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27


男の子…いや、お兄さんと言うべきだろうか。金髪の男の子は随分と大きくなっていた。今は僕よりもずっと大きい。僕はお兄さんに歩み寄った。お兄さんは泣いていた。いつも泣いている。今度は一体何が怖いんだろう。

「大丈夫だよ」

僕は両手を広げてお兄さんの腰のあたりに抱きついた。背伸びして、お兄さんの背中に手を伸ばす。そして優しく何度もさすってあげた。
お兄さんが小さく呟いた。名前を呼ばれたような気がする。でも、なぜか上手く聞き取れなかった。

「何が怖いの?」

お兄さんの顔を見上げる。小さい時と比べると髪の毛が短くなっていた。可愛らしい顔は綺麗な顔になっている。美人なお姉さんにも見えた。緑の瞳は涙で濡れている。「しゃがんで」と僕が言うと、お兄さんはゆっくりとしゃがんでくれた。
僕はお兄さんの頬を両手で包んだ。温かい涙で濡れている。額と額を合わせると、頭の中に『記憶』が流れ込んで来た。

…―太った男が、覆いかぶさってくる。両手はベッドの柵に縛り付けられていた。男の熱い吐息が頬に当たり、ぞわそわとした悪寒が走る。苦しい。息が上手くできない。助けて欲しい。男は欲望のままに若い体を貪る。むせ返るような欲の臭いに、吐き気がした。…―

目を開ける。僕はお兄さんの頭を抱きしめた。お兄さんが震える手を僕の背中に回す。僕はお兄さんの綺麗な金髪を撫でた。お兄さんの体から光の粒が溢れ、それが僕の中へと入って行く。
とても痛くて苦しかったけど、光がおさまると、お兄さんの涙は止まった。

「もう…大丈夫」

お兄さんが僕の体を強く抱きしめる。ちょっと息苦しいくらいだった。でも、その力強さに安心した。









英二が目を覚まさない。

傭兵部隊との戦闘を終え、丸一日が経過していた。俺は英二のベッドの側から一歩も動けないでいた。ショーターとマックスから休むように言われたが、英二から離れたくなかった。
このまま目を覚まさなかったらどうしよう。
ずっと恐れていた事が、今現実になったような気がした。

「アッシュ…疲れてたらまる一日くらい寝たりするさ」
「…英二は普通とは違う」

どうにか俺をなだめようとしたマックスに言い返す。マックスは俺が言っていることが理解できずに、首を傾げていた。英二がどれほど苦しんで戦い抜いて来たのか、全部話してやりたい。そんな気持ちに駆られたが、ショーターがそれを遮った。

「オッサン、ちょっと席外してくんねぇか?アッシュと二人で話したいんだ」
「あ、あぁ…分かった」

マックスが部屋を出て行く。ドアが静かに閉められた。俺は祈るように英二の手を握っていた。

「アッシュ…明日になっても英二が目を覚まさなかったら、病院に連れて行ってもらおう」
「……医者に何ができるってんだ」
「ここに置いておくよりは良いだろうが」
「嫌だ、英二から離れたくない…」

ショーターが俺の肩を思い切り掴んだ。無理やり英二から引き離される。俺が抵抗する前に、ショーターは大声で怒鳴った。

「いい加減にしろ!!」

狭い部屋の空気がビリビリと震える。ショーターがこんなに本気で怒りを露にしたのを見るのは久しぶりだった。
俺は茫然とショーターを見上げた。
ショーターは俺の両肩を痛いくらいの強さで掴み、揺さぶった。

「英二がこんな状態になっても英二に甘えんのかよ!!今やるべき事は何か考えろ!!」

今やるべき事…―。

頭の中にショーターの声が響く。ここで行動を起こさなかったら、せっかく奴らを潰したのにまた攻撃されてしまう。敵の追撃を許さず、こちらからの攻撃の手は緩めない。そうしなければ、俺たちに勝機はない。
ディノから解放されなければ、俺に自由な未来はない。英二は俺を救うためにここに『戻った』。そして自分自身の『記憶』を代償に、『何度も』俺を…俺たちを救ってくれた。

