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現時点での仮説…―英二に触れると『これから起こるかもしれない出来事』が見える。




車を乗り捨てた後、ショーターに会いに行こうと無邪気に笑う英二を連れて道を歩いた。すぐにオーサーの手下が俺たちをつけていることに気づき、俺は英二の手を取って路地裏に入った。その瞬間、また映像が見えた。

…―港に響く激しい銃声、俺は肩から血を流していた。マックスが「飛び込め!」と叫ぶ。…―

俺たちを追って路地裏に駆け込んできた男を見て、俺の意識は一気に引き戻された。反射的に男の腕を引いて、腹に膝蹴りを入れる。うめく男の腕をひねり上げていると、後ろからショーター達がやって来た。男の尋問はショーターの仲間に任せ、場所を移す。
さっき見えた映像は短すぎて、周りの状況がほとんど分からなかった。ただ、何かに追われているということははっきり分かった。






「何考えてんだ?」

ショーターに聞かれ、俺は顔を上げた。ショーターの手には中華料理の入った袋があった。二人で買い出しに来たのだが、結局ショーター一人にやらせてしまった。袋を受け取って、「別にたいしたことじゃねぇよ」と答える。するとショーターは困ったように眉を寄せて笑った。

「英二の事か?」
「何で」
「あ、当たり?あいつなんか不思議な感じするよな」

その言葉に俺はハッとした。もしかしたらこの現象は俺だけに起きていることではないのかもしれない。

「あいつに触ったか?」
「え?何いきなり」
「だから、英二に触った時に変な感じがしないかって聞いてんだよ」

ショーターが「はぁ?」と心底分からないと言った声をあげた。何だよ、不思議な感じがするってお前が言ったんだろうが。ショーターは「え、何、お前そーゆー…」とか何とかモゴモゴ言っていてはっきりしない。

「どうなんだよ」
「いやー俺はそーゆーのはない、かな」
「…じゃあ、不思議な感じってのは何なんだ」

「それはさぁ…」と、ショーターは思い出すように空を見上げた。

「なんか、初めて会った気がしないっていうかよ。こいつなら信じて大丈夫だなって…そんな感じだよ」

そうか。ショーターもなのか。
その感覚はよく分かった。俺も同じ事を思ったからだ。英二とは初めて会った気がしない。どこかで出会っているような気がしてならない。それに…信用できる。

「それは、分かる」
「だろ?だから不思議だなーってな」

そんな話をしていると、英二のいる宿に到着した。



テーブルに乗った英二の手が目に入った。考えるよりも先に体が動く。俺は自分の手を英二の手に重ねていた。俺よりも小さい、だがしっかりとした手。同時に流れ込んでくる映像。

…―薄汚れた部屋の中、ベッドの上で英二が泣いていた。ナイフで切り裂かれたのか、シャツは破れ、血がにじんでいる。「ごめん…ごめんよ」と英二が謝る。俺の体は動かない。英二の手には銃が握られていた。「今度はちゃんと…うまくやるから」そう言って、ゆっくりと銃を持ち上げて、その銃口を…―

「えっと…アッシュ?これ、食べたいの?」

英二の声で映像が途切れる。銃口の行方が気になり、そのまま重ねた手を見つめた。しかし、数秒経っても映像の続きを見ることはできなかった。諦めて、そっと英二の手を離す。
顔を上げると、英二もショーターも妙なものを見るような目で俺を見ていた。どう誤魔化したものかと考え、すぐ放棄した。いきなり手を握る理由なんて思いつかない。「触りたくなった」と嘘偽りなくそのまま伝え、席に着く。英二が追及してくることはなかった。が、ショーターはサングラスの奥からもの言いたげな視線をよこしてきた。

それから、英二が妙な例え話を始めた。悲劇が起こると知っていて、それを止められるならどうするか…そんな話がどうしてここから帰らないという話につながるのか。
そう思った時、脳裏にあの映像がよみがえった。
泣きながら謝る英二。「今度はちゃんと…うまくやるから」震える声が痛々しい。一体『今度』とは何のことだ?その銃をどうするつもりなんだ。

