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小説 1−9
囚われの里・7 (完結)
 隆也は早朝、日課のランニングに出て、その途中でいつものように近所の神社にお参りをした。
 ガラガラと鈴を鳴らし、パンパンと柏手を打つ。
 そうして祈るのは相変わらず、「また廉に会いたい」だ。今日はそれと、別の願いも一緒に頭に思い浮かべる。
――いい選手が集まって欲しい。

 隆也はこの春、4月1日付けで、かつて卒業した母校に赴任した。
 埼玉県立西浦高校。そこで数学教諭として教鞭を執りつつ、野球部の顧問として指導に当たることが決まっている。
 かつて一緒に甲子園を目指した監督はとうに引退し、最近は部員数も減る一方で、負け試合が続いているらしい。
 この辺りで若手のOBを起用し、テコ入れを期待したいのだとか。隆也としても、仕事として野球に関われるのは嬉しかった。
 選手としては大学時代に終わったが、それでも野球を手放してしまうのは惜しかった。
 白いボールに触れるたび、あの少年時代の不思議な体験を思い出す。
 靴下で作ったいびつなボールと、それを投げ合った青年、そして時が止まったような里のことを。
 今年で16年になるが、あの時見た黄緑色に萌える丘と、舞い落ちる桜吹雪の美しく哀しい風景は、今でも頭の中にしっかりと焼き付いていた。

 忘れずにいられた最大の原因は、あの神社の社務所の壁に飾られた、大きな絵の存在だろう。
 それを譲って貰うことはできなかったが、写真に撮ることは許して貰えた。
 あの時泊まった遠い親戚の家に、隆也が再び訪れる機会はなかったから、写真に撮らせて貰えたことは幸いだったとも言える。
 あれがなければ、いつか夢だったと思い込んでしまったかも知れない。
 そうしていつか、あの寂しい青年のことも、忘れてしまったかも知れない。それは隆也にとって、何より恐ろしいことだった。
 絵を写した写真は今も、幾つものデータにコピーされて、隆也の手元に残っている。
 日課のランニングに持参するケータイの中にも保存されていて、いつでも祈ることができる。
 何度覗いても、その絵の中に人影を見つけることはできなかったけれど――あの閉じられた世界に、今もひとりで囚われているよりはマシではないか。そんな風に思うようにもなった。

 ため息をついて祈りをやめ、黙考をほどいて目を開ける。
 ぺこりと神に礼をして、隆也は再び走り始めた。
 鳥居の脇に植えられた桜が、風に花びらを舞い散らせる。やがて黄緑の新芽が芽吹き、葉桜になるのも近そうだ。
 ……母校の校庭の桜も、満開だった。

 ランニングを終えてひとり暮らしのマンションに戻り、ざっとシャワーを浴びてスーツに着替える。
 今日は入学式だ。
 母校だけに、校内で迷う恐れもなければ大体の勝手は分かっているが、それでもやはり入学式は気が引き締まる。
 顧問を任された野球部に、いい選手は来るだろうか?
 それ以前に、入部希望者は集まるだろうか?
 隆也など、入学する前から学校に通い詰め、グラウンドの整備を手伝ったりしたものだが……残念ながら、そこまで熱心な生徒は今年度はいないらしい。
 2年と3年とを合わせて、ちょうど9人しかいない部員。しかも肝心の選任投手がいないと来ている。新入生の獲得は、急務だった。
 入学式の前後に、部員たちにビラ配りをするよう指示したのだが、それでどのくらい集まってくれるだろう?

 入学式の後、せわしない職員室を後にして、数学準備室に出向く。そこでジャージの上下に着替え、隆也は足早に第2グラウンドに向かった。
 校舎のある敷地の、道路を1本挟んだ裏にある第2グラウンドは、通称「裏グラ」と呼ばれる球技向けのグラウンドだ。
 高いフェンスに囲まれていて、野球部の他にラグビー部、ソフトボール部などが混在して汗を流す。フェンスに取り付けられた扉は基本的に閉まっていて、初見の者は入りにくい。
 野球部の部員が集まらないのは、練習場所の分かりにくさと、この見学しにくさも一因ではないだろうか。
 校舎を抜け、第2グラウンドのフェンスが見えて来ると、同時にキン、キン、と金属バットの甲高い音が聞こえて来た。
 その練習を、フェンス越しに見つめる見学者は2人。
 隆也はさっそくその2人に近寄って、肩をガシッと掴み、にっこりと笑った。
「見学か? まあ中に入れ」
 有無を言わさず引きずり込んで、古ぼけたベンチに座らせる。

「名前は? 守備は?」
 クリップボードに名前を書き込み、守備と野球歴をそれぞれ訊いた。
 残念ながら2人とも投手ではなかったが、それでも重要な戦力候補には違いない。
 にんまりと笑いつつ、フェンスの向こうに目を向けると、また1人、見学者らしい学生服姿の影があった。
 クリップボードをベンチに置き、さっそくフェンスの向こうに出る。
 見学者らしい新入生は、おどおどとためらうように部員たちの練習を覗いていて――。
 その横顔を見た瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が走った。

 薄茶色の猫毛、気弱げな痩身、やさしい輪郭の白い頬。
「……廉?」
 ぽつりと名を呼ぶと、彼はびくんと怯えるように両肩を跳ねさせ、ハッと隆也の方を見た。
 間違いない、廉だ。
 ぽかんとひし形に開けた口も、長いまつ毛に縁どられたつり目も、下がりっぱなしの太い眉も。記憶にある、そのままの青年の姿だった。
 いや、「青年」と呼ぶのはおかしいだろうか。
 10歳のあの頃には分からなかった幼さが、目の前の少年からは滲み出ている。

「廉……」
 再び名を呼ぶと、少年は戸惑ったように視線を左右にキョドキョドと揺らし、それからギュッと学生服の胸元を握った。
「あの、お、オレ……」
 少し高めの声が耳を打つ。
 少年の大きな瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ出したのはその時だ。
「あ、れっ、オレ、なんで、涙……?」
 戸惑ったふうに呟きながら、少年が1歩後ずさる。
 泣いていることに、自分が1番戸惑っているらしい。ぼろぼろ泣きながら、その涙を両手でぬぐい、もう1歩。後ろに下がって行く少年に、たまらない想いで手を伸ばす。

 自分のことを覚えてくれていないのだ、と、現実を悟りながら、それでも抱き締めずにはいられなかった。
 あの頃自分より大きく感じた痩身が、今はこんなにも小さい。
 名前は? 守備は? 野球、好きか? 訊きたいことはいっぱいあるのに、なかなか言葉にできなかった。
 16年、1日も欠かさず祈り続けたことが、奇跡となって現れた。
 頭の中で、薄紅色の桜の花びらが乱れ舞う。
 ふと目を開けると、胸に抱いた少年の肩にも頭にも花びらが落ちていて、隆也はできるだけ優しく微笑みながら、それをそっと払ってやった。

「どうぞ」
 かつてあの里で言われた言葉で、少年をグラウンドに招き入れる。
 ずっと止まったままだった時が、動き始めたような気がした。

   (終)

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あきゅろす。
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