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ドースン家の隣の家に侵入し、警報を鳴らす。数人の足音が聞こえた。警報の音に慌てている。どうにも動きが素人臭い。やはり、ディノ直属の部下ではないのだろう。
すぐにその場から離れ、暗い道を走った。
走りながらショーターからのメールを確認し、続いてマックスに電話をかける。ワンコールもしないうちにマックスは出た。

『お前っ今どこにいるんだ!?』
「そっちにディノの手下は来たか?」
『はぁ!?…来てねぇが…お前らまた襲われたのか!?』
「いちいち声がでけーよ。こっちは大丈夫だ。ドースンの家でアレの資料を手に入れた。今からそっちに戻るから、動くんじゃねーぞ」
『おい、待て…―』

マックスの言葉を最後まで聞くことなく電話を切る。地図を確認するとあと少しで英二とショーターがいる公園にたどり着くところだった。
すぐにマックスから電話がかかって来たが、そのままスマホの電源を切った。


公園の中に入り、走る速度を落とす。辺りを見回すも、人影はなかった。植え込みの陰にでも隠れているのだろう。草むらの中に入ろうとした時、ガサリと物音がした。
振り返るとそこに二人がいた。

「アッシュ!」
「二人とも無事か?」
「おう、誰にも見つかってねーぜ」

駆け寄って来た英二を、腕を広げて受け入れる。英二は俺の体を隅々まで見た。怪我がないかチェックしているらしい。そんな英二が可愛くて、俺はそのまま抱き寄せた。「わっ!?」と小さく驚きの声が上がる。
そして『記憶』が見えた。

…―薄汚れた路地裏。見覚えがあった。チャイナタウンの近くだ。俺は地面に座っていた。顔を上げると目の前にはオーサーがいた。その目を見て、これが英二の視点であると気づいた。奴はこんな目で俺を見たりしない。「こんな人気のない所にわざわざ入ってくれるとはな、助かったぜ」奴は英二の顎を掴み、息がかかるほどの距離で言った。…―

クソ、英二に触んじゃねぇ!!

思わず英二を抱きしめる腕に力がこもる。「あ、アッシュ、苦しい」と英二が呻いた。俺はその声にはっとして、腕の力を緩めた。
ショーターはそんな俺を見て苦笑いする。嫌な『記憶』を見たことを察したんだろう。俺に向けて軽く両手を開いた。

「あー…俺ともハグするか?」
「しねぇよバカ」
「ひでぇ」

「傷ついたぜ〜」と笑いながら、ショーターはスマホを取り出した。地図と時間を確認して唸る。

「次の問題は、どうやって戻るか…だよなぁ」
「あぁ」

ショーターの言う通り、それが問題だった。マックスに戻るとは言ったものの、俺たちの車はディノの手下に押さえられてしまった。時間も遅く、バスも電車も動いていない。タクシーを使うしかないだろうか。

「とにかく、大通りに出るぞ」

…―しかし、大通りに出る前に俺たちは予期せぬ人物と会うことになった。


公園の入り口に一台の車が止まる。その音を聞いて俺は足を止めた。英二を背にかばい、銃を構える。ショーターはナイフを抜いていた。
黒いスーツの男が、後部座席のドアを開ける。降りてきた人物を見て、俺は目を見開いた。俺の後ろから様子をうかがっていた英二が「え!?」と声をもらす。
奴は当然俺たちに気づいており、にこやかに笑って両手を軽く上げて見せた。戦意はないと言いたいらしい。しかしその後ろに控えている男たちの手は銃に伸びている。全くもって信用できない。長く伸びた髪を束ねているそれに、針が仕込まれていることだって『記憶』を見た俺は知っている。
俺が銃を下ろさないままでいると、後ろから英二の手が伸びてきた。ぐっと銃をおさえられる。

「英二」
「銃を下ろしてアッシュ。…彼がユーシスだよ」

俺とショーターにだけ聞こえるように囁いた。ショーターの肩がわずかに上がる。そして、ゆっくりとナイフをしまった。俺もそれに続いて銃を下げる。
それを見てユーシスはゆったりとした足取りで近づいてきた。

