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俺の目の前で、キッパードが撃ち殺された。


クラブ・コッドのケータリングサービスを装って、奴の部屋に入る。ベッドに上がった俺に、奴が鼻息荒くのしかかろうとした時だった。窓の割れる音と同時に、キッパードのこめかみから血が噴き出す。俺はすぐにベッドサイドのライトを掴んで、コードを引き抜いた。キッパードの体が倒れてくる。それを押し返し、ベッドから下りた。壁にはりつき、窓に空いた穴を確認する。

…撃ってくる気配はない。狙いは最初からキッパードだけだったようだ。弾道から、どこから撃たれたのかを予想する。それは狙撃するには遠すぎるビルだった。並みのスナイパーなら不可能だろう。だが、アイツなら可能だ。

英二のノートと『記憶』から、キッパードを含むバナナフィッシュプロジェクトに関わった要人が暗殺されるという事実は知っていた。しかし、このタイミングで殺されるとは思わなかった。先手を打って行動していたつもりだったのだが…やはりアイツには敵わない。

キッパードから何一つ情報を聞き出せなかったが、仕方がない。俺は急いで部屋を出た。現場から俺の指紋が検出されるだろうが、今はキッパードのおかげで俺は死人だ。市警も死者を容疑者にはできないだろう。
掃除道具倉庫に放り込んでおいた少年を確認する。まだ意識は戻っていなかった。念のためネクタイと上着を使って手足を縛っておく。これだけしていれば、この少年が誰かに襲われたと一目で分かるだろう。どのみちキッパード殺しの容疑はかけられるだろうが、状況を見たら不可能なのは明らかだ。

アパートを出て、奴が狙撃に使ったであろう建物に向かう。入口にかかった鍵はこじ開けられていた。中に入って、窓の周辺を調べる。スナイパーライフルを固定したのだろう、三脚の痕がうっすらと残されていた。

…わざとだ。奴はわざと痕跡を残して、俺に存在を知らせている。

何も知らない状態だったなら、とてつもない恐怖を感じただろう。だが、今の俺は知っている。

『記憶』の中で、英二はブランカに撃たれていた。警告の意味で撃った一発が、英二の肩を掠ったのだ。続いて何発も撃ち込まれたが、それは全て体に当たるギリギリのところを狙われていた。背筋が凍るほど、正確な射撃だ。英二はその銃創で発熱し、苦しんでいた。

…『今回』は英二を撃たせない。傷つけさせはしない。



アパートに帰ると、ショーターがリビングで酒を飲んでいた。ずっと部屋にこもりきりで暇だったのだろう、ソファの周りにはたくさんの本が散らばっていた。そういえばコイツは少年院の図書室担当にさせられていたな、と懐かしい事を思い出す。

「おう、どうだった?何か分かったか?」
「いや…聞き出す前に殺された」

俺の言葉に、ショーターはソファから立ち上がった。「大丈夫なのかよ!?」と俺に近づいて、傷がないか確認する。俺は軽く手を上げて答えた。

「俺は無傷だ。奴の狙いはキッパードだけだった。撃たれたのも一発だけだ」

それから先ほどあったことをショーターに説明した。
酒を飲んで、ネクタイを解く。ショーターは俺の話を聞いて低く唸った。

「そりゃ、人間業じゃねぇな…」
「あぁ、だから窓には絶対近づくなよ。一瞬でやられるからな」
「分かったよ」

ショーターの返事を聞いて、俺は視線を寝室の方へと向けた。時刻はもう深夜だ。英二は寝ているだろう。

「…英二の事なんだけどよ」

俺が英二の事を考えていると察したらしいショーターが、言いにくそうに口を開いた。俺が黙って促すと、ショーターの視線が横に逸れた。

「あいつ…自分の事を忘れていってるんじゃねぇか?」

それは、ずっと触れないようにしてきた違和感の『正体』だった。ショーターも、気づいていたのだ。

「…どうして、そう思ったんだ?」
「色々あるけどよ…お前だって気づいてたんだろ?日本の事を聞いても何も話さねぇし、日本食だって、まるで初めて見るもんみたいな反応でさ…それに…」

