椎名 昴
miss you2
「彼が誰かを好きになり、誰かが彼を好きになることは今までもたくさんあったわ」
唯さんは紅茶を一口飲んで、カップを机の上に戻した。
カチ、と陶器のあたる音が、静かな部屋に響く。
「でもやはり無理なの。難しいのよ、世界が」
「…………………………」
同じ歳とは思えないほど大人びた言葉。
ただ箱の中で静かに育てられてきたわけじゃないんだ。
私よりももっと広い世界を知っている。
「あなたを好むのは一時的なないものねだりなの。忘れて」
胸が痛む。
…金持ちのお遊戯のおもちゃだったのかな。
昨日胸が高鳴ったのが恥ずかしく思えた。やはり遊ばれているんだ。
「…唯さんは、彼が好き?」
「好きよ?好きだと洗脳されているだけかもしれないけど」
…洗脳……かぁ。
私も彼に好きだ好きだと言われているから、そう洗脳されているだけなのかも。
悲しさを押し殺すように、スカートの裾を強く握った。
鼻頭が痛くなる。
「あなたは彼が好き?」
「…………………………」
わからないよ。
突然彼が入り込んできたから、受け止めきれない。
何がなんだかわからなくて、ただ現状を理解するのに精一杯で。
彼を愛すことは、全てを捨てることならば、…もっとわからない。
「…答えは出たようね」
唯さんが私を見て、少し笑った。
「私は彼と結婚するんだって言われて育った。一体どんなやつなんだろうって、興味が湧いたわ。そして会ったとき、一目で恋に落ちた。父や母にも後押ししてもらい、椎名家に気に入られるような作法を身につけ、少しずつ受け入れられた私。でもあなたは家族や他を押しのけて彼にたどり着いた。……悔しくて腹正しいわ」
門をくぐり、道路の端に停まっていた黒の車に目がいった。
…きてたんだ。
「…ただいま」
黒のリムジンに歩み寄ると、膨れっ面をした彼が見えた。
窓が開き、私を見上げる。
「俺が、嫌になったか」
視線を、反らした。
車の中は沈黙でいっぱいだった。
先ほど視線を反らしたのがまずかっただろうか。
今になって怖くなってきた。
せめて嘘でも、そんなことはないといえばよかったかな。
本心じゃないと今さら弁解するわけにもいかない。
唯さんの気持ちが、ひどく共感できる。
スカートの裾を強く握る。
私も『7時半の彼』に恋して、変わりたいと思った。
けれど彼にはなかなか辿り着けず、過ぎていく日々の中で、突然現れた女性と付き合ってしまったら……?
…悔しいや。
「昨日買ったドレス」
「え?」
顔を上げ、彼の横顔を見る。
「今度の土曜日に着てこいよ」
「え……?」
あっという間に、車は有栖川に入った。
あんな豪勢なドレスを、どこに着て行くというのだろう。
「土曜日、夜7時に迎えに来る」
椎名くんは、いつもよりも冷静な口調で言った。
いつもなら車からおりていく私を見ていてくれているのに。
今日はそっぽを向いていて。
なぜだろう。
このまま離れたくない。
なぜ、あんなに唯さんの気持ちに共感できるのに。
車を降りたが、ドアを閉めない私に、佐藤さんが不思議そうに私を見た。
「…おやすみ」
何かを言いかけたがやめてそれだけを言い、私はドアを閉めた。
結局のところ、何を言いたかったのかもよくわからない。
でも、何か彼をつなぎとめる言葉が言いたくて。
ドアを閉めたあとうつむくと、自分の気持ちがはっきりと明瞭に見えた。
…洗脳。
それも悪くないのかも。
窓ガラスの奥で、手に顎を乗せる彼を見ながら、ふとそんなことを思う。
唯さんの気持ち、共感できる。…けど。と否定する自分がいる。
なんだろう。
この気持ち。こんな気持ち、感じちゃいけない気がするのに。
窓ガラスを見たまま考えに耽っていると、彼が窓を開けた。
「…どうした」
私が車から離れないので、どうやら発進ができないようだ。
春風が、私の髪を揺らし、顔を撫でていく。
彼の髪も春風になびいた。
彼の些細な美しい顔が、憂いを含んでうつむく。
「…わけわかんねぇやつ」
……ごめん。
心の中で呟く。
「なんでそんなにつなぎとめるように見るんだ」
…つなぎとめてほしいから。
彼と視線が重なり、私は車のドアを開け、彼に近づく。
彼の唇に…触れる。
彼もそれに応えるように、目を閉じた。
わずかな吐息が、胸を震わせる。
いよいよ、わかってしまった。
もう戻れないくらい、恋してること。
唇を離すと、彼は私の額に自分の額をくっつけた。
そして複雑そうな顔をして、「わけわかんねぇ」ともう一度呟く。
私もどうしていいかわからない。
唯さんの気持ちわかるのに、私どうしても欲しくて。
どうしようもないくらい、洗脳されている。
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