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22


ユーシスの声は少し緊張しているように思えた。顔が見えないから何とも言えない。

「ユーシスか」
『覚えててくれたんだね、嬉しいよ』
「何が狙いなんだ、さっさと要件を言え!」

俺がまくしたてると、電話の向こうでユーシスがため息をついた。

『少し落ち着いてくれない?この会話はムッシュウ・ディノもお聞きになってるんだよ』

なるほど、ディノの野郎もその場にいるのか。

「化け物同士手を組んだってわけか」
『乱暴な言い方をするね』
「どうだって良い!要件は何なんだ」
『…我々はMr.ブランカに仕事を依頼した。標的は君の友人達、ショーター・ウォンとエイジ・オクムラ。もっとも、君は彼らが狙われていることにいち早く気づいてたみたいだけど…いつまでもその部屋に彼らを隠しておけないことくらい、分かってるだろう?』

やはり、ショーターも標的に含まれていた。英二よりも先に名前があがったという事は、ショーターの方が人質として有力だと思われているのかもしれない。少年院に入れられた時からの付き合いだと知っているディノが考えたとすれば、自然な流れだ。

「…それで?」
『電話ではちょっとね。明日の夜9時に8番埠頭の12番倉庫に来てくれないか。…一人でね』
「…分かった。それから?」
『武器はなし、他言も無用。分かっていると思うけど、この条件を一つでも無視したら彼らは死ぬことになる』

ユーシスは、今どちらについている?確かめたかったが、ブランカとディノに聞かれているこの状況では下手な事は言えない。

「分かった、言う通りにする。ブランカと代われ」
『Hi, honey』
「引退したんじゃなかったのか!!」
『もちろんしたさ、これはまぁ…―時間外だ』

のらりくらりと実体の掴めない話し方に、苛立ちがつのる。

「カリブの隠遁生活が聞いてあきれるぜ!」
『なんのなんの、ちゃんと優雅な老後を過ごしているよ。カリブは良いぞ。輝く太陽、チョコレート色の肌の女たち…―』
「アソコが腐ってもげちまいな」

そう吐き捨てて電話を切った。アイツが何を考えているのかは、全く分からない。英二のノートでは最終的に味方に回ってくれたとあったが、詳しくは書かれていなかった。
とにかく、ディノとの契約が完了するまでは、英二とショーターの命はブランカに握られている事になる。やろうと思えばいつだって殺せるのだ。


寝室に戻ると、ショーターの手当てをし終わった英二がショーターの膝を枕にして寝ていた。眠気が限界だったのだろう。

「傷は?」
「たいしたことねぇ、ほんのかすり傷だって」

ショーターは英二の頭を撫でて、ゆっくりと立ち上がった。英二の頭の下に枕を入れてやる。俺は英二の寝顔を見下ろした。目元に涙の痕がある。ショーターが撃たれたのは自分のせいだと思ったのだろうか。

「…奴らから連絡があったのか?」
「あぁ。明日の夜、話を聞くことになった。人質はお前と英二だ」
「そうか」
「ついて来るなよ」

警告はもう終わりだ。奴は、今度は何の躊躇いもなくショーターを撃ち殺すだろう。

「分かったよ。…すぐに助けに行くからな」
「あぁ、期待してる」

笑って返すと、ショーターも笑った。いつものように拳を合わせる。

絶望なんてしない。





英二が撃たれた時は発熱していたが、ショーターは全然平気だった。出血するから動くなと英二が言ってるにも関わらず、自然と日課の筋トレを始めようとしてしまうくらいには元気だ。