ショーターが手に取ったのは、俺が買った日本語の本だった。書斎に置いていたのを持ってきたらしい。

「日本語が、読めねぇみたいなんだ」

その一言は、俺の頭に強い衝撃を与えた。いや…薄々、感じてはいた。日本語のレシピよりも英語のレシピを見ていた時点で、もしかして、とは思っていた。ただ、受け入れたくなかっただけだ。
英二の記憶は、確実に失われている。しかも、日を追うごとに進行している。

「この本を見て、中国語に似てるねって言ったんだよ」
「それで…お前は何て返したんだ」
「……何も、言えなかった」

ケープ・コッドに行く前…マックスの隠れ家で話をした時、英二はまだ日本の事を覚えていたと思う。棒高跳びの選手としてどんな風に飛んでいたのか思い出せないとは言っていたが、その時はまだ『思い出せない』事を自覚していた。

でも今は、その自覚すらない。

「これって、英二が『繰り返し』てるのが原因なのか…?」
「…おそらく、そうだと思う。こんな事を何度も繰り返して、記憶に異常が出ない方がおかしい…本当は、気が狂ってもおかしくない状態なんだ」

俺は英二に触れて、目を背けたくなるような『記憶』をいくつも見た。目の前で親しい者を殺される。あるいは精神的にも肉体的にも性的にも暴力をふるわれる。そんな悪夢のような『記憶』がたくさんあった。

「…どうにかしてやれねぇのか。日本の事を話して聞かせるとか…伊部をここに連れて来るってのはどうだ?」
「それで日本の事が思い出せるならそうしてやりてぇけど…伊部が英二の記憶のことを知ったらどう動くと思う?」
「あー…、日本に連れて帰る、だろうな」

そう、伊部ならきっとそうするだろう。日本の事を忘れたのなら、日本に連れて帰るのが一番だ。誰だってそう考える。それに、こんな危険な場所にいるより、精神衛生上良いと思うだろう。
だが、それは困る。

「日本語が読めなくなったってことは、話せなくなってる可能性も高い。伊部と二人きりにするのはまずいだろう。…日本人同士なのに日本語を使わないだなんて不自然だからな」
「でも俺は日本の事なんて知らねぇしな…英二の故郷の話でもしてやれたら、思い出すきっかけになるかもしれねぇのに」

英二の故郷。それを聞いて、俺は『記憶』で見た会話を思い出した。島根の出雲…たくさんの神様がいるんだと話してくれた。

「そうだな…」

目を閉じる。瞼の裏には楽しそうに故郷の話をする英二の姿があった。








エビとアボカドのサラダとクロワッサン。卵とベーコンを焼いて皿に盛りつける。そして自分用にコーヒーを入れた。
僕とショーターはすでに朝食を終えていた。ショーターはゲストルームで筋トレをしている。ジムに行くこともできないので「体がなまっちまう」と笑っていた。
遮光カーテンを常に閉め切っているせいで、リビングの照明はつきっぱなしだ。時計を見ると9時を過ぎていた。寝室に目を向けるも、アッシュはまだ起きてこない。僕はため息を吐きながらも、内心僕だけの特権を嬉しく思っていた。

「まったく、世話が焼けるなぁ」

ぼやく声にも嬉しさがにじんでしまう。自覚はあるが、これはどうしようもなかった。
コーヒーを一口飲んで、テーブルに置く。寝室のドアを開けると、照明の強さを最大にした。アッシュは小さく唸って、顔を枕に突っ込んだ。うつ伏せの状態でそのまま固まっている。いつも思うのだが、あんな寝方をして苦しくないのだろうか。
ベッドに歩み寄って、アッシュの耳元に顔を寄せる。こんな声で起きるわけないと知りつつも、最初は優しく呼びかけた。

「アッシュ、起きて」

枕に顔を突っ込んでいるせいで、寝顔は見えない。寝ぐせのついた金髪を撫でると、アッシュが横を向いた。あどけない寝顔が見えて、嬉しくなる。僕はアッシュの頬に手を伸ばした。ふにふにとつつく。眉間に少ししわが寄った。それを人差し指で撫でて伸ばしてやる。すると、アッシュは僕の手に額をすり寄せてきた。猫なんて飼ったことはないけど、猫みたいな仕草だと思った。ストリートキッズのボスだと恐れられているとは思えない。愛らしい姿に自然と頬が緩む。