「こんばんは、僕は李華龍様の使いのユーシスです。あなた方の助けになるようにと仰せつかっています」

末弟であることと本名を隠している。本名を名乗らないのは特別珍しい事でもないが、弟であることを隠すのはどうにも怪しい。

「助けてくれだなんて言った覚えはないんだがな」
「でもお困りでしょう。我々ならあなた方に安全な場所を提供できますよ」

そう言って、ユーシスは優雅に微笑んだ。
どうする。この申し出を断ったとして、この場で俺たちをどうこうする気はないだろう。この距離だ。やろうと思えばコイツを人質に取って車を奪うことだってできる。
俺が考え込んでいると、英二が俺のシャツを引っ張った。

「行こう、アッシュ」

黒い瞳に怯えも迷いもない。ショーターに目をやると、無言で頷いた。

「…分かった。安全な場所とやらに案内してくれ」
「はい。では、こちらにどうぞ」

俺とショーターで英二をはさむようにして車に乗り込む。後部座席は広く、シートは向かい合っていた。ユーシスが俺たちの正面に座ると、なめらかにドアが閉まった。
飲み物を取り出そうとしたユーシスに「飲み物はいらねぇ」と言うと、奴は残念そうな顔をして笑った。…筋肉弛緩剤なんて混ぜられたらたまらねぇからな。

「で、何で俺たちの居場所が分かったんだ?」
「僕は詳しい事情を知らされていないのです。ただ、アレクシス・ドースン宅にあなた方が現れたら手助けするようにと…」

バナナフィッシュについて探りを入れるためにディノ・ゴルツィネ邸を偵察していたのだろう。ドースンの情報はそこで得たとして…俺たちを手助けするメリットが分からない。
俺は単刀直入に言うことにした。

「ディノ・ゴルツィネと取引したんじゃねぇのか」
「え…?」

ユーシスの目が驚きに見開かれる。図星…にしては妙な反応だ。

「ゴルツィネ氏を撃ったのはあなたでしょう?彼の容態をご存じないのですか?」

これは…俺たちの予想通りの展開になっているのかもしれない。
李家は、まだゴルツィネと取引していない。

「彼はまだ療養中で、我々との取引などができる状態にないのですよ」

嘘を吐いている様子ではなかった。むしろこの事実を俺がまだ知らないことに驚いているようだ。

「療養中ね…回復して美味しい餌でもちらつかされたら手のひら返すんじゃねぇのか?ヨーロッパの市場はあんたらだって欲しいはずだ」
「それは…上の方々の決めることですので、僕からは何とも」
「へぇ…」

感情の読みにくい黒い瞳が、俺をまっすぐに見つめ返す。『記憶』の中で会っていたから初対面という感覚はあまりない。だが、実際こうして対面してみるとかなり肝が据わっていると感じた。

「あの、何かご入用のものなどはありませんか?言っていただければ何でも用意できますよ」
「そりゃ助かるな。考えとくぜ」

輝かしい町の明かりの中、車は静かに進んでいった。








ユーシスに案内されるまま、屋敷に足を踏み入れる。こんな所に来たのは初めてだ。中華風の建物はどこか浮世離れしていて、ここがロスであるということを忘れさせる。
ユーシスが嘘を吐いているか否か、僕には到底分からない。ドースンの養子を演じている彼の姿を何度も見てきたが、分かっていても彼は被害者にしか見えなかった。
車の中でのアッシュとのやり取りは、正直冷や汗が出た。僕たちの予想通り、ゴルツィネの怪我の具合が悪くて取引などは一切行われていないとのことだったが、それも信じて良いものなのか…。

「こちらの部屋をお使いください。呼んでいただければすぐに参りますので」
「分かった」

アッシュが答えると、ユーシスは優雅に一礼して音も立てずに部屋を後にした。
しばらく閉じられたドアを見つめていたら、アッシュに手を引かれた。そのままソファに腰を下ろす。ショーターは向かい側に座った。