「もう、心配して損した!」
「だぁから心配すんなっつったろ〜?」

ムッとした英二が、消毒液を染み込ませたガーゼをショーターの傷口に押し当てた。流石に「いってぇ!!」と声を上げる。

「怪我人は、怪我人らしくおとなしくするんだ」
「いって、痛ぇって!ごめん!」
「分かればよろしい」

包帯を巻き直すと、英二は立ち上がった。振り返って俺の方を向く。

「…今夜、行くのかい?」

俺は頷いた。そして窓に歩み寄り、カーテンを開ける。数日ぶりに、部屋の中に太陽の光が差し込んだ。それを見て、英二は俺が奴らと話をした事を確信したらしい。目を伏せて、「ごめんよ」と小さな声で謝った。

「英二。謝るな」
「でも…」
「頼むから」

謝らないでくれ。お前は俺ばかりが危険な役目を負っていると思っているのだろうが、それは違う。こんな地獄を何度も経験しているお前の方がよっぽど…。

「そんな暗い顔すんなって!俺たちですぐにアッシュを助けてやるって決めただろ?」

ショーターがそう言って、英二の背中をバシバシと叩いた。結構強く叩かれて、英二がよろめく。「ちょ、痛いよショーター!」と言った英二は、もう普段の調子を取り戻していた。ショーターは場の雰囲気を明るくするのが本当に上手い。俺には真似できない。

「やせ細ったりしねぇから、安心しろ」
「本当?ご飯がまずくても、ちゃんと食べるんだよ?」
「何だよそれ、お前は俺の母親か?」

飯の心配をされて笑ってしまう。ディノの屋敷で出される食事は最高級の物ばかりだ。まずいなんて事はないだろう。だが、俺にとってはそんな食事よりも英二の作った料理の方が、ずっと価値がある。

「じゃあ、英二ママの料理食べようぜ〜。さっきミソスープ作ってただろ?」
「もう、英二ママってなんだよ」

ショーターが立ち上がって、英二の背を押す。英二は文句を言いつつもキッチンに向かった。俺もその後に続く。英二は鍋を火にかけつつ、「そうだ」と顔を上げた。

「アッシュ、夕飯は何が良い?君の好きな物を作るよ」

優しく笑う英二に、俺は「納豆」と返した。英二とショーターが同時に首を傾げる。

「え?でも、ナットウは嫌いだろ?」
「お前は好きだろ。他にも日本食を作ってくれ」
「ニホンショクね。良いよ」

これからしばらくの間、英二と離れなければならない。その前に英二が好きな物を食べている姿を見たかった。



アパートにアレックスを呼んで、今後の動きについて指示を出した。アレックスは困惑していたが、俺が「しばらくしたら必ず戻る」と言うと頷いてくれた。
それから英二とショーターと三人で買い物に行き、家に帰って来てまた日本語の勉強をした。日本のアニメや映画を観て、英二の反応を見る。何かを思い出した感じはなかったが、英二は楽しそうにしていた。俺はそんな英二の笑顔を目に焼きつけた。

楽しい時間が過ぎるのはあっという間だった。輝いていた太陽が沈む。英二は張り切って夕食の支度を始めた。ショーターが手伝おうとしたのだが、怪我人は大人しく!と怒られてリビングに戻って来た。

夕飯は日本食で一杯だった。ミソスープに煮物に焼き魚に納豆に、英二の料理がテーブルの上に並ぶ。英二が納豆を美味そうに頬張るのを見ながら、夕食を食べる。珍しくたくさん食べた俺を見て、英二は喜んだ。

この温かい食卓から離れたくなかった。でも、もう時間だ。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

ショーターは「おう、気をつけろよ」と軽く手を上げただけだったが、英二は玄関までついて来た。軽く上着の裾を引かれ、振り返る。英二はうつむいたままじっとしていた。

「英二…?」

名前を呼ぶと、英二がそっと俺の背に手を回してきた。そのまま抱きしめられる。俺の中に英二の『記憶』が流れて来た。

…―英二の視点だった。隣にはスキップがいる。まだマービン達に殴られた傷が治ってなかった。俺が刑務所に入れられたばかりの頃だろう。「にしても英ちゃんのジャンプ凄かったぜ!」「あれは火事場の馬鹿力ってやつさ」そんな会話をしながら、俺たちが初めて出会ったバーへと向かっていた。ポケットに入れた手に冷たい小瓶が触れる。英二の指先が僅かにこわばった。…―