「アッシュ、もう9時だよ」
「んー…」
「エビとアボカドのサラダ、食べるだろ?」
「う…ぅん…」

まだ意識は覚醒してないのに、小さく頷くのがおかしい。僕はアッシュの頬を撫でながら続けた。

「ミルクもついでやるし、クロワッサンも温めるよ」
「…ん」

ス―…、と穏やかな寝息が聞こえる。やはり、こんな起こし方では夢の中から出て来られないらしい。僕は「よし!」と気合を入れて、布団を掴んだ。



アッシュをバスルームに引きずっていると、筋トレを終えたショーターがやって来た。熟睡したアッシュを見て笑う。それから、バスタブにアッシュを入れるのを手伝ってもらった。シャワーを出して、カーテンを閉める。下着をつけたままだったから、脱衣所にタオルと一緒に新しい下着を用意してやった。これでしっかり目覚めてくれるだろう。

リビングに戻って、すっかり冷めたコーヒーを飲む。ゲストルームのシャワーを浴びてきたショーターが、髪を拭きながらやって来た。着るのが面倒だったからか、身に着けているのはズボンだけだ。

「さっきは手伝ってくれてありがとう、ショーター」
「良いって良いって、一人で運ぶのはキツイだろ」

タオルを首にかけて、どっかりとソファに座る。ショーターの鍛え上げられた筋肉に目がいった。アッシュは細身ながら筋肉がしっかりついている感じだけど、ショーターは結構がっしりしている。シンがショーターの筋肉を自慢していたことを思い出した。

「僕だって鍛えてるんだけどなぁ…」
「ん?別に英二は貧弱じゃないと思うぜ。良い体してるし」
「本当?」

ショーターにそう言ってもらえると嬉しい。
でも最近すぐ眠くなるし、部屋から出られないから満足にトレーニング出来ていない。僕はシャツをめくってショーターと自分の腹筋を見比べた。

「んー…やっぱ全然違うなぁ」
「そりゃ俺と比べたらな」

そんなやり取りをしていると、着替えを済ませたアッシュがやって来た。自分のお腹をペタペタ触っている僕を見て、首を傾げる。そんなアッシュに「おそよう」と挨拶してやった。

「腹なんて出して、何やってんだオニイチャン」
「パンツはちゃんと洗濯カゴに入れた?」
「うるせーな」

しかめっ面しつつも、席に着く。僕は冷蔵庫からミルクを出してやった。
アッシュはそれを受け取って、「新聞」と右手を出してきた。僕が今から読もうとした新聞を指さす。

「朝ご飯食べたらね」
「読みながら食べる」
「ったく、行儀悪いなぁ」

渡さないと食べそうになかったので、仕方なく新聞を渡した。アッシュが新聞を読んでいる間に、クロワッサンと卵とベーコンをそれぞれ温めてやる。温まったそれらを持って戻ると、アッシュはもう新聞を読み終わっていた。僕もだいぶ速く読めるようになったと思うが、アッシュには敵わない。

「何か気になる記事でもあった?」
「いや、特には」
「そう」

アッシュの向かい側に座って、アッシュが朝食を食べる姿を眺める。朝食っていうよりも、時間的にはもう昼食に近い。ショーターはソファに寝そべって本を読んでいた。特に会話はなかったけれど、ゆったりとした時間が流れていた。ずっとこんな風に過ごせたら、どれだけ良いだろう。

「…何笑ってんだよ?」
「え?僕笑ってた?」
「俺が食ってるの見るのがそんなに楽しい?」

楽しいっていうよりも…―。

「嬉しい」
「え?」
「アッシュがご飯食べてるの見ると、嬉しくなる」

…ちゃんとアッシュが生きてるんだなって思えるから、嬉しい。
僕が思ったままの事を言うと、なぜかアッシュの顔がみるみる赤くなった。僕的にはそんなに照れるような事を言ったつもりはなかったのだが、アッシュにとっては違ったらしい。照れるアッシュは可愛かった。僕は頬杖をついてにんまりと笑って見せた。

「だから全部残さず食べてくれよ?」

僕がそう言うと、アッシュは僕から目を逸らしながら「あんま見んなよ」と小さな声で言った。



幸せな遅い朝食はすぐに終わってしまった。
マックスから連絡を受け、アッシュが外出の準備をする。いくら起こしても起きなかったさっきまでとは違って、あっという間に準備を整える。眼鏡をかけたクリスの姿で、玄関に向かった。
僕は玄関にも近づくなと言われているので、見送ることもできない。ドアの閉まる音だけを聞いて、深いため息を吐く。
リビングに戻って、ショーターの向かい側に座った。ショーターは中国語に似た本を読んでいた。勉強しているのだろうか。数日前にも同じ本を読んでいたような気がする。「それ、中国語に似てるね」と言ったら、なぜか妙な顔をされた。