「もし、助けそこなったらどうするんだ」

英二の答えは「諦めない」だった。車の中でも聞いた。諦めたくないと。

「僕は諦めないで、助ける。何もせずにその子が死んだら、それは僕のせいだと思う」

お前のせいじゃないだろ、と思ったが言葉にはしなかった。隙あらば自分を責めるのは、何なのか。そこに共感はできないが、英二の意志の強さだけはよく分かった。




英二の寝ているベッドに近づく。ショーターはすっかり熟睡していたが、英二は起きていた。俺に気づいてゆっくりと体を起こした。英二が小さな声で俺の名前を呼ぶ。

「…これから常に危険と隣り合わせだ」
「うん」

英二の声は緊張していた。俺がベッドに腰かけると、少しだけ肩が強張った。

「だから、先にこれだけは言っておく」

英二の手を取る。そして力強く握った。

「何が起きても、どんな結果になっても…それはお前のせいじゃない」

俺がそう言った瞬間、いくつもの映像が流れてきた。

…―ところどころ切って繋いだような、場所も時間も転々として流れていく。情報量が多すぎて正確に認識することができない。音も声も入り乱れ、聞き取れた言葉はわずかなものだった。英二の動揺が形になって表れているように思えた。目まぐるしい光景に、頭が痛くなる。でも、握った手を離そうとは思わなかった。
やがて、視界は真っ暗になった。元に戻ったわけではない。本当に真っ暗になったのだ。その中で英二の声が聞こえた。「…ずっとだ」…―

視界が元に戻る。外の明かりに照らされた室内で、俺はしっかりと英二の手握っていた。
そして、英二は泣きそうな顔で笑った。

「ありがとう」





武器とトラックを調達した。襲撃の日は15日の木曜日。子どもを食い物にする化け物どもが集う店…―『クラブ・コッド』の前でディノを殺す。英二とショーターを連れて、屋上から店の出入り口を見下ろした。

隣に立つ英二にも、銃を持たせている。朝起きると同時に銃を渡した。もっと戸惑うかと思ったが、英二は普通に銃を受け取った。車のカギを受け取るのと同じような感じだった。ついこの間まで、本物の銃を見たことすらなかったとは思えない。使い方を説明しようとしたら、「大丈夫、それくらい分かるよ」と返された。映画やドラマの知識かもしれない。念のために確認すると、確かに分かっていた。
誰も傷つけたことのなさそうな綺麗な手で、冷たく光るそれを扱う。「これがセーフティーレバー、弾倉はここから入れる。…でしょ?」そう言って笑った。

英二を見ると、黒い瞳はある一点を睨みつけていた。その視線はクラブ・コッドの入り口ではなく、別の建物に向いている。窓もカーテンも閉まったままで誰がいるかも確認できないそこを、英二は見つめていた。
何かあるのかと聞こうとして、やめた。きっと英二は答えない。そんな気がした。
だから俺は英二の手に手を伸ばした。指の間に指を入れ、手のひらをできるだけピッタリと合わせる。こうすると、鮮明に映像が見える気がしたからだ。

…―打ちっぱなしのコンクリートの壁。西日に照らされた室内はオレンジ色に染まっていた。「お願いだから僕を信じて!このままここを出たら、『前』の二の舞だ!」英二が悲痛な声で叫ぶ。「何でお前がそんなことを知っているんだ…!」そう返したのはマックスだった。…―


「…アッシュ?どうしたの?」

英二の声に意識を引き戻される。この感覚にもだいぶ慣れた。しかし、今見えた映像の状況はよく分からない。英二は繋がれた手を見下ろし、頬を赤く染めていた。俺に触れられること自体は嫌ではないようだ。

「…英二に触れると、不思議な感じがする」
「え?」
「お前は感じないのか?」

この不可思議な現象は、俺だけに起こることなのだろうか。
起こるかもしれない未来の出来事が見える、だなんて言ったとして、信じる奴がいるとは思えない。俺だったらそいつの頭が狂ったのだと思う。だからはっきりとは言えなかった。
英二は黙ったまま俺を見つめ、そして視線を手に向けた。