「アッシュ…また後でって、言って」

縋るような声で言われ、俺の意識は現実に引き戻された。英二の体を抱きしめる。

「…また後でな」

言われた通りに囁くと、英二が俺の頬に軽くキスをした。そしてパッと体を離す。英二は下を向いていたが、耳まで赤いから照れているのは丸分かりだ。「口にはしてくれないの?」と英二の顔を覗き込みながら聞くと、思い切り目を逸らされてしまった。そして、口元を手で隠す。

「だって、ナットウ食べたから…」

ぽそぽそと呟いた英二が可愛くて、その場に押し倒したい衝動に駆られた。が、どうにか耐えた。英二の頭を撫でて、ドアを開ける。出る時は振り返らなかった。



指定されていた倉庫に入る。途端にカッと照明がついた。眩しくて手を目にかざすと、すかさず周りを武装した男たちに囲まれる。こっちは丸腰だってのに、呆れるくらいの疑り深さだ。両手を上げて、ボディチェックを受け入れる。

「時間通りだね」

カツカツと硬い靴音を鳴らしながら、ユーシスが階段を下りて来た。同時に奥の暗がりから両側をガードで固めたディノが姿を現す。クラブ・コッドで俺が撃ち抜いた傷は流石に完治しているらしかった。が、歩き方はどこかぎこちない。奴の右手には黒く光る杖があった。飾りではなく、本来の意味で使われているらしい。

「よく来た。…待っていたぞ」

俺は答えずにディノを睨みつけた。

「手を下ろして楽にして良いよ、アッシュ」

ユーシスが目の間に立つ。ライトに照らされた顔色はあまり良くなかった。組んだ腕を強く握りしめている。ユーシスの緊張が伝わり、俺はその目の奥を見た。

「誰よりも先を見通してる君が…戦わずにして負けを認めるだなんて意外だったよ」

…緊張している。表情こそ余裕のある笑みを浮かべていたが、目を見て分かった。ユーシスは、本当に俺がここに来ることを予想していなかったらしい。何かしらの策を講じて対抗してくると思っていたのだろう。それで、俺が来たことで焦っているという事は…つまり。

「…『格』が違うんだ。勝ち負けの問題じゃねーんだよ」
「そこまで買いかぶってもらえるとは、光栄だな」

この場にそぐわない穏やかな声に、振り返る。奴は一切の気配を感じさせることなく、倉庫の入り口に立っていた。

「やぁ、久しぶりだな」

眼鏡を取ったブランカが、人の好さそうな笑みを浮かべる。俺は舌打ちをした。

「アンタらとダラダラお喋りしに来たわけじゃねーんだ。さっさと要件を言えよ」
「やれやれ、挨拶くらい返してくれたって良いんじゃないか?つれないな」
「うるせぇ!」

俺が怒鳴ると、ユーシスが一歩前に出た。

「要件を言うよ。アッシュ」

俺に話しかけていたが、ユーシスの視線はブランカの方を向いていた。ブランカが足音を立てずにユーシスの隣に近づく。腕組みしたユーシスの手に、さらに力が入ったのが分かった。依頼主側の立場であるはずなのに、ブランカを警戒していた。本能的なものなのかもしれないが、それにしても違和感がある。
そんなユーシスに、ブランカが微笑みを向けた。ユーシスはそこでようやく俺の方を見た。

「…君たちがこれまでに集めた『バナナフィッシュに関するすべての情報』と、『アレクシス・ドースン博士の身柄』、それと…―『完璧なバナナフィッシュのサンプル』を48時間以内にこちらに渡すこと。このリミットが守られなかった場合、また何らかの偽装行為がなされた場合…君の友人達は『殺される』」