「ショーター、何読んでるの?」
「んー…日本語の本だよ」
「ニホンゴ」

僕が繰り返すと、ショーターはなぜか悲しそうな顔をした。「上、着てくるわ」と言って、ソファから立ち上がる。テーブルに置かれた本を見下ろすと、読めない文字がそこにあった。
妙な、感覚だ。読めるような気もするのだが、読もうとするとモヤがかかったようになって読めない。

「ニホン…」

一瞬、脳裏に泣いている子どもの姿が見えた気がした。








キッパードの件から数日して、ホルストックが殺された。報道では交通事故として取り上げられていたが、違う。建物からハイウェイを走る車を狙って狙撃し、事故に見せかけて殺したのだ。これも、奴にしかできない芸当だった。

「コルシカ人財団のトップも次々変死してるが、これもゴルツィネの殺し屋がやったのか?」
「どうだかな…手口を見るに、違うような気もするが」

タブレットに映し出された記事を流し読む。心臓発作に見せかけて殺す…おそらく毒を使ったのだろう。解剖しても検出されない、毒物。ユーシスの姿が浮かんだ。この件でディノと取引したのかもしれない。互いに互いの邪魔者を排除する取引を。

「何にせよ、急いで証拠を固めねーと、都合の悪いものは人だろうと何だろうと消されちまう」

マックスの言う通りだ。時間をかければかけるほど、こちらが不利になる。奴らはどんな事でもなかった事にできるだけの力を持っている。薄汚い金と権力を力というのもなんだが、実際そうなのだから仕方がない。
ドースン博士の認知能力低下とバナナフィッシュとの因果関係が証明できるかどうか、引き続き専門家の意見を貰う事にして、マックスと別れた。伊部が英二に会いたがってるとも言われたが、今は何かに見張られているからアパートに来られると困ると言って断った。

帰り道、奴の気配を感じた。即座に走って気配をたどる。しかし、姿を見ることはできなかった。舌打ちをして、もとの道に戻る。
そして俺は、アパートのエントランスで決定的な痕跡…というよりも、メッセージを見つけた。奴の愛読書が、小さな机の上に置いてあったのだ。このアパートの中に、入ってきている。そう認識した途端、全身の毛が逆立った。心臓がじくじくと痛む。来ることは分かっていた。分かっていけれど、どうしようもない絶望と恐怖を感じる。
どうして…どうしてアンタなんだ。
そう思わずにはいられなかった。

ドアを開けて素早く中に入る。鍵をかけてしばらく廊下の様子を窺っていた。人の近づく気配はない。
キッチンからは良い匂いがしていた。英二の鼻歌も聞こえてくる。それに少しだけ肩の力が抜ける。俺は上着を脱いでキッチンに向かった。

「あ!おかえりアッシュ」
「ただいま」
「いつ帰って来たの?ドアの音気づかなかったや」
「さっきだよ、さっき」

テーブルの上には紙とペンがあった。そこに書かれた文字を見て、俺はわずかに目を見開いた。

「英二…これ…」

俺がテーブルの上を指さすと、鍋を混ぜていた手を止めて英二が振り返った。

「あぁ、それ?ショーターがニホンゴを勉強したいって言うから、僕も一緒にやってたんだ」
「日本語、分かるのか?」

当たり前だろ、と言って欲しい。そう思って聞いた。しかし、英二は困ったような顔で首を横に振った。

「君みたいに頭良くないからね。英語と中国語で手一杯だよ」

「アッシュはニホンゴ分かるの?」と聞かれ、俺は力なく「少しは…」と返した。

分かっていた。分かっていたけれども、本人の口から聞くと大きなショックを感じた。英二は本当に、忘れてしまったのだ。
紙には簡単な日本語がひらがなで書いてあった。『ありがとう』『おはよう』『こんにちは』…そんな挨拶の言葉だ。角ばった字で書かれてるのが、ショーターの字だろう。英二の書いたひらがなはそれと比べると綺麗なものだった。