「で、これからどうする?」
「そうだな…とりあえず、ディノと取引してないっていうのは信用していいだろう」

そう言ってアッシュは足を組んだ。手はまだ僕の手を握ったままだ。

「奴と二人で話してみる。明日お前たちは一旦オッサンのところに戻ってくれ」
「そんな!アッシュを一人でここに残してくなんてできないよ」

僕が反対すると、アッシュは柔らかく笑って見せた。

「元から俺が交渉するって計画だったろ?心配すんな、あんなお姫様にはやられねぇよ」
「あいつ一人だったら良いが、ここじゃそうも言ってられねぇだろ」
「なんだよショーター、お前まで心配してくれんのか?」
「ちゃかすなって。場所はここ以外でな」

ショーターの言葉にアッシュは「もちろん」と頷く。それでも僕は嫌だった。アッシュを一人にしたくない。

「僕も一緒にいちゃだめなの?」
「お前がいたらあのお姫様が素直になれねーだろ」

そう言われたら…確かにそうだ。僕はユーシスに嫌われている。今の段階では何とも思われてないだろうが、それでも受け入れられることはないだろう。何というか、僕の言う事を受け入れるユーシスを想像できない。
ひとまずアッシュがマックスに連絡を入れて、朝までこの部屋で休むことになった。




翌朝、僕とショーターはユーシスが用意してくれた車に乗ってジェシカの家まで戻った。アッシュはユーシスと話すタイミングを作るということで別行動だ。
本当は嫌だったけれど、僕が一緒にいたからといってできることはない。
ジェシカの家に着くと、すぐに伊部さんが駆け寄って来た。

「英ちゃん!!」
「伊部さん、遅くなっちゃってすみません」
「追手に襲われたって?怪我はしてないかい?」
「車を取られちゃったんですけど、見つからずに逃げ出せたので大丈夫ですよ」

運転席から降りて来たショーターが困ったように笑う。

「伊部さんは英二のことになるとちょっとカホゴだよなぁ」
「心配して当然だろ!…君たちのことだって心配したんだ」
「そりゃ、悪かったよ」

僕は申し訳なくて言葉に詰まった。その時、玄関の方から声がした。顔を上げると、そこにはジェシカと言い合うマックスの姿があった。

「ふざけないで!説明もなしに身を隠せだなんて、はい分かりましたとでも言うと思ったの!?」
「お前とマイケルのためなんだ!事情を説明したら余計に危険になる!分かってくれよ…」

何度か頭を叩かれたのだろう、マックスの髪は乱れていた。しかし、マックスはジェシカの手を放すことなく掴んでいる。
ジェシカもジャーナリストだ。ここで事情をあやふやにしても自力で調べて単身で乗り込んできてしまう。そのくらいの能力と気合のある女性だ。

「あー、お二人さん?近所迷惑だし、中で話そうぜ?」

ショーターがそう言って、マックスの背を押した。

リビングに入り、昨晩とはまた違う緊張感のある中テーブルを囲む。ジェシカは腕を組んで僕たちを見下ろした。
凄まじい威圧感だ。
僕はアッシュから預かったファイルを取り出した。これは全部ではない。一部はユーシスとの交渉のため、アッシュが持っている。でもこれだけあれば十分記事が書けるはずだ。
ファイルをテーブルに置くと、ジェシカの目つきが変わった。マックスの顔色が悪くなる。睨まれて少し怖かったが、僕は口を開いた。

「ここで隠し事をしても、きっとジェシカは調べるよマックス」
「英二よせ…!」
「いいえ、その通りよ。続けて頂戴」

マックスを遮って、ジェシカが続きを促す。僕はファイルを開いた。そしてバナナフィッシュについて知っていることをすべて話した。
…―自己を完全に破壊し、完璧な薬物暗示ができる悪魔の薬。その実験に戦場の兵士がモルモットにされたこと。軍が関与している可能性。ゴルツィネが取引しようとしている存在…―。
すでに知っているショーター以外、全員の顔色が悪くなる。伊部さんは特に酷かった。マフィアとストリートキッズの争いに巻き込まれたというだけでも信じられない事だったのに、こんな国までを巻き込んだ壮大な話など受け入れきれないに違いない。