「…ドキドキするから、困る」

風の音で消えてしまうくらいの小さな声で英二が言った。……こいつは本当に俺より年上なんだろうか。何度も思ってしまう。手を握られ少女のように恥じらう英二に俺が固まっていると、後ろからショーターが声をかけてきた。

「なぁー!もしかして俺邪魔―?そろそろ飯行かね?」

ぱっと英二の手が離れる。「ご、ごめんショーター!お腹空いたよね」とショーターに駆け寄っていく。俺もゆっくりとその後に続いた。





『今回』のアッシュは、なぜかやたらと手を握ってくる。
もちろん、嫌なわけじゃない。むしろアッシュに触られるのは好きだし、嬉しい。でもこの世界では、僕とアッシュはまだ知り合ったばかりだ。まだ、その…そんなに仲良くなってはいないと思う。
今のところ順調に進んでいるから、スキップとグリフィンの命を助けることができている。そのことでアッシュが僕に感謝してくれるのは分かる。でも、それは『前』の世界でもやったことだ。『前』のアッシュはこんな風に頻繁に手を握ってきたりしなかった。

ゴルツィネ襲撃の準備が調い、屋上から位置を確認した。僕の目は自然と、向かい側の建物の窓に向いた。あの場所から撃たれた弾丸が、アッシュの肩をかすめた。だから、アッシュはゴルツィネの頭を撃てなかった。
この狙撃を阻止しようとしたこともある。でも、それは僕の力ではかなわなかった。逆にオーサー達に捕まって、ゴルツィネの前まで引きずり出されることになる。
アッシュが傷つけられるのは本当に嫌だ。もっと僕が強かったら良かったのに。
そんなことを考えていると、アッシュがまた何の前触れもなく僕の手を握って来た。しかも、これは…いわゆる恋人繋ぎというやつだ。指の間に指をねじこまれ、手のひらがピッタリと密着する。一気に緊張した。手汗がすごいんじゃないだろうか。そんなことが気になってしまう。心臓が高鳴って、顔に熱が集まるのを感じた。きっと真っ赤になっているに違いない。どうにか落ち着かせようとしたけど、到底無理な話だった。「ドキドキするから困る」だなんて恥ずかしいことを言ってしまう。
ショーターがいなかったら、もっと変な事を口走っていたかもしれない。



これから命がけの戦いに行くというのに、こんなことで気を逸らしていてはいけない。次にやるべきことを思い出さないと。
銃を握りしめ、トラックの助手席に座る。ショーターが運転席で、アッシュは荷台の上だ。
セーフティーレバーの確認をしていると、ショーターが口を開いた。

「なぁ、英二…アッシュのことどう思ってる?」
「へ?どうしたの、いきなり」

屋上でアッシュと手を繋いだからか、ショーターとの会話も『前』と違うものになった。『前』はもっと…俺がやられたらお前が運転しろとか、そんな感じの話だった気がする。

「いや、普通男の手を握ったりさ、しねーだろ?変だと思わねぇの?」
「別に…うーん、何か変だとは思うけど…嫌じゃないから」
「…そっか」
「うん」

嫌じゃないどころか、むしろ嬉しい、だなんてことは当然ながら言えない。
妙な沈黙が流れる前に、エンジン音が鳴り響いた。ショーターがアクセルを踏む。車庫が開いた。外の光が眩しい。僕は目を細めて、その先を見据えた。


歩道に乗り上げ、ゴミ箱を吹っ飛ばしながら大きなトラックが『クラブ・コッド』へと突進する。周りにいた人が叫び、逃げ惑う。高級車から降りたゴルツィネと、その手下たちが驚きに目を見開いた。銃を構えるも、アッシュの方が早い。銃声が響く。少人数のガードはすぐに打ち崩された。アッシュが叫ぶ。僕はあの窓を確認した。そこにはオーサー達がいた。フロントガラスが割れる。ゴルツィネの手下が撃った弾がショーターの額をかすめた。左に切り過ぎたハンドルを急いで支える。ショーターがブレーキを踏み込んだ。トラックは港に止まった。目の前には海がある。

