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小説 1−9
囚われの里・2
 青年は、何度も洗ったかのような使い古した白いシャツを着て、同じく使い古した水色っぽいズボンをはいていた。
「水、でいい?」
 欠けた湯呑みをことんと置かれ、隆也は「はい」とうなずいた。
 勧められ、断りきれず口をつける。走り回ってノドが乾いていたせいか、その水はとても甘く美味しかった。
 けれど、ここにくつろぎに来た訳ではない。隆也は飲み干した湯呑みを置いて、青年にしっかりとした目を向けた。
「あの、オレ、親戚の家を探してるんです。でも、どっち行ったらいいか分かんないんです。目印も見つかんなくて」
 隆也の相談に、青年は「う、ん」とうなずいて、困ったように眉を下げた。

「目印、って、石でできた、高い鳥居? 古い注連縄が、上の方にかかって、る?」
 それを聞いて、隆也の脳裏にさっき見た鳥居の姿がパッと浮かんだ。注連縄は正直覚えていなかったけれど、言われてみればあった気もする。
「それ! それです! 鳥居、どこにありますか!?」
 ガタッと立ち上がり、大声で訊くと、青年は気圧されたように少し仰け反り、「ない、よ」と答えた。
 意味が分からなかった。
「いや、でも、さっき……」
 言い募ろうとすると、青年はまた「うん」とうなずいて、こう言った。
「今は、ない。また雨が降れば、見えてくる、よ」

「雨……?」
 雨とは、さっきのお天気雨のことを言ってるのだろうか?
 言葉の意味が分からない。それは隆也が子供だから? それとも、からかわれているだけなのだろうか?
 雨が降ったら見えて来て、雨が止んだら消えてしまう? そんな、かげろうや虹みたいな鳥居など、聞いたこともない。
 海の上などに無いハズの街や橋が見える、蜃気楼という現象もあるけれど、それだってこんな春の野原で起きるとは思えなかった。
「蜃気楼じゃないですよね?」
 念のために訊いてみると、青年はその単語を知らなかったらしい。「し、ん……?」と不思議そうな顔をして、大きなつり目をまたたいた。
 
「あの、しん何とかは知らない、けど、雨が降るまで門は開かない、から。きっとすぐ、だから、ここで待てばいい」

 勝手な言葉に、隆也はカッと腹を立てた。
「なんっスか、それ? 意味ワカンネー。待てる訳ないでしょ。親だって心配するし!」
 いきなり大声を上げた隆也に、青年は薄い肩をびくりと震わせた。大人のくせに、その怯えた態度にも苛立った。
「オヤ、か……」
 ぽつりと寂しそうに言われ、一瞬ドキッとしたものの、それで苛立ちが治まる訳もない。隆也は年の割に大人びているとは言われるが、やはり10歳の子供だった。
 道を訊きたいだけなのに、どうしてこんな、訳の分からない話をされるのか? 納得できない上に、話も通じないのでは仕方ない。
「じゃあ、電話貸してください」
 隆也は苛立ちを隠さず、青年に頼んだ。
 電話をして、親に迎えに来て貰う。それは、隆也にとって最終手段に等しかった。勝手に出歩いて迷子になった事、見知らぬ家にお世話になっている事、何もかも全部バレるからだ。
 バレた後はどうなるか? ウメボシと説教のダブル攻撃は免れない。それはなるべくなら避けたかった。

 しかし――その最終手段を、隆也は取ることができなかった。
「電話、うちにない、よ」
 青年にあっさりと言われたからだ。
「えっ……」
 一瞬戸惑った隆也だったが、固定電話がないという意味かと理解する。クラスでも、そんな家庭はちらほらあった。ケータイ電話が主流の昨今、わざわざ固定電話を設置する必要性は、あまりない。
「じゃあ、ケータイ貸してください。それか、あんたが親戚んちに電話してください」
 右手を青年に突き出して、ケータイ電話を差し出せと促す。
 けれど、青年はその単語も知らなかったらしい。
「けー……たい、って?」
 大きな目をキョトンとまたたき、困惑したように訊いて来た。

 予想外の言葉に、隆也もさすがに絶句した。
 イマドキ、この年で、ケータイ電話を持っていない人間なんているのだろうか? それともこんな田舎なら、電波が届かない可能性もあるのか?
 だが、それなら固定電話すらないというのはおかしいだろう。
 そうすると、「無い」のではなくて、「貸したくない」だけなのに違いない。頭の中の冷静な部分で、隆也はそう結論付けた。
 それはあまりに腹立たしい予想だったけれど、それ以外には考えられなかった。怒りに、胸の奥が熱くなる。
「もういーっス!」
 隆也は立ち上がり、ドカドカと音を立てて廊下を歩き、玄関に向かった。

「え、と……?」
 青年が戸惑ったように追いかけて来たけれど、待つつもりはなかった。話も聞きたくないし、顔も見たくない。
 道を教えて欲しかっただけなのに。電話を1本掛けさせて貰えれば、それできっと済んだのに。大人しそうな顔して、なんて意地が悪いのだろう。
「ちっ」
 舌打ちをしながら靴をはき、薄暗い屋敷から外に出る。
 帰り道は、他の人に訊けばいい。或いは走り回っているうちに、見覚えのある場所に着くかも知れない。
 隆也は再び走り出した。舗装されていない、草ぼうぼうの田舎道。延々と降り注ぐ桜吹雪が、黄緑色に萌える丘を薄紅色に染めていく。
 木立を抜け、藪を飛び越え、レンゲ畑を横目に見ながら、土の道の上をひたすら駆けた。

 民家がなかなか見当たらないのには困ったが、まっすぐ走っていればきっと、どこかの道路に出るだろう。
 道路に出られれば、標識が見える。通りかかった車に停まって貰って、事情を話して最寄りの警察まで連れて行って貰ってもいい。
 親や親戚には怒られるだろうが、訳の分からない青年を相手にするよりずっとマシだ。
 父親からのウメボシの痛みを思い出し、こめかみをさすりながらひたすら駆ける。
 やがて目の前に、朽ちかけた石段が見えてきた。
 ここまで小川もなかったし、まさか元来たところの土手の上ではないだろう。だが、見晴らしのいい場所に立って、現在地を確認するのも悪くない。
 隆也はそう思い、石段をとんとんと昇った。
 あれだけまっすぐ走ったのだから、相当な距離を移動しただろうと思われた。
 けれど――。

「嘘、だろ」
 隆也は石段を登り切り、呆然と呟いた。
 延々と舞い散る桜吹雪に、崩れかけの石塀、手入れのされた菜園、色とりどりの春の花。そしてその奥に薄茶色の髪の青年が、眉を下げて立っていた。

(続く)

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あきゅろす。
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