「英二は諦めねぇで戦ってくれたんだ。今度は俺たちが戦って、英二を救う番だろ」
「英二を、救う…」
「そうだ。俺たちにしかできない。…お前にしか、できないんだよ。アッシュ」

ショーターの手が離れる。俺はやっとまともにショーターの顔を見ることができた。ショーターは涙を流していた。俺の頬にも熱いものが伝う。ショーターは床に膝をついて、眠る英二の手を握った。さっきの俺と同じように、祈りを捧げる。

「……『記憶』が流れ込んで来ないんだ」
「え?」
「英二に触れても、抱きしめても、キスをしても…何も、見えないんだよ」

英二の手に額を当てていたショーターが顔を上げる。頬を伝った涙がぽたぽたと落ちた。

「最後に見た『記憶』は今まで見たことないやつだった。この世とは思えないくらい、綺麗で…英二は笑ってた。天国にいるみたいだった」
「アッシュ」

俺は英二の額に手を伸ばした。前髪をはらい、肌に直接触れる。指先に感じる体温は、いつもより低かった。

「このままじゃ英二は…―」
「アッシュ!」

立ち上がったショーターが俺を見下ろす。そして英二に触れてる俺の手を取った。

「英二はお前を置いて行ったりしない。絶対だ。…俺の言葉は信じなくても良い、だが、英二の事は疑うな」

返事は声にならなかった。黙って一回だけ頷く。ショーターの手に、ぐっと力が入った。






次の日になっても、英二は目を覚まさなかった。水分不足で唇はカサカサに乾いていた。顔色はいっそう白くなり、まるで生気を感じられない。呼吸もしてるし、心臓も動いている。でも、魂がどこか別の場所にあるような、そんな感じがした。

マックスとジェシカが英二を車に乗せ、病院へと連れて行く。俺はその車を見送ることしかできなかった。死んだはずのアッシュ・リンクスが病院に姿を現すわけにはいかない。

「アッシュ…これからどうする」

ショーターが口を開く。隠れ家のリビングにはショーターとシンとケインとアレックス達が集まっていた。

「…傭兵の残党が襲ってくる可能性もある。今まで通り敵襲に警戒しろ」
「分かった。あとはどうすれば良い?」

ケインに聞かれ、俺は力なく首を横に振った。…頭が回らない。

「それだけだ…少し、一人にしてくれ」

俺が部屋を出るのを止める者はいなかった。階段を上がり、屋上に出る。太陽の光が白い。俺は壁に背を預けて座り込んだ。
考えろ。思考を止めるな。
そう思っても、俺の頭は上手く動いてくれなかった。自分の体が思うようにならない。歯痒くて仕方がなかった。ぐしゃぐしゃと髪をかき乱す。英二が側にいないと、体の中心にぽっかりと穴が空いてしまう。

これから先、何をすれば良いのか。英二のノートによると、仲間を捕虜にとられた俺たちは捨て身の作戦で精神衛生センターに攻め込み、捕虜の奪還に成功したらしい。『前』の世界で英二は撃たれており、ここの情報は伝聞のものしかなかった。英二の『記憶』についても、病院の集中治療室に寝せられている所しか見ていない。
重症を負った英二は点滴を外してベッドから起き上がり、俺の名前を呼んでくれた。俺はその手を掴むことができなかった。「行け!!」と叫ぶ英二の悲痛な声を思い出し、心臓が軋む。

『今回』は英二を傷つけさせないよう、最善を尽くした。英二を無傷のまま守り抜けたと思っていた。
だが…英二の心も体も、もう限界だったのだろう。俺は信じていない神様に、必死になって祈った。どこの神様だって構わない。

…―どうか、どうか英二を助けてください。

両手を硬く握りしめ、俺は長い間祈り続けていた。






傭兵部隊の指揮官…フォックスが、このまま引き下がるとは到底思えない。もしディノから解雇されたとしても、何らかの手段で俺たちを狙ってくるだろう。奴の主力部隊のほとんどは俺たちが壊滅させた。攻撃の手駒を手に入れるとしたら…精神衛生センターにいる囚人たちが丁度いい。バナナフィッシュでの薬物暗示が成功していれば、短期間の戦力として活用できるはずだ。

