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主の不調は三日ほどで回復したが、大事をとって新たな仲間を呼び出すのはしばらくやめることになった。これに関して狐が苦言を呈することもなく、皆は主に無理をさせぬため極力傷を作らぬようにしていた。
山姥切は出陣する時以外、常に主の傍に控えていた。一度だけだと言っていた添い寝も気づけば習慣と化している。隣の部屋に行こうとするたびに引き留められるので、山姥切の方が主一人で寝かせるのを諦めたのだ。
主の隣で眠ると、毎日ではないがかなりの頻度であの夢を見た。
温かな光に包まれた、主の記憶と思われる優しい夢だ。その中で何度となく主の名が呼ばれたが、山姥切は一文字たりともそれを聞き取ることはできなかった。主の名を知ることがないように何か術でもかけられているのかもしれない。何にせよ自分が知る必要のあることではなかった。
繰り返し見る夢はどれも淡く、おぼろげなものであったが、確かに幸せだった。それゆえに山姥切はずっと気にかかっていたことを主に訊ねてみた。

「――主は、家族のことを覚えているか?」

寝る準備をしているところで声をかけられ、主はぴたりと手を止めて山姥切に目を向ける。何故そんなことを聞くのだろう、と不思議に思っているようだった。

「かぞく?」

「一度も話を聞いたことがないから……家族、は分かるよな?」

概念は理解しているはずだが念のため訊ねると、主はこくりと頷いた。そして記憶を辿るように目を伏せ、しばらくしてから首を横に振った。

「おぼえてない……よくわかんないや」

そう言う主の声は少し沈んでいるように聞こえた。触れてはいけないところに触れてしまったのかとも思ったが、伏せていた目を上げた主は悲しげな顔などしていなかった。ふわりと花咲くように笑って、山姥切の足に手を置く。

「でも、にいちゃんもみんなもいるから、おれ、さみしくないよ」

主の言葉に山姥切は胸がつまるのを感じた。飾ることを知らぬ幼子の言葉はまっすぐ心の奥深くまで届く。大切に思われているという事実が、嬉しかった。

「そう、か……なら、良かった」

山姥切は微笑み、主の頭を優しく撫でる。そしていつものように主を寝かしつけながら自分もその隣に身を横たえた。
――どうして主があの幸せな家族から離れることになったのか、気にならないと言ったら嘘になる。だが、無理に探らない方がいいだろうとも思った。すでに『人形』ではなくなった主が思い出さずにいる過去に、主を苦しめるものが無いとも言いきれない。主が今、幸せならばそれで良かった。





年が明けると、狐から主が七歳になったと知らされた。主が生まれた時代では、子どもは七歳から教育を受けることが義務付けられているのだという。審神者の勤めを果たしている主も例外ではなく、送られてきた教材を使って最低限の教養を身につけさせるようにとのことだ。その話は近侍として常に主の傍に控えている山姥切に持ってこられたが、山姥切一人では無理があるためそれぞれ得意としている分野がある者が担当することになった。
主に勉学をさせるということは、上の者たちはもう主を人形にすることを諦めたのだろうか。まだ疑念は拭えぬものの、良い方向へと向かっているような気がした。
以前から薄々感じてはいたが、主はとても物覚えが良かった。一度教わったことはすぐに吸収し、忘れることがない。だが、じっと机に向かって勉強するのは苦手なようだった。
その日も教師役の歌仙が席を外すなり主は傍にいた山姥切の手を引いて立ち上がった。

「兄ちゃん、外いこう」

「まだ勉強終わってないだろうが」

「だいじょうぶ、歌仙もどってくるから早く!」

山姥切が注意しても主は構わずぐいぐいと手を引っ張ってくる。すぐにでも遊びに行きたいのだろう。歌仙が戻ってきた後のことを考えると少し迷ったが、山姥切は小さく息をついて腰を上げた。何だかんだで主には甘いのだ。

「何して遊ぶんだ?」

「鬼ごっこ。歌仙が鬼」

「……そうか」

それは少し歌仙が不憫な気もしたが、主は歌仙とも遊びたいからそう言っているのだろう。二人が靴に履き替えて外に出たところでちょうど歌仙が戻ってくるのが見え、主は嬉しそうな笑い声を上げながら走り出した。山姥切も主の走る速度に合わせてその隣に並んだ。

「主?! 山姥切まで何してるんだい!」

背後から歌仙の怒声が飛んでくる。この様子だと主の思惑通り彼も鬼ごっこに参加することになるだろう。主はちらりと後ろを見やるとさらに走る速度を上げた。
短刀たちと混じって遊んでいることもあって主の足はなかなかに速かったが、それも幼子にしてはの話である。庭の植木や岩を障害物にして上手く距離を稼ぐも、結局は歌仙に捕まった。山姥切も主と並んで歌仙の説教を食らった。