「ショーター!」
「かすっただけだ!クソ、血が目に…!」

助手席のドアが外から開かれる。「英二、撃て!!」ショーターの声と共に、僕は後ろを振り向いた。ナイフを構えた男に銃を突きつける。男の動きが止まる。僕の顔を確認して、男はにやりと笑った。

僕が、撃てないと思ったのだろう。

パン!!乾いた銃声が響く。男が目を見開く。その眉間には穴が空いていた。
男が倒れるのを見ることなく、すぐにショーターの腕を取る。頭をかがめて、トラックから降りた。トラックの後方には伊部さんとマックスが乗った車が来ていた。

「飛び込め!!」

マックスが叫ぶ。ショーターが僕の腕を引いて走った。僕も全力で走る。
そして、海に飛び込んだ。
最初の頃は、ここで気絶していた。でも、『今』は大丈夫だ。汚れた海水の中、手足を動かす。服を着たまま泳ぐのは難しいが、ショーターが手を引いてくれているので何とかなった。濁る視界にアッシュの金髪を確認してほっとする。だんだん息が苦しくなってきた。でもまだ顔を水面に出すわけにはいかない。遠のきそうになる意識を手繰り寄せ、僕は必死に水を蹴った。

何とか入り江に上がり、肺いっぱいに酸素を取り込む。全身から魚の腐った臭いがする。鼻がどうにかなりそうだ。

「英二、大丈夫か」
「アッシュこそ、肩…」

アッシュの肩の傷を見て、僕は固まった。

「こんなのかすり傷だ」

確かに…かすり傷だった。本当なら…『前』の世界ではもう少し深い傷だったのだが、『今回』はシャツにわずかな血が滲んでいるだけだった。
ということは…。

「ゴルツィネは…撃ったの?」

アッシュの狙いが狂わなかったとしたら、ゴルツィネは額に銃弾を受けているはずだ。
僕の問いにアッシュは力なく首を横に振った。

「いや、狙いが逸れた。そこそこ深手を負わせられたはずだが…くたばりはしねぇだろうよ」
「おいお前ら話は後にしろ、ここは危険だ。とにかく逃げるぞ」

マックスが立ち上がる。ここでアッシュが一人で行こうとしてマックスに殴られる…はずだったのだが、アッシュはすんなりマックスに同意した。「悪いな、おっさん」と言って車に向かう。当然のようにアッシュは僕の手を引いた。

だんだんと、流れが変わってきている。

これが良いのか悪いのか、今の時点では分からなかった。




マックスがケープ・コッドへ行くと告げても、アッシュは特に表情を変えなかった。まるでそう言われることが分かっていたかのような、そんな反応だった。
でも、アッシュが知っているはずがない。だって、『繰り返す』のは僕だけのはずだ。今までずっとそうだった。

アッシュとショーターの傷の手当てが済むと、すぐに旅の準備をした。準備と言っても持って行けるものはほとんどない。マックスの隠れ家にあるだけの食糧と、毛布やシーツ、着替え…その程度だ。出発は夜になってからだと言われ、僕は屋上に出た。
そこにはアッシュがいた。夕日を受けて、オレンジに光る髪が綺麗だった。僕が隣に座ると、アッシュはまた僕の手に自分の手を重ねてくる。それを僕も普通に受け入れた。アッシュは目を閉じていた。瞼がわずかに震える。何か…見えるのだろうか。
ゆっくりと、アッシュが目を開く。手は重なったままだ。心地よい体温が伝わってくる。

