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小説 1−9
囚われの里・5
 翌朝、簡単な朝食を食べた後、隆也は昨日履いていた靴下を丸めた。
 風呂の中で軽く洗って、縁側に干しておいたものだ。
 乾いた白い靴下は、2足まとめて丸めると、1つの小さなボールになった。いびつなボールだったけれど、キャッチボールの真似事をするくらいなら問題ない。
「……こんなモンか」
 隆也はにんまりと笑って、さっそく青年の姿を探した。
 金魚のフンのように彼の後ろをついて回るだけではない。自分主体のやりとりで、一緒に楽しんで貰いたかった。
「廉? れーん?」
 呼び掛けながら廊下を歩くと、どうやら庭にいるらしい。「外だよー」と、声がした。
 裸足のまま靴を履き、玄関を出ると、眩しい春の陽光が目に入る。
 手入れのされた庭、咲き乱れる色とりどりの花の向こうに、廉がかがんだままこっちを見た。
 だが隆也は彼の更に向こう、花びらを舞い散らせる桜の木に目を奪われた。

 桜吹雪は、こんなふうに延々と続くものなのだろうか?
 昨日見たものとまるで同じ風景に、ぞわっと鳥肌が立つ。今日は昨日と同じ? 明日も今日と同じ?
 なら今日、この後、「隆也」という異分子がここに現れたりするのだろうか? それとも繰り返されるのは景色だけで、異分子の来訪は無関係なのか?
 桜吹雪に魅入られたまま呆然と立ち尽くしていると、「どうした、の?」と声をかけられた。
 ハッとして我に返ると、目の前に小カゴを抱えた廉がいて、隆也の顔を覗き込んでいた。
 ふわっと甘酸っぱい匂いがして目を向けると、カゴの中には摘んだばかりらしい、熟れたイチゴが入っている。
「洗って、食べようか」
 にこりと笑って、井戸の方に向かう廉。
 その背中を追い掛けながら、隆也は「なあ」と声を上げた。

 立ち止まって振り向く廉に、さっきのいびつな靴下ボールをぐっと突き出す。
「これ、ボール。作った」
「ぼー、る?」
 カゴを抱えたまま、廉が不思議そうに首をかしげる。その廉に向かって、隆也は自作のボールをゆるく放った。
 放物線を描いて、白いボールが庭を横切る。
「わっ」
 廉は驚いた声を上げ、そのボールを伸ばした片手で受け取った。
「投げ返して」
 すかさず声を掛け、両手を構えてボールを待つ。
 すると廉はふふっと笑って、えいっとゆるく投げ返してくれた。

「すごい、ね。こうやって遊ぶ、の?」
 にこにこ顔で訊かれ、「まあ……」とうなずく。
 笑顔が見たいとは思っていたが、そうも嬉しそうに喜ばれると、気恥ずかしくて落ち着かない。
 イチゴを洗って、座敷で一緒に食べた後、今度は2人揃って外に出た。
 崩れかけた石塀の向こう、黄緑色に萌えるなだらかな丘の上に出て、靴下ボールでキャッチボールの真似事をする。
「いく、よー」
「おー」
 声を掛け合い、丸めた靴下のボールを投げ合う。
 投げて受けて、また投げて受けてを繰り返す。グローブもない、本物のボールですらない、2人きりのボール遊び。
 桜吹雪の舞い散る中、黄緑色の丘の上に、白い靴下のボールが映える。
 投げ合ってる内に、ボールはどんどん形が崩れてしまったが、廉はまるで気にしてもいなくて、それが何だか寂しかった。

 はは、と漏れる廉の笑い声に、ぎゅーっと胸が熱くなる。
「楽しい?」
 縋るような問いに、「うん」と明るい返事がくる。
 見たいと思っていた青年の笑顔が、すぐ目の前にあるというのに、どうして物足りなく思うのだろう?
 この幸せは永遠には続かない。終焉の予感が、隆也を再び不安にさせた。
「野球の練習でも、これやるんだ」
 唐突な隆也の言葉に、廉は「へえ」と笑った。
「もっとまん丸の硬いボールでさ、糸を固く巻いて作った球の上から、革を縫いつけてあって。そんでそれを投げたり、バットで打ったり……」

「……そう、か」
 曖昧な相槌。隆也の稚拙な説明の、半分も通じてはいないのだろう。
 青年の太い眉が、困ったように少し下がる。
 笑っているのに泣いているように見えるのは、きっとその下がり眉のせいだけじゃない。
「やきゅう、好き?」
 靴下ボールをゆるく投げて、廉が訊いた。
「ああ、好きだ」
 即答してボールを投げ返すと、それを受け止めて、「そうか」と廉がキレイに笑う。

 ぽつりと雨が降り出したのは、その時だった。晴れているのに雨が降る、お天気雨という現象。
「狐の嫁入り、だ」
 静かな声で、廉が告げる。
 キラキラと陽光を反射する、雨粒の向こうにぼんやりと、石造りの鳥居が現れる。
 昨日はあんなに待ち望んだ目印なのに、今はどうして、こんなに恐ろしく見えるのだろう?
「キミは帰れるよ。行って」
 廉が、隆也の背中を押した。
「このボールは貰ってく、ね」
 大事そうに両手の中に靴下ボールを握り締め、それからゆっくりと手を振る廉。
 「さよなら」なんて、はかなげな笑顔で言わないで欲しかった。
 帰りたくない訳ではないけれど、このままお別れもしたくない。一緒にいたい。もっとずっと側にいたい。

「廉、来い!」
 隆也は衝動的に怒鳴って、廉の手首をぎゅっと握った。
「だめ……っ」
 廉の制止も、無我夢中で耳に入らなかった。
「オレは、行けない……」
 絶望したような声も、諦める理由にはならない。
『置いて行かないで』
 夜中に聞いてしまった、泣きながらの寝言を思い出す。あの涙を見て、置き去りになどできなかった。

 10歳の小学生の、一体どこにこんな力があったのだろうか? 隆也は廉のためらいをものともせず、ぐいぐいと青年を引っ張った。
「アンタだってホントは、門の向こうに行きてーんだろ!? もうひとりはイヤなんだろ!?」
 隆也の言葉に、青年の抵抗がゆっくりと弱くなる。
 ひぐっ、と漏れる嗚咽に胸が痛む。
「でもオレ、は……」
 涙声で呟いた、それが隆也の聞いた最後の青年の声だった。
 延々と同じ1日を繰り返す、閉じられた美しい春の景色。降りやまない桜吹雪、踏み荒らした跡の残らない丘、時折お天気雨が降るだけの、梅雨空を知らない小さな世界。
 それら全部に背を向けて、お天気雨を浴びながら、高い石造りの鳥居をくぐる。
 廉の白い手首を、隆也はぎゅっと強く握ったままだったが――。

『ありが、とう』

 耳元で囁き声を聞いたと思い、振り向いた瞬間、廉の体がぶわっとたくさんの桜の花びらに変わって散った。
「え……っ!?」
 驚いて目を剥いても、もう青年の姿はない。
「廉!?」
 呼び掛けても応えはなくて、再び鳥居をくぐっても、その先には古ぼけた小さな神社があるだけだった。

(続く)

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あきゅろす。
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