そうやって勉強の時間を嫌がっていた主だったが、物語を聞くのは好きだった。歌仙は歌物語を話してやると大人しくなる主を見て、勉強の時間が終わったら何か一つ物語を話してやるようになった。その効果は絶大で、主が途中で脱走することはほとんどなくなった。
主の部屋には子ども向けの読本が溢れている。遠征先から土産といって本を買ってくる者も大勢いるため、古典から現代のものまで入り乱れていた。近いうちに書庫を作る必要がありそうだ。主はそれらの読本を短刀たちと読んでは続きの展開を予想する遊びをして楽しんでいた。勉強の時間に短刀たちが混じるのも珍しくはなく、手習いの時はあちこちに墨を跳ねさせては大騒ぎした。
その日は山姥切と主の二人だけで手習いをしていた。主はすでにひらがなとカタカナを覚え、今は簡単な漢字の練習をしているところだった。
主は練習用の半紙に文字を書きつけていたが、ふと手を止めて訊ねた。

「兄ちゃんの名前って、どう書くの?」

手本となる字を書いていた山姥切は別の半紙を出して自分の名前を書いた。山姥切国広……『姥』が少し難しいかもしれない。

「こう書く。主にはまだ難しいかもな」

「んー……いや、書ける」

主は真剣な顔して新しい半紙を前に置き、山姥切が書いた手本と見比べながら筆を持ち直した。そして拙いながらに山姥切国広と書く。半紙の真ん中に書かれたそれは終りがけがやや斜めになっていたが、十分よく書けていた。その隣に『兄ちゃん』と書き足し、主は満足げに頷いた。

「ほら、書けた」

「上手いな」

「へへっ。これ、兄ちゃんにあげる」

照れ臭そうに笑って主は名前の書かれた半紙を差し出してくる。山姥切は皺にならないよう慎重にそれを受け取った。

「ありがとう」

「どういたしまして。……あ、そうだ」

何か思いついたのか、主はまた新しい半紙を引っ張り出していた。山姥切は書き損じと混じらないところに貰った半紙を置き、再び主に視線を戻す。主がそこに書いていたのは、まだ教えていないはずの漢字だった。
不審に思ったのは一瞬で、その文字が何を意味するのかを察した途端に山姥切はさっと血の気が引くのを感じた。主が筆を上げた瞬間にその半紙を奪い取る。突然のことに主は目を丸くして山姥切を見上げた。

「ど、どうした?」

「――……主、これは何だ?」

山姥切の中ではもう答えは出ている。確認の意味を込めて訊ねると主はあっさりと言った。

「おれの名前」

掴んだ半紙がくしゃりと音を立てる。まだ乾ききっていない墨が冷たく手のひらに染み込んだ。
山姥切は異様な喉の渇きを感じながらも、また問いを重ねた。

「俺以外に、自分の名前を教えたか?」

どくり、どくりと心臓が大きく脈打っている。主が答えるまでの間が不自然なほど長く感じた。真剣な目で見つめてくる山姥切に主は困惑しているようだったが、小さく首を横に振った。

「ううん。だって、今思い出したから」

「思い出した……?」

「うん。兄ちゃんによんでほしかった」

それは何の罪もない些細な願い事。だが、いくら望まれても山姥切にはできないことでもあった。
山姥切は主の名前が書かれた半紙をかくしの中に入れ、じっと主の瞳を見据えた。

「いいか、自分の名は誰にも言ってはいけないし、書いてもいけない」

「……なんで?」

聞き返してきた主はどこか悲しげな顔をしている。せっかく自分の名前を思い出したというのに誰にも呼んでもらえないことが辛いのだろう。主の気持ちは痛いほど伝わってきたが、その願いだけは聞き届けるわけにはいかなかった。

「お前が審神者だからだ」

それだけ言うと主はさらに疑問を重ねることなく目を伏せた。家族に関する記憶は相変わらず思い出せずにいるようだが、常識的な知識は戻ってきたこともあって審神者の特殊性は理解しているのだ。幼子ゆえにその本質を感じ取っていると言うべきか……こういう時の主は悲しくなるほど聞き分けが良かった。

「…主」

山姥切が呼びかけると主はゆるゆると目を上げる。緩く癖のついた髪を優しく撫でながら山姥切は微笑んだ。

「主の名を知っているのは俺だけ――二人だけの秘密だ」

そう言って唇の前に人差し指を立ててみせる。主は『秘密』という言葉の響きが気に入ったのかぱっと表情を明るくして頷いた。

「うん! おれたちだけの、秘密」

くすくすと笑い、山姥切の真似をして人差し指を立てる。そんな主が愛らしくて、ふわふわとした髪をくしゃくしゃにしてしまった。


――仲間たちのことは信頼している。大切だとも思っている。けれど、彼らに主の名を知られてしまうのは良くないだろうと思った。
その存在を縛る力を持つ名を、主の名を自分だけが知っている。
山姥切はそれに仄暗い喜びを覚えていた。





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