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小説 1−9
囚われの里・3
 隆也が呆然と立ち尽くしてると、青年がゆっくり近付いてきた。
「あ、の……」
 少し高めの気弱そうな声。だが、それを聞くと同時に隆也は反対方向に向けて駆け出した。
「わああああああ――っ!」
 怖かった。叫ばずにはいられなかった。だから、無我夢中で走るしかなかった。
 丘を越え、草花を蹴散らし、道なき道をどんどん駆ける。なだらかな丘を上って下って、やがて土を踏み固めた道に出た。レンゲ畑に目を奪われることなく、舗装されてない道を必死に走る。
 けれど、木立を抜けて着いた先には、また朽ちた石段があった。
 桜の花びらがひらひらと落ちて来て、荒い呼吸を繰り返しながら、その石段の上を見上げる。
 そこにはあの、薄茶色の髪の青年が立っていて――。
「せ、説明する、から。来て」
 眉を下げ、困ったような顔をして、隆也に手を差し伸べた。

「大丈夫、だよ」
 再びあの屋敷の奥に隆也を通し、青年がまず言ったのは、その一言だった。
「待ってれば、キミはちゃんと帰れる、から。大丈夫、だよ」
 隆也は反論できなかった。
 訳の分からない現状に頭がパンクして、何も考えられなかった。
 気休めを言うな、根拠は何だ? そんな風に食って掛かる程の気力も失くして、畳の上に座り込む。
「今まで、色んな人がここに来た、けど、帰れなかった人は、いない、から」
 穏やかに告げて、青年が微笑む。
 温かな手で冷えた背中に触れられて、隆也は「わあっ」と声を上げ、青年の痩身にしがみついた。

「う、お」
 青年は最初戸惑っていたようだが、やがておずおずと隆也を抱き返してくれた。
「大丈夫、大丈夫……」
 耳元で気弱げな声が、あやすように繰り返す。
 隆也が泣きやむまで、青年はずっと隆也の背中や頭をやさしく撫でてくれていた。

 青年は、廉と名乗った。この屋敷に、ひとりでずっと暮らしているらしい。
「ずっとってどんくらい?」
 隆也の質問に、青年は首を傾げて曖昧に笑った。
「家族は?」
 その質問にも困ったように首を傾げられたので、それ以上は訊けなかった。
 笑っているのに泣いているように見えるのは、意外と太い眉がずっと下がっているからだろうか。
 ともかく、ここが閉じられた世界であることは、隆也にも何となく察しがついた。
 年齢よりも大人びていると、よく言われる隆也である。これが「神隠し」と呼ばれる状態なのだろうと、廉の話を聞いて悟った。
「雨が降れば、門が開く」
 廉は、隆也に断言した。雨はいつか必ず降るし、帰れないことはないのだ、と。

 門というのは、あの石造りの鳥居であるらしい。
 廉がここに住むよりも前からそれは存在しているそうで、「狐の嫁入り」のある時に鳥居をくぐると、ここに行き付いてしまうそうだ。
 狐の嫁入りとは、お天気雨のことである。
 珍しい現象のようにも思えるが、この里ではそう珍しくもないようだ。逆に、普通の雨が降らないのだと――何故だか寂しそうに言われた。
 野球少年の隆也としては、雨が降らないなら羨ましい限りだ。
 雨が降ると外で練習もできないし、試合だって中止になる。ボールもミットも湿度を吸って、普段とは少し使い勝手が変わってしまうし、手入れも注意が必要だ。
「梅雨ん時なんか困るんだぜ」
 隆也がそう言うと、廉は「へ、え」と首を傾げて、それから庭に遠い目を向けた。
「梅雨、か……」
 ぽつりと、懐かしそうな声が落ちる。

 時が止まったかのような、穏やかで静かな春の盛り。
 もしかすると、この神隠しの里には梅雨の季節が来ないのかも知れない。隆也はふとそう思って、その異様さにぞっとした。
 廉は、野球も知らなかった。
 電話もTVもここにはない。新聞も雑誌も。ただ、古ぼけた本が2冊あった。読んでいいと廉には言われたが、難しい漢字ばかりの古い本で、1ページも読み進められなかった。
 学校での成績はかなりいい方だが、国語は苦手である。
 暇があれば野球をしていたい隆也にとって、読書は暇つぶしになりそうになかった。
「その本、ずーっと前に迷い込んで来た人、が、置いてったんだよ」
 廉はそう言って、さっき水をくれた湯呑に、熱い桜茶を淹れてくれた。湯の中で桜の花がふんわりと開き、ほんのり塩味がして美味かった。

「ここから出る時、キミも何か1つ、置いてって、ね」
 廉はふひっと笑って、隆也の顔をちらりと見た。
「はあ? 何かって何を?」
「何でもいい、よー。靴でも、シャツでも、パンツ、でも」
 からかうように言われて、「はあっ!?」と立ち上がる。直後、くすくすと笑われて、隆也はじんわりと赤面した。
 冗談かと思ったら、そういう訳でもないらしい。
 何か1つ、この里に残す。それが、次に雨が降って門が開いた時、元の世界に戻る条件だった。
 手ぶらで来てしまったことを、後悔しても仕方ない。
 ハンカチやポケットティッシュすら持っていないので、本当に廉が言うように、靴かシャツか……着ているものを置いて行くしかなさそうだ。

 今回の旅行の為にと、靴もシャツも買ったばかりの新品だ。どちらを残していくにしても、母親からは大目玉だろう。
 そう考えて、ふと、隆也は自分の気持ちがかなり楽になっていると気付いた。
 廉の言葉を疑っていた訳ではないけれど、ちゃんと帰れるのだと、ようやく実感できたからかも知れない。
 ぐう、と鳴り始めた腹を抱えて、隆也は自分の足で歩き出した。
「廉ー?」
 青年の名前を呼びながら、廊下を歩き、その姿を探す。
「れーん!」
 大声で呼ぶと、「裏庭、だよー」と声がした。
 その声を辿って裏庭に出ると、そこには昔ながらの井戸があって、腕まくりした廉が、綱を引いて水を汲んでいた。

(続く)

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あきゅろす。
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