「……アッシュは、あいつはどこにいるんだ」

ハッとしてマックスが言う。「チャイナタウンで、李家の人と話してる」と答えるとマックスは頭を抱えた。

「あいつ、戦争をする気なのか…?」
「いつまでも逃げてはいられないんだから、戦わないと」

僕の言葉に、伊部さんが信じられないものを見るような目で僕を見た。そんな変な事は言ってないと思うのだが…。伊部さんの視線に違和感を覚え、首を傾げる。すると伊部さんは何も言わずに目を伏せた。

「あのなぁ…もうこれは個人のレベルをゆうに超えちまってるんだ。国が絡んでんだぞ?」
「でも!マックスならペンで戦ってくれるんでしょ?…そう信じてアッシュはこれをマックスに渡すことにしたんだよ」
「それは…」

マックスの視線が揺れる。ジェシカの方を見て、ファイルを見る。眉間のしわは深くなり、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。守るべき妻と子の存在と、10年かけて真相を追ったバナナフィッシュの真実。マックスにとって、前者が何よりも大切なのは分かっている。でも、ここで戦わなければそれも守れなくなる。

「情けないわね」

沈黙を破ったのは、ジェシカだった。
ダン!と勢いよくテーブルを叩く。その音に思わず背筋が伸びた。ショーターも驚いたのか、さっきより姿勢が良い。

「良いわ、アンタがやらないってんなら私がやる。合衆国相手?上等じゃないの」
「おい、おいおいおいおい嘘だろ何言ってんだ!?」
「アンタがビビってうじうじしてるからでしょうが!言い訳にされるなんてごめんよ」
「とんでもなく危険なんだぞ!」
「分かってるわよ!」

夫婦の言い争いが始まった。その様子を見て、ショーターが「あれ、止めなくて良いのかよ」と耳打ちしてくる。僕は頷いた。あの調子だったら大丈夫だろう。
それに、何と言ってもマックスに勝ち目はない。ジェシカに何も知らせず、巻き込まずに守るのは不可能だ。これは今までのどの世界でもそうだった。彼女は必ず自力でこの真相に近づいてくる。

「じゃあ、二人で話し合ってね」

そう言って、二人を残して僕たちはリビングを後にした。









「アンタと取引がしたい」

英二とショーターが車で出るのを見送った時、俺はユーシスに囁いた。盗聴器の類を身に着けているかもしれないが、これは別に聞かれても問題ないだろう。
それに、聞かれたら立場が危うくなるのは俺よりも奴の方だ。
ユーシスは俺の言葉には何の反応も示さなかった。瞬き一つしない。

「車、助かったよ。あとは武器が欲しい」
「えぇ…承知しました」

何事もなかったように会話を続ける。周りの人間も特に気にしていないようだ。
俺は必要な武器を書き出したメモをユーシスに渡した。そのメモを見て「夕方までには手配いたします」とユーシスが答える。

「じゃあ、それまで俺は町にいる。用があったらそっちから来てくれ…どうせ、どっかで見てんだろ?」
「そんな…お力になれるよう動いているだけですよ」

ユーシスは薄く笑い、頭を下げた。いつものように足音を立てることなくその場を辞す。
俺はそれに小さく舌打ちをして、豪奢な門をくぐり抜けた。



コーヒーを買ってテラス席に座る。汚い店よりこういったところの方が奴も入りやすいだろう。
ショーターからのメールを確認する。マックスの説得に成功したようだ。主にあの気の強い奥さんのおかげらしいが。これで攻撃のパターンが増えた。

「こちらの席、よろしいですか?」

そう声をかけられたのは、メールの返信をしてしばらく経ってからだった。「あぁ、構わないぜ」と俺は笑顔で答えた。そこには先ほど着ていた黒い中華服ではなく、洋服に身を包んだユーシスがいた。髪留めも普通の黒いゴムに変わっていた。