「フォックスは俺たちが司令部を攻撃する事に気づいて脱出している。奴が失った分の兵隊を確保するとしたら…ここだ」

俺はテーブルの上にタブレットを置いた。シンとケインが画面を覗き込む。

「精神衛生センター?何だよそりゃ」
「ゴルツィネが作った人体実験の施設だ」

ケインに答え、俺は続けた。

「ここには治療の名目でたくさんの囚人たちが収容されている。社会的には死んだことになってる奴も大勢いるはずだ。つまり、傭兵部隊の奴らと同じゴーストだ」
「その囚人たちを使って俺たちに攻撃を仕掛けてくるってのか?」
「可能性としての話だ。頭のおかしい奴しかいない分、統率はできないだろうが…こっちも動きが読めなくなる」

シンが「先手必勝ってわけか」と呟いた。すると、腕組みして考え込んでいたケインが顔を上げた。

「フォックスって奴は俺に殺らせてくれねぇか。…仲間の仇討ちをこれで終いにしてぇんだ」
「じゃあ、前線に立つってことだな」
「当たり前だ」

コンコン、とドアが軽くノックされる。振り返るとドアが静かに開かれた。俺はそこに立つ人物を見て目を見開いた。シンとショーターが立ち上がる。二人とも武器に手を添えていた。その様子を見て、奴は困ったように笑って見せた。

「こんばんは、突然訪ねて申し訳ない。若君から、お前の元へ行くよう言われてね」

ブランカはそう言って両手をひらひらと振った。

「アンタ若様の護衛じゃなかったのかよ!?」
「若君の命令には逆らわないっていう条件で雇ってもらったからね」

シンは慌ててスマホを取り出した。「若様は今どこにいる?」と地図の画面を開いてブランカに突きつける。ブランカは「たぶん、ここだと思うよ」と簡単に答えた。護衛とは思えない対応だ。それを聞くなりシンはすぐさま部屋を飛び出した。ブランカがついてなくともユーシスには常に護衛がいるはずだが、気になるのだろう。
俺のもの言いたげな視線を感じたのか、ブランカが視線をこちらに向けた。

「彼の事は信頼してるんだ」
「お前は信頼されてねぇみたいだがな」
「酷いなぁ」

ブランカがシンの座っていた椅子に腰かける。状況について行けないケインが口を開いた。

「誰だ、アンタ」
「殺し屋さ」

俺の言葉を聞いて、ケインがまじまじとブランカを見る。ブランカは人の好さそうな笑みを浮かべて、軽く首を傾げた。

「引退した身だけどね、今は特別活動中」
「そんな事はどうでも良い、何でユーシスはお前をここにやったんだ」
「…うさぎちゃんが入院しただろう」

奴の言う、「うさぎちゃん」とは英二の事だ。その言い方にイラついて、俺はブランカを睨みつけた。そしてケインとショーターに席を外すよう言う。二人とも突然の事に戸惑っていたが、頷いて立ってくれた。ショーターが「隣の部屋にいるからな」と言って、部屋を出る。俺はそれに片手を上げて答えた。
ドアが閉まり、視線をブランカに戻す。ブランカは楽し気に俺の事を見ていた。

「どうやら本当に、彼がお前の心臓になってしまったらしいな。若君が心配するわけだ」
「うるせぇ、用件は何だ」
「お前の手助けさ。ただの助力が怖いなら、報酬を貰っても良い。そうだな、5000万ドルってのはどうだ?」
「はぁ!?ふっざけんな!どーゆー計算だよ!?」

コイツは本当に俺の神経を逆なでしてくる。俺が声を荒げると、ブランカは「じゃあ、500ドルで良いぞ」と答えた。

「…何でユーシスはそこまで俺の手助けをするんだ」
「お前が、あの方にとっての道しるべだからだろう」
「…はぁ?」
「今は分からなくとも、全てが終わればきっと分かる。で、どうするんだ?」