俺は確信した。ユーシスは『殺される』と表現した。なぜなのか理由は分からない。しかしこの最悪なまでに不利な状況に陥った俺を前にしても、ユーシスはまだ『こちら側』についてくれているようだ。
俺を見上げる黒い目が「どうするつもりなんだ」と問いかけている。俺は表情を変えることなく、その目を見据えた。
ユーシスは、ブランカの力をまだ全然理解していない。そんな俺でも見破れるような態度を取ったら、ブランカには筒抜けだ。高まる緊張に、心臓が嫌な音を立てた。

「それと…仕事が済んだら、君はムッシュウ・ゴルツィネに引き渡される」

ノートにも書かれていたし、『記憶』でも見た。前もって分かっていた事だったが、嫌悪感で吐き気がした。ディノの視線を感じ、目を向ける。その姿を見ただけで殺意がわいてきた。

「心配するな、殺しはせん。生かしておいてやろう…奴隷としてな」

奴の目は獣の光を宿していた。狂気に満ちている。しかし話す声は静かなものだった。その差が余計に気味悪さを感じさせる。

「…元のあるべき道に戻るだけだ。お前を最低の男娼として働かせてやろう。どんな娼婦も耐えられないような事を経験させてやる」

この男は化け物だ。狂っているというのに、どこまでも正気で、頭のおかしい事を言う。

「少しずつ破壊してやろう。お前が発狂するまでな…」

まったく恐怖を感じないと言うと嘘になる。奴の言葉で俺の体からは血の気が引いていた。
自分の腕を強く掴む。目を伏せると、必ず助けると言ってくれた二人の姿を思い出した。

そうだ、俺は一人じゃない。

「…―どうする、アッシュ。君の返事は…?」
「…分かった。言う通りにする」

俺の答えに、ユーシスはわずかに目を見開いた。そして悲し気にその目を伏せる。

「君は、本当に…―」

何か言いかけて、言葉を飲み込む。

「…取引は成立だね。48時間後、またここで会おう」

ユーシスはそう言って、俺に背を向けた。「我々も引き上げよう」とディノが言う。それにブランカが続く。俺はそれを制した。

「行く前に一発殴らせろ、ブランカ」

こんな事をしても無駄かもしれない。だが、保険はできるだけ多くかけておきたかった。俺が捕らわれている間、英二とショーターが絶対に殺されないようにしたかった。
ディノとユーシスの前でブランカが上着を脱ぎ捨てる。俺も同時に上着を脱いだ。奴は「さぁ、おいで」と小さな子どもを呼ぶように両手を広げる。無防備なのに、隙がない。俺は腰を落としてじりじりと間合いを取った。

「逃げてばかりでは一発も殴れんぞ」

うるせぇ、逃げてるわけじゃない。攻撃のチャンスがないだけだ。
俺が黙っていると、「ではこちらから行くぞ!」とブランカが一気に間合いを詰めて来た。繰り出された攻撃を寸前のところで避ける。首筋を掠ったそれは、ナイフで切られたかのような傷を作った。素手の攻撃とは思えない威力だ。防御がどうだの、攻撃の重さがないだの、いちいち教師面するブランカに「うるせぇ!」と吐き捨てる。

「お前みたいな筋肉馬鹿になんかなりたくねーよ!」
「筋肉馬鹿とはなんだ、正しい筋力トレーニングはボケ防止にも良いんだぞ」

こっちは本気で挑んでいるというのに、世間話をしている空気を崩さない。ブランカにとっては俺なんて足元にじゃれつく猫同然だった。
顎を狙った回し蹴りを右手であっけなく止められる。そのまま流れるように、鳩尾に肘を打ち込まれた。勢いよく後方に飛ばされ、地面に背中を打つ。胸を潰され、骨が軋んだ。息ができない。