「何か頼むか?」
「いえ、結構。こういった店の物は口に合わないので」
「そーかよ。じゃあ、アンタが食いつく好物の話でもしようか」

もう一介の従者の振りはやめにしたらしい。尊大な態度に笑いが漏れる。悪くない展開だ。
俺を射抜くような視線はどこまでも油断ならない。

「お前が、ただの使いのモンじゃねーってのは分かってる」
「そうですか」
「焦らないんだな?」
「そんな大したことではありませんので」

まだ猫をかぶった話し方をするのが気に食わない。

「李家の隠された七番目の末子」
「…っ!」

ユーシスが息を飲んだ。涼し気な目が一瞬だけ見開かれる。しかしそれはすぐになりを潜めた。

「…どうやら君は、聞いていた以上に切れ者のようだ」

やっと『いつもの』話し方になった。
俺は足を組みなおした。英二からもらったファイルの一部に手を伸ばす。
上着に手を入れた時、わずかにユーシスが緊張したのが分かった。銃が出てくるとでも思ったのだろう。俺は軽く首を振った。

「まぁ、そんなに構えんなよ。言っただろ?『アンタと取引がしたい』って」
「それで、一体僕に何をして欲しいんだい?」
「俺たちの『味方』になって欲しい」
「………は?」

ストレートにそのまま伝えると、ユーシスは年相応の幼い顔で驚いた。俺の口からそんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかったらしい。俺はファイルをちらつかせ、言葉を続けた。

「お前の『悲願』を叶える物をこっちは持っている」
「何を言っているのかよく分からないんだが」
「俺はお前が本当にやりたがってる事を知ってるってだけさ」

コーヒーに口をつける。それはすっかり冷めてしまっていた。
ユーシスは石像にでもなったみたいに微動だにしない。今頭の中は猛スピードで回転していることだろう。ベラベラと無駄口を叩く能無しよりかは好感が持てた。

「その…『物』というのは、何だ」

長考の末、ユーシスは俺たちが用意した餌に食いついた。



夕方、ショーターだけがチャイナタウンに戻って来た。英二も連れてこようとしたが伊部に阻止されたらしい。そんなの無理やり連れて来いよな。俺が睨むと「無茶言うなって〜気の毒になっちまったんだよ」とか何とか言い訳をしてきた。ショーターは昔から甘い奴だから、仕方ない。
それに英二に武器を持たせる気は一切なかったので、結果としては良かったのかもしれない。

ユーシスの用意した武器を受け取る。ショーターにも一丁持ってもらうことにした。
英二の話では今夜ジェシカの家にチャイニーズマフィアが乗り込んでくるとのことだったが、『今回』それはないだろう。代わりにゴルツィネの手下が来る可能性はある。

「戻るぞ」
「アイツの件はどうなったんだよ」
「それは車で話す」

小声で聞いてきたショーターにそう返し、俺は部屋を出た。出口の前にはユーシスが立っていた。黒い中華服に金属製の髪留めをつけている。

「もう発たれるのですか?」
「あと一人連れてすぐに戻る。小型機の準備をしておいてくれ」

ユーシスは頭を下げて「かしこまりました」と答えた。何か言いたそうにしているショーターをそのままに、俺は速足で車に向かった。
運転席に乗り込み、エンジンをかける。ショーターが助手席に乗ったのを確認して、アクセルを踏んだ。

「ユーシスは俺たちに協力すると言った。とりあえずはな」
「…!じゃあ、仲間にできたのか?」
「その言葉は適当じゃないが…今は使えるってことだ」

英二に触れて見えた『記憶』が脳裏によぎる。英二を守ろうとディノの目の前までついて行ったショーターは、俺の手によって死んだ。そうなった原因はユーシスにある。英二をショーターにさらわせたのが奴だったからだ。
それを思うとどうにも『仲間』になったとは言い切れない。この世界では起きていないことだが、俺にとっては間違いなく『起きた』ことだった。