英二がああなってしまった以上、一刻でも早く事態を終わらせてしまいたかった。そして、英二の側に行きたい。

「運転手で良けりゃ雇ってやっても良いぜ」







ブランカも交えて、俺たちは精神衛生センター襲撃作戦を立てた。
決行はできるだけ早く。こちらの弱みを握られないうちに動かねばならない。
今危険な状況にいるのは、意識のない英二だった。英二が入院したことをユーシスが知っていたという事は、ディノの耳にもその情報は入っているはずだ。俺にとって英二がどんなに大きな存在であるか、ディノは理解していない。だが、傭兵部隊壊滅とクラブ・コッドの件で追い込まれている今なら手段を選ばないだろう。
英二にはマックスに頼んで護衛をつけてもらっている。英二はマフィアとギャングの抗争に巻き込まれた、重要な証人だ。それにチャーリー達がついている。だが、市警はチャーリー達以外信用ならない。
ディノは俺たちの攻撃を警戒して精神衛生センターにこもっているようだった。生き残りの傭兵たちで警備を固めている。今はあの狂った実験施設が奴の城だ。

「人体実験のラボはここだ。囚人たちはこの隣の隔離病棟に…―」
「ショーター!!アッシュ!!」

俺とブランカとショーターとケインで、精神衛生センターでの動きを確認していた時だった。
チャイナタウンに戻っていたシンが部屋に駆け込んで来た。その顔は真っ青だった。ショーターがシンに駆け寄る。

「シン、どうしたんだ」
「若様が、月龍がゴルツィネに殺される…!」

ブランカが立ち上がり、シンの目の前で屈む。そしてシンの肩に手を置いた。

「落ち着いて、説明しなさい」
「…さっき、若様が無理やりゴルツィネの手下に車に乗せられてたんだ。あとを追ったら、奴ら精神衛生センターに入って行って…きっと、俺たちに味方してたのがバレたんだ」

ユーシスがディノにとって敵だというのは、最初からディノも分かっていたはずだ。だが、今回の傭兵部隊壊滅で、最終手段を取ったらしい。ブランカが側にいないのを、契約終了と勘違いしたのだろう。

「まずいな…あそこにはイカれた医者がいる。ユーシスの脳にも興味を持つだろうし…」

俺がそう言うと、ブランカが責めるような目で俺を見た。ハッとしてシンの方を見る。シンはさっきよりも青ざめていた。

「え…脳って何…実験、されるのか…?」
「大丈夫、落ち着いて。助けに行くからそんな事にはならない」
「そうだ、シン。しっかりしろ」

ブランカとショーターがシンをなだめる。
…確かに今のは失言だった。俺はシンから視線を外してマックスに連絡を入れた。明日の朝、例の記事をゴルツィネ邸にファックスするよう指示する。計画より早くなったが、ジェシカもいるから間に合うだろう。

「全員、武器とルートを確認しろ。夜明けとともに乗り込むぞ」

傭兵部隊との戦闘で、武器をかなり消耗してしまった。すぐに補充したが、十分な量とは言い難い。長引くと不利だ。クラブ・コッドの記事で揺さぶりをかけて、ディノを叩く。それから一気に攻め込むしかない。
ショーターとケインにそれぞれの指示を任せ、俺は隠れ家を出た。車に乗り込もうとした時、後ろから運転席のドアを押さえられた。

「運転手を雇ったのに自分で運転するのか?」
「…なんだよ」

呼んでもねぇのに来るんじゃねぇ、とブランカを睨む。ブランカは気にした様子もなく笑った。

「お前の行きたい場所は分かってるよ」
「いちいちムカつく野郎だな」

俺が助手席に乗り込むと、ブランカは優雅に運転席に乗り込んだ。そして行先を聞くことなく、エンジンをかけてアクセルを踏む。車は滑らかに走り出した。

「うさぎちゃんに会いに行くんだろう」
「その『うさぎちゃん』ってのやめろ。殴りたくなる」
「…奥村英二が特別な人間だと、若君は気づいていたぞ」

急に声のトーンが変わり、俺はブランカを見た。ブランカは前を見据えたまま続けた。

「華僑の情報網は凄まじいからな。個人のメールや防犯カメラの映像なんかも簡単に手に入れられる」
「…それと英二と何の関係があるんだよ」
「若君はお前の事も、英二の事も徹底的に調べていた。その中に、不可解な情報があったらしい」

