いてるわけにはいかないと、それだけは分かった。

 声を掛けず、音も立てないよう、そろそろと洗面台を後にして、カバンを掴み、玄関から抜け出す。
 私は何も見ていない。何も聞いてない。何も知らない。あの2人がどういう関係なのか、考えを向ける勇気もない。
 素早く車に飛び乗って、盛大なため息を1つ。
 取り敢えず、廉が精通を済ませてるようだと、思いがけず分かってホッとした。

   (終) 

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