次は何をすれば良いんだろう。

するべき会話が思い出せない。アッシュが僕を見る。綺麗な瞳に僕が映った。

「…日本に帰りたいとは思わないのか?」

唐突に、アッシュがそう言った。まさかこのタイミングで日本に帰れと言われるのだろうか。
僕は首を振った。「思わないよ」と答える。

「お前は平和な生活を送ってたんだろ…棒高跳びだって、やりたいんじゃないのか」

胸がズキズキする。アッシュに悪気はない。だってアッシュは知らないんだ。
僕がこの世界を、もう何度か分からないくらいに繰り返していることを。
一体、何年と時が過ぎたんだろう。
日本にいた頃の記憶が遠かった。といより、おぼろげ過ぎてよく思い出せない。

「…選手『だった』って、言っただろ。僕はもう、跳べないんだ」
「何でだよ、俺とスキップの前で跳んだじゃねぇか」
「そういうことじゃなくて…」

僕はもう、あの壁しか跳べない。今もう一度跳べと言われても無理だろう。あの時のあの場所、あの状況でないと、跳べない。
それに、選手だった頃の記憶はもう遠すぎた。平和に暮らしていた記憶が思い出せない。

…―本当に、思い出せない。

「もう…思い出せないんだ」

気づくとそう声に出していた。アッシュが首を傾げる。でも、それ以上深くは聞いて来なかった。
空は紫色に染まっていた。吹きつける風が少し冷たい。僕たちは黙ったまま、ビルの向こうに沈む夕日を眺めていた。

ショーターに呼ばれ、車に乗り込む。運転はマックスで、助手席には伊部さんが乗り込んだ。マンハッタンを出るまでは僕たち三人は顔を出さない方が良いと言われ、荷台に乗る。
そして、僕たちはケープ・コッドへと向かった。





俺の仮説は間違っていた。
『起こるかもしれない未来』だけが見えるわけではない。『過去』も見えた。しかも、実際には起きなかった『過去』が見えたのだ。

入り江に上がり、英二に駆け寄る。少し海水を飲んでしまったのか、苦し気に咳き込んでいた。怪我はないようだ。それを確かめて、安心した。ショーターは額に弾がかすったらしい。頭部なので出血は派手だったが傷は浅かった。
ここは奴らに近すぎる。早く移動しないとすぐに見つかってしまうだろう。ディノにとどめを刺したいが、数の上でこっちに勝利はない。あの奇襲が失敗した時点で、逃げるしかなかった。それに、俺が捕まってしまったらグリフやスキップも危ない。奴のことだ、どうせ探し出して俺の前で嬲り殺すくらいのことはしてみせるだろう。だから捕まるわけにはいかない。
逃げるぞ、と言うマックスに同意する。俺は英二の手を引いてマックスの後に続いた。歩きながらも、あの映像を見た。

…―スキップと共に車に乗せられる。これは英二の視点だ。車が走り出す。すぐに隣の男の脳天に穴が空いた。俺が撃った弾が当たったのだ。死体を見て、体が震える。視界が揺れる。オーサーの手下がポケットの辺りをまさぐってくる。「英ちゃんに触んな!!」スキップが怒鳴った。…―

今見えたのは、未来ではない。あの時のことだ。映像の中の英二は酷く怯えていた。それが当然の反応だが、でも…あの時俺が見た英二は怯えてなどいなかった。
何かがかみ合わない。
俺は繋いだ手を見た。英二も俺も全身ずぶ濡れで、指先まで冷え切っている。しかし黒い瞳は落ち着いていた。あの銃撃戦に怯えた様子はない。
先に英二を車に乗せ、続いて俺も乗り込む。それまでずっと英二の手を握っていたが、新たな映像が見えることはなかった。


マックスの隠れ家には見覚えがあった。もちろん来るのは今日が初めてだ。見たのは英二に触れた時だ。その時見た映像の中では、英二が「僕を信じて」と泣きそうな顔で叫んでいて、マックスが困惑していた。しかし、そんな事は実際には起こらなかった。
バナナフィッシュの手がかりを求めてケープ・コッドへ行く。マックスの提案に反対する者はいなかった。
俺も反対しなかった。あの場所に帰ることになる、というのが分かっていたからだ。