「息ができないだろう。手加減しなければお前の心臓は潰れている」

俺は胸を押さえて、喘ぐように口を開いた。わずかな呻き声一つ出ない。ユーシスはそんな俺を見て、完全に青ざめていた。

「アッシュ…」
「驚くには及びませんよ、ユーシス殿。あれがプロフェッショナルとアマチュアの差なのです」

ディノが何やらユーシスに語りだしたが、そんなことはどうでも良い。俺はブランカと話がしたかった。

「ムッシュウ、ついでと言ってはなんですが、彼と少し話をしたいのですが…よろしいでしょうか?」
「いいともブランカ。…我々は席を外そう」

いくつもの足音が遠ざかっていく。そして倉庫の重たい扉が閉まった。俺は痛む体を起こして、コンテナに背を預けた。ここに残っているのはもう、俺とブランカの二人だけだ。ブランカは俺の前で膝をついた。

「アッシュ、私がお前に忠告めいたことをするのも、おそらくこれが最後だ」

そんな、諦めきった目で何を忠告するってんだ。俺がブランカを睨むと、奴は目を伏せた。

「『守るべき者』を作ってはいけない…ムッシュウのもとに戻りなさい。それが一番良いんだ。そうすれば、お前はすべてを手にすることができる」

望まなければ、失う事もない。そんなのは詭弁だ。最初から絶望していろと言っているのと同じだ。

「お前と出会った時、この子はこの世界でしか生きられない子だ…と思った。だから、生き延びるための…―その術を教えてやろうと思った。お前は実に優秀な生徒だったよ」

俺はブランカの声を聞きながら、英二の『記憶』を思い出した。キラキラとした宝物のような『記憶』だ。英二は俺に「君ならなんだってできるよ」と言ってくれた。どこへ行っても生きられる。そう言って、俺の手を握ってくれた。
そして、俺の側にいると…―約束してくれた。

「私はお前が破滅するのを見たくないんだ」
「……勝手に俺の事を何でもかんでも決めつけんな。俺は破滅したりなんかしない…俺は!」

拳を強く握りしめる。

「…―俺は、もう独りじゃないんだ」
「お前は…それを守りきれるつもりでいるのか」
「…分からない。でも、守られっぱなしじゃダメなんだ」

ブランカがわずかに目を見開く。そして、ふっと笑った。

「それならもう、何も言う事はない。お前の好きにしなさい」

そう言って立ち上がる。上着を羽織るブランカに、俺は一縷の望みをかけて頼んだ。

「ブランカ、一つだけ…一つだけアンタに頼みたい事が…」
「何だ?お前の望みなら何でも…―」


「あいつらを、殺さないでくれ」









…―男の子が、泣いている。
前に見た時よりも、大きくなっていた。光の戻った緑の瞳から、ポロポロと涙が落ちる。僕は急いで男の子に駆け寄った。そしてぎゅっと抱きしめる。まだ僕の方が男の子よりも体は大きい。震える背中をさすってやると、男の子の体から光の粒が零れた。その粒に触れると、僕の指先に吸い込まれるようにして消えた。
頭の中に『記憶』が流れ込む。恐ろしい光景ばかりだった。

…―乱暴に体を貪られ、無機質なレンズが向けられる。いくら助けを求めても、許しを乞いても、誰も聞きはしない。幼い体を押さえつけ、醜い欲望をぶちまける。…―

痛みと恐怖に耐え、目を開く。男の子の涙は止まっていた。緑の瞳を丸くして、僕を見つめ返す。僕は笑って、その頬を撫でてやった。

「もう怖くないだろ?」

僕の言葉に、男の子は小さな声で「うん」と頷いた。








アッシュに呼ばれた気がして、目が覚めた。
ベッドから跳ね起きて、リビングに向かう。そこにはショーターとアレックス達がいた。今何時だろう。アッシュが帰ってくるまで起きているつもりだったが、また睡魔に負けて寝てしまった。