「オッサンたちにバレないよう、夜中に出る」
「ニューヨークに戻るんだな」
「あぁ。あの野郎が弱っている『今』を逃すわけにはいかねぇからな」




家につくと、英二は玄関先に出て俺たちを待っていた。俺たちを見てすぐに駆け寄ってくる。

「アッシュ、ショーター!」
「おい、中で待ってろよ。危ねぇだろうが」
「車の音がしたから出て来たんだよ。それより…大丈夫だった?」

俺の無事を確かめるように、英二が肩に触れる。記憶が流れ込んできた。

…―視線の高さで分かる。英二の視点だ。目の前にはユーシスが立っていた。英二の右手から血が流れている。そして銃が握られていた。「君は彼にふさわしくない」ユーシスが言う。俺にしてみれば全く意味の分からないことだった。英二が俺にふさわしくない?逆だ、俺が英二にふさわしくない。…―

「…アッシュ?ユーシスと話せたの?」
「…やっぱりアイツ嫌いだ」
「へ?」

まずい、声に出ていた。俺はすぐに「話はできた」と答えて誤魔化した。家の中に入ると、リビングにはマックスと伊部が待っていた。ジェシカはマイケルを寝かしつけに行ったらしい。

「お前のことだから戻ってこないのかと思ったぜ」
「ちょっと留守にしただけだろ」

マックスに答えて、椅子に座る。すると、難しい顔をしていた伊部が口を開いた。

「今日知り合いの出版社と連絡を取った。ビザについて移民局に掛け合ってくれるらしい」

そう言って、俺の隣にいる英二に目を向ける。俺がいない間に何やら話し合ったらしい。何を話し合ったかは一目瞭然だ。それに、場所は違うがこの場面は『記憶』でも見た。

「俺と英ちゃんは、日本に帰るよ」

部屋の中がシンと静まり返る。このパターンを知る由もないショーターは少し慌てた声を上げた。

「英二の意見はどうなんだよ?納得してんのか?」
「えっと…」
「納得云々の話じゃないよ。もう僕ら一般人には手に負えない事態だ」

ここで何を言っても伊部の意見を変えることはできない。伊部は英二の保護者としてここにいる。19歳の男に保護者も何もないだろうとは思うが、英二相手ならば話は別だ。保護したくなる気持ちは痛いほど分かる。日本に連れ帰りたいというのも当然の主張だ。

「……分かった。だが、今日はここにとどまってもらう。ゴルツィネの手下が嗅ぎまわってるだろうからな」
「…ありがとう、アッシュ」
「何に対しての礼なんだ?」

笑って聞き返した俺に、伊部は答えなかった。ただ酷く辛そうな顔をして、目を伏せる。何だか悪い事をした気分になった。…いや、実際しているのだ。ここでこの二人を騙して、俺は英二を連れて行く。

「俺はニューヨークに戻るぜ、この記事のこともあるしな…お前たちはどうするんだ?」
「俺たちもニューヨークに戻る。ディノは傷が治っていない。叩くなら今だ」
「…止めたって無駄なんだろうな」
「その通り、よく分かってんじゃねぇか」

俺は椅子から立ち上がって、ソファへと移動した。そのまま横になる。

「話は終わったな。俺は少し休む」

そう言うと、マックスはため息をつきつつもリビングから出て行った。それに伊部も続く。ジェシカに泊めてくれと頼みに行ったのだろう。
クッションを取って頭の下に置く。視線を上げると英二が立っていた。手招きすると首を傾げつつ俺に顔を寄せる。俺は英二の耳元で「今夜出るからな」と囁いた。