準備を済ませ、屋上に出る。少しして英二がやって来た。隣に座った英二の手に手を重ねる。そして目を閉じた。

…―英二とショーターがいた。場所はチャイナタウンで一時匿ってもらった宿だった。「伊部のところへ帰れよ」俺が言う。英二は目を伏せ「今放り出して日本に帰ったら…ずっと僕はダメなまんまだって気がして」…―

見えたのはまた『過去』のことだった。でも、こんなことは起きていない。あの宿で、こんな会話はしなかった。英二がしたのはあの意味深な例え話だ。
『起こるかもしれない未来』と『起きなかった過去』が見えるということなのだろうか。この現象に一体どんな意味があるのだろう。

英二の方をみると、目が合った。俺と違う黒い瞳はどこまでも深い色をしている。闇の色は嫌いだが、英二の瞳は好きだと思った。
日本に帰りたいと思わないのかと聞くと、英二は首を振った。銃とは無縁の、平和な暮らしをしていたはずなのに、そこに帰りたくないという。本当に不思議だった。そして英二は「思い出せない」と言った。力のない声だった。
辺りが夕闇に染まり、英二の瞳が一瞬虚ろなものになる。俺は何と声をかければ良いのか分からなかった。何か間違ったら英二が壊れてしまうような、そんな危うさを感じた。



そして、夜の闇に紛れて俺たちはケープ・コッドへと出発した。

着替えを入れたカバンを枕代わりにした英二は、胎児のように体を丸めて眠っている。出発してすぐに寝てしまった。今日は死ぬ思いをしたのだ。疲れ果てているに違いない。薄っぺらい毛布をそっと英二の腹にかけてやった。

「なんか愛を感じるな」

ショーターが英二を起こさぬよう小さな声で言った。

「はぁ?何がだよ」
「お前の行動にだよ。自覚ねぇのか」
「意味分かんねぇこと言うな」
「はいはい」

そう言いつつショーターも横になった。「あー腰いてぇ」とジジくさいことを言う。

「…ドクターの診療所でさ、お前の兄貴を英二がかばったんだ」
「…あぁ」
「正直すげぇと思ったよ。普通はあんな風に反応できない…あんな捨て身で誰かを守れる奴はそうそういねぇよ」
「そうか…」

英二がグリフをかばってくれたから、グリフは助かった。英二は自分の命を危険にさらしてまでグリフを助けてくれた。一歩間違えば、自分が撃ち殺されていたかもしれないのに。

「風船を追っかける子どもって、誰の事なんだろうな」

ショーターの言葉に、俺は反射的に英二の方を見た。丸まった背中は規則正しく上下している。深く眠っているようだ。

風船を追いかけてひかれる子ども。英二は諦めずに助けると言った。それは…―。

「…俺たちのこと、なのかもしれないな」

俺がそう言うと、「俺も、そんな感じがしたんだ」とショーターが呟いた。
そして沈黙が流れる。
ガタゴトと車が揺れた。英二の頭が枕から落ちないよう支えてやる。触り心地の良い髪を撫でると、また映像が見えた。

…―日本の事を楽しそうに英二が話している。綺麗な部屋の中にいた。ソファに並んで座っている。俺が「行ってみたい」と言うと、英二は大きな瞳を輝かせた。…―

意識が現実に戻る。英二は相変わらずスヤスヤと寝ている。寝顔はいつもよりさらに幼く見えた。
今見えた光景はとても幸せだった。いつ来るのかは分からないが、来てほしい。そんな未来だ。