「アッシュは!?」
「戻って来たけど、さっき出て行った」

ショーターの言葉に、僕は裸足のまま玄関を飛び出した。もし『流れ』が変わっていたら、奴らに撃たれるかもしれない。それなのに、この時の僕はそんな事を一切考えられなかった。
だって、アッシュが僕を呼んだのだ。そばに行ってあげないと。せめて、一目会って、抱きしめてあげたい。
エレベーターに飛び乗り、一階まで下りる。寝巻姿の僕に、周りが驚いた視線を向けてきた。それを無視してエントランスを走り抜け、アパートの外に出た。冷たい空気が頬に刺さる。吐く息が白く、僕の視界を遮った。左右を見渡して、アッシュの姿を探す。

「英二!」
「いきなりどうしたんだよお前!!」

ショーターとアレックス達が追いかけて来た。目の前をふさぐようにコングに立たれ、仕方なくアパートの中に戻る。ショーターが僕の肩を抱えて来た。

「一人で動くなよ、約束しただろ」
「うん…ごめん」

衝動的に動いてしまった事を謝る。確かに軽率だった。でも、どうにも抗い難いものがあったのだ。
作戦とはいえ自らあの化け物のもとに行くアッシュの事を考えると、胸が苦しかった。『今回』僕は撃たれなかったし、薬で眠ることもないからアッシュを見送れる気でいた。
…でも、もし起きていたら、引き留めてしまってアッシュを困らせたかもしれない。

「いきなり飛び出したからビックリしたぜ」
「本当だよ、ボスが夜出かけるなんていつもの事だろ」

コングとボーンズに言われ、僕は力なく頷いた。



翌日、マックスと伊部さんがアパートにやって来た。マックスはニューズ・ウィークをクビになったという。理由はバナナフィッシュの資料をすべてアッシュに奪われたからだ。『前』と同じく、ドースン博士も攫われていた。

「…驚かないんだな」

マックスに言われ、僕はショーターと顔を見合わせた。そして、ショーターが切り出す。

「すまねぇ、俺たちをたてに取られたんだ。キッパードやホルストックを殺した奴に、標的にされてな」

ショーターは袖を捲って、肩の包帯を見せた。

「おま…撃たれたのか!?」
「そっちの窓は穴ぼこだぜ、俺のこれはかすり傷だ」
「英ちゃんは、大丈夫だったの?」
「はい、その時僕は寝室にいたので…」

僕が怪我をしてないかと、伊部さんが確認する。肩や腕を触って、ようやく安心したらしい。伊部さんは大きなため息をついた。

「アッシュは今ゴルツィネの所にいる。俺たちで必ず助け出すから、アンタらはバナナフィッシュ以外の奴らの弱みをどうにか握ってくれ」
「別の切り口で攻めろってことか…」
「無職のオッサンには厳しいかもしんねーけど、頼んだぜ!」

ショーターがそう言うと、「ったく、何で俺の周りにいるガキは一言多い奴ばっかなんだ!」とマックスは顔をしかめた。


コーヒーを入れようと僕がキッチンに行くと、伊部さんがついて来た。『手伝うよ』と言われ、首を傾げる。

「えっと…すみません、今何て?」

僕が聞き返すと、伊部さんは酷く驚いた顔をした。「聞き取れなくて…」と続けると、今度は伊部さんが首を傾げる。

『英ちゃん、俺相手に英語で話さなくても良いんだよ?』

伊部さんが、何を言っているのか分からない。言葉の響きは、ニホンゴのような気がする。でも、僕はまだニホンゴを勉強し始めたばかりだ。簡単な単語なら読み書きできるが、話せるかと言われたら別だった。