交差点の信号が赤に変わる。ブランカはブレーキを踏んだ。

「英二が最初にお前と関わった事件…彼は確か、カメラマンの助手としてお前の元を訪れたんだったな。その時に彼が通報してくれたおかげで、お前は命拾いした」

何だ…一体、コイツは何が言いたいんだ?
異様に緊張して、手のひらに汗が滲んだ。

「お前は妙だと思わなかったのか?通報が『早すぎる』と」

信号はまだ変わらない。ブランカの目が俺を見た。

「通報は英二からのメールを受けて、彼の保護者がした。そのメールは彼が人質にとられる前に作成されていたらしい。まるで『未来』の事が分かっていたみたいに」
「違う!」

後ろの車がクラクションを鳴らす。いつの間にか信号は青になっていた。ブランカの視線が前に戻り、車が動き始めた。

「…未来の事が分かるわけじゃない」
「そうか。じゃあ、他の何かが分かるんだな」
「ユーシスは英二を狙っているのか」
「まさか。単純に興味を持っているだけだろう」

だんだんと英二のいる病院に近づいていく。俺は不安になった。ブランカを英二に近づけても良いものだろうか。

「私はあの倉庫でお前と話すまで、彼の存在がお前の命を危ぶめると思っていた。だが、お前の言葉を聞いて考えが変わったよ、アッシュ」

「お前は私が思っている以上にずっと強いんだな」とブランカは言った。その言葉の響きが優しくて、俺は体に入れていた力を抜いた。

「彼を、大事にしなさい」
「…んな事、アンタに言われなくても分かってる」

病院の裏手に到着した。ブランカは目立たない所に車を停めると、俺に紙袋を押しつけた。プレゼントだと言われたそれを開けてみると、中には白衣が入っていた。

「それを着れば医者に見える。今は11時45分、次の警備が回ってくるのは12時だ。それまでに戻ってくるんだぞ」
「…アンタは英二をどう思ってるんだ」
「…不思議な力があるのかもしれないが、やっぱり可愛いうさぎちゃんにしか見えないな」
「今度それ言ったら殴るからな」
「お前が聞いたんだろ」

白衣を羽織って、車から下りる。「10階の1012号室だ」とブランカが言った。英二の『記憶』で見た病室と一緒だった。
病院の中に入り、エレベーターで10階まで上がる。病室の前には誰もいなかった。ドアを開けると、ベッドサイドに灯った小さな明かりが英二を照らしていた。腕には点滴が繋がれ、モニターの音が心臓の動きを知らせている。俺は英二の側に歩み寄った。

「英二…」

名前を呼ぶ。しかし、英二は目を覚まさない。
点滴が繋がれていない方の手を握り、目を閉じた。瞼の裏は暗いままで、『記憶』は見えない。

「英二、お願いだ…目を覚ましてくれ…」

俺は、お前がいないとダメなんだ。
英二の頬を撫で、色の失せてしまった唇にキスをする。英二の唇は冷たかった。角度を変えて、何度も何度も口づける。俺の命が英二に分け与えられたら良い。そんな事を思った。
俺の唇から体温が移り、少しだけ英二の唇が色を取り戻す。時刻は11時55分を過ぎていた。そろそろこの病室を出ないといけない。
英二から離れがたくて、俺は英二の髪に指を絡ませた。その時、英二の唇がわずかに開いた。

「英二…?」
「ぁ……」

小さな声が漏れる。俺は英二の肩を軽く揺すった。

「英二!」

英二の唇が動いた。それは「アッシュ」と言っていた。嬉しくて、体温が一気に上がる。

「俺だ、アッシュだ、ここにいる…!目を開けてくれ…!」

英二の頬を両手で包み、必死に呼びかける。英二の瞼がわずかに震えた。起きる。そう思った時、廊下から数人の足音が聞こえた。クソ…!時間になってしまった。
病室から出る前に、俺はもう一度英二にキスをした。「また、後で」と耳元で囁く。英二が目を開けることはなかったが、一瞬、微笑んだように見えた。