「触り過ぎだろ」とショーターに突っ込まれるまで、俺は無意識のうちに英二の頭を撫でていた。だが、突っ込まれても手をのけたりはしない。そのまま頬に滑らせると、ショーターは諦めたのかこちらに背を向けて寝転がった。
触れている時間と映像の長さは特に比例しないらしい。一番映像が鮮明に見えたのは、刑務所で英二にカプセルを渡した時だった。時間にしたら、今頭を撫でているこれよりもずっと短かったはずだ。しかし見えた映像は…映像というより、まるでそこにいるかのような臨場感のあるものだった。だからなおの事恐ろしく思えた。
接触の仕方によって見え方が違うのかもしれない。そう考えはしたが、だからといって試しにキスするわけにもいかない。
あの時は手段がなかったからしたまでだ。英二だってそれを分かっているから、俺を責めたりしない。どうやらあれがファーストキスだったらしいが…カウントする必要はないだろう。
なめらかな頬を撫で、そっと手を離す。英二の唇がわずかに動いた。柔らかいそれに触れたくなったが、我慢する。
ケープ・コッドまではまだ時間がかかる。俺は英二の隣で横になった。




マックスと交代で伊部が運転席に座る。次は俺が運転するか。そう思って、助手席に乗った。
「やぁ」と伊部が声をかけてくる。その表情はすっかり疲れ切っていた。

「…疲れてんな、俺が運転しようか?」
「あぁ、大丈夫だよ」
「無理すんなよ」
「はは、…じゃあ2時間後に交代してくれるかい?」

それに「分かった」と返すと、伊部は安心したように息を吐いた。マックスが荷台に移り、ゆっくりと車が進みだす。俺は窓の外に目を向けた。東の空はもう明るい。雲はほとんどなかった。日が高くなれば日差しが厳しい事この上ないだろう。次の休憩地点でショーターのサングラスを借りようと思った。

「…まさかこんな事になるだなんて、思ってもみなかったよ」

ハンドルを握りしめたまま伊部が言う。俺は黙って言葉の続きを待った。

「英ちゃんは、俺がカメラマンとして最初に認められた写真のモデルなんだ。空を舞うあの子はどこまでも自由で…―」

そこで伊部は言葉に詰まった。その自由な英二の姿を思い出したのだろう。前を見据えた目はとても辛そうだった。

「あいつは…英二はもう跳べないと言っていた。本当にそうなのか」
「英ちゃんが今そう思ってるのなら…そうかもしれない。日本にいた頃に怪我が原因でスランプになってね。まぁ、それ以外も周りの人間関係に苦労したみたいで…」
「色々あったんだな」

日本のスポーツ界の事情がどんなものかは知らない。だが、隙あらば自分を責める英二のことだ。怪我もスランプも、周りから何か言われることも、全部を自分のせいだと思って責めたに違いない。その様子は想像できた。

「優しくて大人しい子だから、競い合うことに疲れたのかもしれない。とにかくあの頃の英ちゃんは…見ているこっちが辛くなるくらいに落ち込んでたんだ」
「…だからアメリカに連れて来たのか。助手ってのは建前か?」
「まぁ、そんなところだよ。立ち直るきっかけにでもなればってね…。英ちゃんは、君と出会ってから変わったよ」

「俺の知ってる英ちゃんとは、違う目をするようになった」そう言って、伊部はため息を吐いた。違う目…それが良い意味ではないという事は何となく分かった。
さらわれても、頭に銃を突きつけられても、銃撃戦に巻き込まれても、一切怯えない黒い瞳。平和な世界で暮らしてきた英二には、あまりに不釣り合いな反応だった。

「俺のせいだって言いたいのか」

俺が聞くと、伊部は「そうじゃない」と言って首を振った。

「ただ、…あの子は争い事とは遠い所で生きてきたんだ。君たちみたいな判断ができるわけじゃない。そのことを伝えておきたくて…」
「んなこと言われなくても分かってる」

そう俺は返したが…伊部の話す英二の像と俺が今知っている英二の像がかみ合わないと感じていた。
手慣れた様子で銃を扱っていた英二を思い出す。
伊部は言いたいことを言い切ったのか、それ以上何か言うことはなかった。

エンジン音と砂利を飛ばすタイヤの音だけになる。俺はそのまま窓の外へと目を向けた。
朝焼けの中、鳥が飛ぶ。その姿が英二と重なり、俺はそっと目を閉じた。



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