「すみません、英語でお願いします」

僕が頼むと、伊部さんは「分かったよ」と英語で返してくれた。

「英語で話す方に慣れちゃった?」
「え?そう、ですね。英語の方が話せます」

食器棚からカップを取り出す。伊部さんはケトルにお湯を沸かしてくれていた。

「若い子の順応力はすごいなぁ。俺なんか、日本語話したくて堪らなくなる時あるのにさ」
「あ、それだったらショーターがニホンゴ勉強してて、ちょっと話せますよ」

僕がそう返すと、伊部さんが笑った。

「何でわざわざショーターと日本語で話すのさ、ネイティブの英ちゃんがいるのに」

伊部さんは、一体何を言っているのだろう。

「英ちゃんは、日本人だろ〜」

僕には、何一つとして理解できなかった。
ガシャン!とカップを落とす。フローリングの上で粉々に砕けた。僕は動けなかった。
何かがおかしい。そうは思うのだが、何も分からない。それは得体の知れない恐怖だった。

『英ちゃん!?大丈夫!?』

また伊部さんがニホンゴで何か言った。今のは状況的に、大丈夫とか、どうしたのとか、その辺の言葉だろう。カップが割れる音を聞いて、ショーターとマックスも様子を見に来た。

「どうした、大丈夫か?」
「英ちゃんがカップを落としちゃったんだ」
「怪我はねぇか英二」

二人が来たことで伊部さんが英語に戻る。僕は止めていた呼吸を再開した。心臓がバクバクしている。

「だ、大丈夫…ごめん、手がすべっちゃって」
「大きな破片を拾って、細かいのは触っちゃダメだよ」

伊部さんに言われるまま、破片を拾う。その間にショーターが掃除機を取りに行ってくれた。
割れたカップを片付け、コーヒーを入れた。それを飲みながら今後の動きについて相談し、マックスには目立たないようゴルツィネの周りを探ってもらうことになった。


二人が帰った後、僕はアッシュの書斎に足を踏み入れた。様々なジャンルの本がある中、ニホンゴの本を手に取る。三人で勉強した所はちゃんと覚えていた。でも、それ以外は分からない。
伊部さんは僕の事をニホンジンだと言った。そう言われたら、そうなのかもしれないと思う僕がいる。でも、ニホンの事は何も分からなかった。
『前』の世界の事は…忘れてない。ちゃんと覚えている。アッシュやショーターとのやり取りや、会話の返しから何まで、細かい所もちゃんと覚えている。そうしないと、何か違う事をしてしまったら『流れ』が変わってしまう。僕の記憶力は、正常なはずだ。むしろ、人より多くの事を覚えているのではないだろうか。

でも…―故郷であるはずの、ニホンの事は…。

「英二、ここにいたのか。どーしたんだよ電気もつけねぇ…」
「ショーター…っ!」

書斎のドアを開けたショーターに、勢いよく抱きついた。分からない事ばかりで、心細かった。一人で立っていられる気がしなかった。足元がふわふわする。今、僕は、ちゃんとここにいるのだろうか。そんな訳の分からない事を考えてしまう。

「…どうした、英二」
「……」

大きな背中に手を回す。ぎゅっと抱きしめると、ショーターが頭と背中を撫でてくれた。

「なぁ、順番に話せなくても良い。思ってることを言ってみろよ」

「ちゃんと聞いてやるから」と続けられ、僕はこの不安を言葉にしようとした。でも、喉から出たのは小さな嗚咽だった。トントンと優しく背中を叩かれ、ぶわりと視界が滲む。

「…こ、…わい…」
「うん」
「こ…わいよ、ショーター…」
「何がこわいんだ?」

ショーターの胸に額を押し付ける。くぐもった声は聞き取りにくいだろうに、ショーターは優しく聞いてくれた。

「…わ…か、らない…だから、こわいんだ」
「そうか」

僕の言葉を否定したり、誤魔化したりせず、ショーターはそのまま受け入れてくれた。それに僕は安心した。大丈夫だと言われるよりも、しっかり抱き寄せられることが嬉しかった。




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