病室を出て、来た道を戻る。後ろから伊部とチャーリーの話し声が聞こえたが、振り返りはしなかった。








雲一つない、青空が広がっていた。辺りを見回す。一面金色の草原が広がっていた。知らない場所だ。ここは一体どこだろう。
僕の右手には赤い風船があった。ふわふわと浮いている。それを眺めていると、強い風が吹きつけてきた。ひもをしっかり握っていたはずなのに、風船は僕の手からするりと飛んでいく。僕は赤い風船を追いかけた。
走って、走って、高く舞い上がる風船に手を伸ばす。
思い切りジャンプした僕の手を、誰かが掴んだ。
その人はキラキラ光っていた。金色の髪の毛がとても綺麗だ。緑の目は宝石みたいだった。

「だれ?」

僕が聞くと、その人は膝をついて涙を流した。その涙は光の粒になって、空中に舞った。

「泣かないで」

その人が泣くのを見ると、胸のあたりがぎゅうっと締め付けられる。とても苦しかった。悲しかった。
僕はその人を抱きしめた。すると、その人の体が光輝いた。たくさんの光の粒となって、抱きしめていた体が消える。

その瞬間、周りの景色が歪んだ。

色んな光景が、一気に流れ込んでくる。楽しいことも嬉しいことも悲しいことも苦しいことも、全部が僕の頭の中をかき回した。色んな声が響く。全てが混じり合って、頭が割れそうだった。
僕は両耳を押さえて叫んだ。

助けて、たすけて…!!誰か…!!

僕は声にならない声で、何度も誰かの名前を呼んだ。


ふいに、温かいものに包まれる。頭をかき回す光と音がおさまった。
そっと目を開くと、辺りは真っ暗な世界に変わっていた。誰かが僕の頭を撫でる。大きくて、優しい手のひらだった。僕はその人を見上げて微笑んだ。そして、安心して再び目を閉じた。






マックスとジェシカが例の記事を完成させた。その一報をゴルツィネの屋敷にファックスで送りつける。電話口でどんなはったりをマックスがかましたのかは分からないが、奴らの慌てようは相当のものだった。
精神衛生センターの入り口付近を見張っていたシンとショーターから、ゴルツィネが動いたと連絡が入る。記事のファックスを送り付けてから一時間も経ってない。

「行くぞ」

ケインの仲間が車で道を塞ぐ。奴らが武器を取る前に、一気に車を囲んだ。慌てていたせいか、護衛の人数は少なかった。いつも連れている側近くらいしかいない。「ふせてください!!パパ!」と叫んだ側近を、ケインが撃ち抜いた。
そして、俺は車に乗ったままのディノに銃口を向けた。

「…あんたに役に立ってもらうぜ」
「…貴様がこれほど愚かだとは思わなかったぞ!」
「黙れ、さっさと出ろ」

引き金を引きたい衝動を抑えつけ、俺はディノを睨んだ。車から降りると、ディノはブランカを見て目を見開いた。しかしすぐにいつもの表情に戻る。ブランカはディノに軽く会釈した。

「お久しぶりです」
「…まさかこんな所で会うとはな」
「申し訳ありません、今は彼に雇われています」
「…君も落ちたものだな、チンピラふぜいの使い走りとは」
「もともとそんなものですから」

ブランカは穏やかに笑って、そう返した。


ゲートでシン達と合流する。ゲートの奥には巨大な建物が見えた。左手には建設中の施設がある。
シンはすぐにでも中に入りたいようだった。ここから見えるわけもないのに、建物の奥を必死に見つめている。
俺はディノの後頭部に銃口を突きつけて叫んだ。

「ゲートを開けろ!!」

人質にとられたディノを見て、守衛がゲートを開く。センターの入り口で俺は一旦足を止めた。

「お前たちはここで待て!何かあったら俺に構わず撤退しろ」

返事をする者はいなかったが、構わず進む。
中に入ると、医者や看護師たちが悲鳴を上げた。

「李月龍はどこだ!!」

俺が怒鳴ると、近くにいた医者が「し、知らない…!」と言って腰を抜かす。こいつらじゃ話にならない。
俺はディノの後頭部に強く銃口を押し当てた。

「おい、李月龍をどこにやった…?まさかあの医者の実験材料にしてねぇだろうな」
「…ふん、李家のご子息を殺すわけがなかろう。彼は同胞だ」
「御託はいい!さっさと吐かねぇと指から順に吹っ飛ばすぞ」