「おー、帰ってたのかアッシュ」

書斎から新たに本を持って来たショーターが、椅子に座った。本と一緒にタブレットも持って来ており、日本語辞典のページを開いていた。

「ショーター、それは後にしよう。テーブルの上片付けてよ」
「わり、ちょっと意味が気になってよ」
「結構勉強熱心なんだね」

ショーターが勉強好きなわけねぇだろ。それは全部お前のためだ、英二。
俺は目頭が熱くなるのを感じた。英二の記憶のために、俺が…俺たちが英二にしてやれることは何か。俺は随分と前からそれに気づいていたような気がする。ただ、向き合う勇気がなかっただけで。
ショーターがいてくれなかったら、いつまでも目を逸らしたままだったかもしれない。



夕食を済ませ、俺たちは三人でリビングのテーブルを囲んだ。広げられているのは日本語の本とノートだ。俺はタブレットで島根県出雲市の写真を英二に見せた。伊部から聞いた英二の通っていた学校の画像も見せると、少しだけ英二の表情が変わった。懐かしいものを見るような、どこか寂し気な目をしていた。

「…ここに、見覚えはあるか?」

おそるおそる聞いてみる。英二はじっと画面を見つめ、そして首を振った。

「分かんないや。どこなの?これ」
「出雲だよ」
「ギズモ?」

首を傾げる英二に、俺は固まってしまった。『記憶』の中でこれと同じようなやり取りをした事を思い出す。ただ、その時は立場が逆だった。
英二の言葉にショーターが笑う。「『イ』ズモ、だろ。ギズモじゃグレムリンだぜ?」と続けられ、俺はどんな顔をすれば良いのか分からなくなった。

「イズモ…イズモ。そこは特別な場所なの?」

特別な場所に決まっている。英二が…俺を連れて行きたいと言ってくれた場所だ。この世の何よりも大切な英二が生まれ育った場所だ。

「あぁ…特別な場所だ」
「そっかぁ…じゃあさ」

続けられた言葉に、俺は涙を堪えきれなかった。

「全部終わったら、三人で行こうよ」








目の前で、アッシュの綺麗な瞳から涙が零れ落ちた。
いきなりの事でビックリした。今の会話の中で泣くようなところがあっただろうか。それとも、僕が知らないうちに何かアッシュを傷つけるような事を言ってしまったのだろうか。

「あ、アッシュ?どうしたの…?」

聞いても応えてくれない。アッシュは零れる涙を拭きもしないで、僕をじっと見つめていた。その視線に耐えきれず、僕はショーターに助けを求めた。が、なぜかショーターも下を向いて目頭を押さえていた。

「しょ、ショーター?え、どうしたの二人とも?」

そんなに二人ともニホンに行きたいのだろうか。僕はタブレットの画像を見た。どこか懐かしさを感じる風景。でも、僕の知らない風景だ。アッシュもショーターもニホンに行った事はないと言っていた。泣くほど思い入れがあるとは到底思えない。
とりあえずティッシュを持って来て、アッシュとショーターにそれぞれ何枚か渡した。ショーターは自分で涙を拭いていたが、アッシュは僕の方を見たまま動かない。仕方ないので濡れた頬を軽く拭いてやった。そこでようやくアッシュは瞬きをした。止まっていた時間が動き出したみたいに、何度も瞬きを繰り返す。涙で潤んだ瞳はいつもより幼かった。

「…悪い」
「いや、良いんだけど…どうしたの?」

ぽつりと呟いたアッシュに訊ねる。すると、アッシュは微笑んだ。

「…嬉しかったんだ、とても」

それはとても綺麗な笑みだった。


ショーターにも理由を聞いたが、アッシュにつられて泣いてしまったのだと誤魔化された。
なぜかは分からないが、二人ともニホンのイズモに行きたいらしい。僕も二人と一緒に行きたいと思った。今度こそ、全てを終わらせて、自由になる。そうすれば、誰にも命を狙われることなく安心して過ごすことができる。銃やナイフを持つ必要のない所に、二人を連れて行きたい。
そんな所があったら…それは夢のような場所だと、思った。