いつもは無理やりさらわれてバラバラになっていたので、こうして騙す形で伊部さんの元を離れるのは心苦しかった。



昼間、僕は伊部さんと二人で話をした。日本の事を話題にされたらまた反応を間違うかもしれない。そんな不安から、僕は伊部さんと二人で話すのを何となく避けていた。

「英ちゃん…英ちゃんがアッシュの事を助けてあげたいって思う気持ちは、俺も分かってるよ」
「伊部さん…?」

力強く手を握られ、ハッとする。伊部さんは真剣な目で僕を見つめていた。

「俺はね、英ちゃんを無事に日本へ連れ帰らなきゃならないんだ。分かるね?」
「はい…」

日本に帰る、という話か。
嫌な話題ではあったが、思い出話ではない事に安心した。

「俺たちの旅はここで終わりだ。…アッシュが戻ったら、お別れを言おう」

「お別れ」だなんて、嘘でも言いたくない。頷かない僕に、伊部さんは悲しそうな顔をした。するりと手が離れていく。何か言わなければ、そう思ったけれど言葉が見つからなかった。

「君らは、人種も性格も育った環境もまるで違う。正反対と言っても良いくらいだ。こんなに仲良くなるなんて、最初は思わなかったよ」
「…そう、ですね…僕もそう思います」
「アッシュがね…いや、これは言っても良いのかな…」

そう言って、伊部さんが「うーん」と悩む。アッシュが一体どうしたのだろう。僕は気になって、「話してください」と思わず大きな声で言ってしまった。

「え、えっとね…その、アッシュは英ちゃんの事をちゃんと知ろうとしているっていうかね」
「どういう、ことですか?」
「日本での英ちゃんの話をしてくれって、何度も言われたんだ」

伊部さんは微笑ましいものを思い出すように笑っていた。でも僕は、何だか分からないけれどショックを受けていた。ショック…というと語弊がある。アッシュが僕のことを知ろうとしてくれている、その事実はとても嬉しい。嬉しいのだけど、同時に…なぜか泣きたくなるほど『悲しい』、と思ってしまった。
自分でも意味が分からない。

「棒高跳びの話をとくに聞きたがってたよ。英ちゃん本人に聞けば良いって言ったんだけどさ、どうにもそれは恥ずかしいみたいで…英ちゃん?どうかしたのかい?」

頬に熱い雫が伝う。ポタポタと落ちる。それが僕の手を濡らし、僕はやっと自分が涙を流していることに気づいた。視界がにじむ。喉の奥がきゅう、と震えた。吐き出す息が熱い。止めないと、そう思ったけれど、止められない。
そんな僕を見て、伊部さんは何も言わずに肩を抱き寄せてくれた。頭を優しく何度も撫でられる。
伊部さんはきっと、僕がアッシュから離れたくなくて泣いているのだと思っているのだろう。
もちろん、アッシュから離れたくなんてない。でも、今流れているこの涙の理由はそうじゃなかった。

アッシュ…君は優しすぎる。




夜、チャイナタウンからアッシュとショーターが戻って来た。マックスと伊部さんと話し合い、僕と伊部さんは日本に、マックス達はニューヨークに戻るということで話はまとまった。
アッシュは昼間のうちにユーシスと話をつけてきたらしい。僕が提案したことではあるが、あのユーシスを味方につけることができるなんて、流石アッシュだと思った。

マックスと伊部さんは客間に、僕たちはリビングを借りて休むことにした。フットライト以外の電気を消して、床の上に敷いたブランケットに横になる。といっても、寝たふりだ。深夜になったらここを出る。
もし置いて行かれたらどうしよう。
そんな考えが頭をよぎって、すぐ打ち消した。置いていくつもりなら最初からここを出ることなど言いはしない。
ソファで寝ているアッシュを見る。長い脚が大きくはみ出ていた。ここから顔を見ることはできない。が、穏やかな寝息が聞こえてくる。…本当に寝てしまったのだろうか。
リビングの時計がカチカチとなる。だんだん秒針の音が大きく聞こえてきて、不安になって来た。ブランケットで光が漏れないようにしながらスマホを確認する。日付は超えていた。
その時、アッシュがソファから身を起こした。当然のように僕の腕をとって、立ち上がる。その気配を感じて、床で寝ていたショーターも起き上がった。

「……行くぞ」




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