「落ち着きたまえ、アッシュ・リンクスくん」

視線を上げると階段の上にフォックスが立っていた。隠れているが後ろに部下もいる。そして、フォックスの隣にはユーシスが立っていた。暴力は振るわれていないようだ。髪が少し乱れていたが、目立った外傷は見当たらない。自動ドアの外にいたシンが「若様!!」と声を上げる。その声にユーシスは目を見開いた。顔が一気に青ざめる。何か、罠が仕掛けられているらしい。

「シン!下がってろ!!」

俺はフォックスから目を逸らさずに怒鳴った。フォックスの目がスッと細められる。そして、ユーシスの肩に手を回して見せた。

「…お探しの李月龍氏は我々が丁重にもてなしている。何か問題でもあるのかね?」
「今すぐそいつから離れろ下衆野郎」
「なるほど、それが君の用件か」

いやらしい手つきでユーシスの肩を撫で、フォックスはユーシスから離れた。その瞬間、ユーシスが声を出さずに唇を動かす。「逃げろ」と言っていた。

「これが、こちらの答えだ」

フォックスが銃を取り出し、続けざまに二発撃ってきた。


ディノの最期についての記述は、英二のノートにはなかった。病院にいた英二には知りようのない事実だし、シンやブランカが話すわけがない。まさかこんな展開になるとは考えてもみなかった。


ディノを撃ち殺したのは、俺だと思い込んでいたのだ。

血しぶきが上がり、ディノの体が倒れる。妙にゆっくりと時間が流れた。まるで現実味がない。
フォックスの背後からマシンガンを持った傭兵たちが現れ、俺の後ろにいる仲間に向けて一斉に発砲した。激しい銃声とガラスの砕ける音と悲鳴が上がる。サイレンと共に、鉄製のシャッターが下りた。完全に退路を塞がれてしまった。
ユーシスは二階からこの惨状を見下ろし、口元を覆っていた。そして目を閉じてふらりと後ろに倒れる。その体を近くにいた傭兵がすかさず支えた。丁重に扱っているというのは、あながち嘘ではないらしい。おそらくマナーハイムに言われての事だろう。ユーシスを操ることができれば、巨大な華僑すらも手に入れられる。

…ユーシスがこの程度の事で失神するはずがない。あれは演技だ。だが、奴らには見抜けない。ディノが撃たれたのを見て、この場で思いついたのだろう。

「あちらのご令息は見た目通りの儚さらしい。君とはずいぶん違うが、話は合うのか?」

銃を突きつけられて取り囲まれる。俺は言われるまま銃を捨て、手を後ろに組んだ。そのまま両手を縛られる。
ユーシスを抱えた傭兵が廊下の奥へと姿を消した。…一人くらいならば、自力で何とでもできるはずだ。
俺を取り囲んだ兵士は10人程だった。他にもいるだろうが、そんなに人数は多くないだろう。なんせコイツの部隊はほとんど俺たちが潰した。
フォックスは床に倒れたディノを見下ろして酷薄な笑みを浮かべて見せた。

「こんな結果になって残念ですな、ムッシュウ。あなたの役目は、もう終わりだ」

急所を外して撃たれたディノは、傷口を手で押さえて呻いた。

「き、さま…!」
「彼は私がもらう。財団も、『あの薬』もだ。それをお知らせしたくて急所を外しておいた」

どこからかバナナフィッシュプロジェクトの情報を得たらしい。こんな安っぽい下衆野郎を雇って、極秘情報を抱えた施設まで入り込ませたのが悪手だったのだ。俺たちを駆り立てるのに必死になり過ぎたディノが犯した、最大の失態だ。
フォックスは財団の後継として俺を手に入れておけば、全てが手に入ると妄想しているらしい。俺を意のままに飼いならして見せるとディノに言う奴を見て、どうして俺の周りにはこういうクズ野郎が集まるのかと思った。
気絶したふり…俺もやってみるか。
顎を掴んで来たフォックスの顔に唾を吐く。奴は面白いくらい簡単に挑発に乗った。銃の持ち手で俺を殴りつけ、頭を踏みつける。俺は小さく呻いた後、目を閉じて体を弛緩させた。

全員殺して、今度こそ、終わらせて見せる。




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