アッシュとショーターが、ノートにヒラガナで『おくむらえいじ』と書いてくれた。タブレットに表示した手本の字と比べるとかなりいびつだ。でも、すごく嬉しかった。僕はカタカナで二人の名前を書いた。ニホンゴの文字はカンジ、カタカナ、ヒラガナと三種類もあって大変だと思ったけど、書くのはそんなに難しくなかった。僕がニホンゴを書くと、なぜか二人は喜んだ。
名前を書いてもらったページを切り取る。それを小さく折りたたんで、胸ポケットに入れた。肌身離さず持っていたいと思ったからだ。

「間違って洗濯すんなよ」
「だいじょーぶ。忘れないから」

アッシュにそう答えると、急に眠気に襲われた。時計を確認すると、11時を過ぎたばかりだった。このままここにいたら寝落ちしてしまう。最近は12時まで起きれたためしがない。僕が時計を見たのに気づいたのか、ショーターが立ち上がった。テーブルの上に広げた本とノートをさっさと片付けだす。

「もう寝るだろ、英二」
「うん…ねむい」
「顔見りゃ分かる」

ショーターの大きな手でガシガシと頭を撫でられた。余計に眠くなる。立ち上がると、足元がふらついた。それをアッシュが支えてくれる。「ありがとー」とアッシュを見上げると、アッシュは僕の肩をしっかりと抱き寄せてくれた。そのまま一緒に寝室へと向かう。何だかふわふわした気分になってきた。
ベッドにぼふっと倒れこむ。布団を蹴りやって、コロコロと転がった。アッシュが呆れたような目をしたが、僕は「ふふふ〜」と笑った。

「なーにしてんだよ、英二」
「かけて」
「あ?」
「あっしゅ、布団、かけて〜」

枕に頭を押しつけて、甘えた声を出す。アッシュは「仕方ねえな」と言いながらも僕に布団をかけてくれた。何だが嬉しくて体がむずむずする。肩まできっちりと布団をかけてくれたアッシュは、僕の顎を掴んで頬っぺたをむにゅむにゅしてきた。

「これで良いかよ、オニイチャン」
「うん、ありがと…」

瞼が重くてしょうがない。もう目を開けていられなかった。閉じる視界の中、アッシュの顔が近づいて来た。そして、唇に柔らかなものが触れる。僕は幸せな気分で夢へと落ちた。






…―体が軽い。
暗闇の中、僕は立っていた。しゃがんで地面に触れてみる。それはほんのり温かかった。僕はその場に寝転んだ。地面に耳をあてると、ドクン、ドクン、と心臓が脈打つような音が聞こえた。とても落ち着く音だ。
心地よさにまどろんでいると、僕の目の前に誰かが歩いてきた。裸足の足は傷だらけだった。視線を上げると、ボロボロの服を着た男の子が立っていた。淡く光る白い肌に、緑色の大きな瞳、それにキラキラと輝く金色の髪。僕は体を起こしてその子を見つめた。よく見ると、男の子は体中傷だらけだった。

「どうしたの?」

僕が聞いても、男の子は何も答えない。緑色の瞳はビー玉みたいだった。とても綺麗なのに、何も映してはいない。僕は立ち上がった。男の子よりも僕の方が少し身長が高かった。僕は男の子にそっと手を伸ばした。叩かれて腫れあがった頬に触れる。

その瞬間、こことは別の場所の映像が見えた。

…―こちらに手を伸ばしてくる男。口に布を詰められているせいで声は出せなかった。ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべた男の目は、残酷な光でギラついていた。怖い。怖くて動けない。うめき声一つ漏らせない。シャツのボタンを引きちぎられる。あらわれた白い素肌を見て、これは僕の体じゃないと気づいた。男は、白い滑らかな肌を舐め、興奮した様子でズボンに手をかけた。…―

ハッとして目を開く。目の前に立つ男の子を改めて見た。さっきのは、この子の『記憶』だ。誰に説明されたわけでもなく、直感で分かった。
僕は男の子をそっと抱きしめた。すると、男の子の体から、光の粒が零れた。それはふわふわと浮き上がり、僕たちの周りを飛ぶ。僕はそれにそっと手を伸ばした。触れた瞬間、残酷な光景が脳裏を駆け巡る。その痛みと恐怖に悲鳴を噛み殺し、僕は男の子の頭を撫でた。

「大丈夫…もう、大丈夫だよ」

男の子の瞳に、光が戻った。








今夜、こちらからコンタクトを取ることにした。

今日も英二はショーターと一緒に日本語の勉強をしていた。日本語を忘れていても、書き方は覚えているらしい。漢字もひらがなもカタカナも、俺たちよりずっと上手く書くことができていた。当たり前の事なのだが、それでも嬉しかった。完全に英二の中から日本の記憶が消えたわけではないのだと、そう思った。

眠る英二にキスをする。見えた『記憶』は他愛ないものだった。納豆は健康に良いとかどうとか、だから食べろと押し付けてくる。そんな光景だ。
俺は立ち上がって、ショーターを振り返った。

「…今から奴にコンタクトを取る。お前は英二と一緒にいてくれ」
「分かった」
「何があってもリビングには入ってくんなよ」
「………分かった」

間が気になったが、ここで念を押しても特に意味はないだろう。寝室を出て、ドアを閉める。ショーターの足止めくらいにはなるだろうと、椅子をドアの前に置いた。
数日間ずっと閉め切られていたカーテンを、一気に開ける。星空は見えない代わりに、眩いばかりの夜景が輝いていた。数秒経っても、奴は撃って来なかった。リビングの照明はつけている。あちらからこっちの姿は丸見えのはずだ。俺は窓の外に向けて手を動かした。スコープで見ているなら読み取れるだろう。

『お前が見ているのは分かっている。さっさと出て来い、ブランカ』

手話でそう伝えると、窓ガラスに穴が空いた。銃弾が、頬のギリギリのところを通り過ぎる。

「アッシュ!?」
「来るな!!」

ドアの向こうにいるショーターに怒鳴り返し、俺は手話を続けた。

『話があるのなら聞く。連絡しろ』

今度は二発続けて撃たれた。窓に穴が増える。フローリングに弾丸がめり込んだ。どれも俺を傷つけることはなかった。
ショーターがドアを蹴り開ける。椅子を置いた意味はほとんどなかった。

「アッシュ!無事か!?」
「馬鹿!!」

ガラスの砕ける音と共に、ショーターが後ろに仰け反った。俺はすぐにリビングの電気を消して、ショーターに駆け寄った。

「ショーター!」
「いってぇ…クソ、肩を掠った」

英二じゃなくても撃たれた。という事はやはり『今回』の人質にショーターも含まれていたのだろう。

「だから来るなって言っただろうが!」
「お前がバンバン撃たれてんのにほっとけるわけねぇだろが!」

怒っているのはこっちだと言うのに、なぜか逆ギレされた。怪我人を殴るわけにもいかない。今は手当てが先だ。
俺がショーターの体を起こすと、寝ていたはずの英二が起きて来た。ショーターの肩から流れる血を見て、大きく目を見開く。

「う、そ…ショーター、撃たれて…」
「英二落ち着け、かすり傷だ」

ショーターが震える英二に手を伸ばす。英二はショーターの手を確かめるように握り返した。

「ごめ…ごめん、僕が撃たれるはずだったのに」
「何馬鹿な事言ってんだよ、これは俺が我慢できなかっただけだって」
「英二、救急箱を持って来てくれ」

俺の言葉に、英二はやっと震えるのを止めた。頷いて、パタパタと駆け出す。俺はショーターをベッドに座らせた。

「僕が撃たれるはずだった、って…んな事ノートに書いてたか?」
「いや、それを書いたら外に出してもらえねぇと思ったんだろ。でも俺は『見た』からな」
「お前な…少しは俺にも共有させろ」
「悪い、今度から気をつける」

素直に謝ると「信用できねぇ〜」と笑われた。



英二がショーターの傷を手当てしている間に、俺のスマホに電話がかかって来た。知らない番号だ。俺はウォークインクローゼットに入って電話を取った。

『やぁ、子猫ちゃん』
「…この、大嘘吐きのクソ野郎が…!」
『久しぶりに聞くな、その悪態。元気そうで何よりだ。それに、随分と気配を読むのが上手くなったな。まるで『最初から』私が来ることを知っていたみたいじゃないか』
「……っ!」

ブランカが英二の『繰り返し』のことや、俺が英二の『記憶』を共有できることを知るわけがない。それなのに、見透かされたような気がして、背筋に冷たいものが走った。

『…ちょっと待て、お前と話をしたいというお方がいる』

ディノにでも代わるのかと思った。しかし、電話に出たのは別の人物だった。

『やぁ、アッシュ。僕が誰だが分かる?』




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