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主が初めて声を出してから言葉を話すようになるまでは早かった。まだ意味の通る文章を作ることはできないが、単語を繋いで会話できるようになったのだ。主の見た目は六、七歳ほどで、年齢の割には言葉が遅れているのだろうが、一言も話せなかったことを思えば目覚ましい成長であった。

「にいちゃ、にいちゃ!」

主は山姥切の足にぎゅっと抱きつき、揺れる布を握り締めた。山姥切の被っている布だが、主が触るからという理由で毎日洗い替えることを義務付けられている。輝くばかりに白い布で遊ぶ主は楽しそうに笑っていた。

「どうした、主」

このまま歩けば主を蹴飛ばしかねないので、一度立ち止まってしゃがみ込む。主と目を合わせるも、主は謎の声を上げて笑うばかりで答えは返ってこなかった。おそらくただ山姥切に構ってほしいだけなのだろう。
山姥切は布に巻きついている主を捕まえて抱き上げた。主は暴れることもなくぴったりとくっついてくる。そして歌うように「にいちゃ、にいちゃ」と山姥切を呼んだ。小さな声が耳をくすぐるのを感じて、山姥切はふと訊ねてみた。

「主、俺の名は分かるか?」

主は他の四人のことは名前で呼んでいた。山姥切のことだけを兄と呼んでいるのだ。特別な感じがして悪くはない、というよりもむしろ嬉しいのだが、これで自分の名前だけ知らないと言われたら寂しいものがある。あまり期待せぬように主からの反応を待っていると、主は山姥切の頬に手のひらを当てて言った。

「やまんばぎりくにひろ!」

舌足らずな発音で山姥が「やまうま」に聞こえたが、それは確かに自分の名前だった。
胸の奥が温かくなって口もとに自然と微笑みが浮かぶ。山姥切がその表情を見せるのは主の前だけだった。主がやっているのと同じように山姥切も主の柔らかな頬に手を当てる。

「そうだ。よく言えたな」

山姥切が褒めると主は嬉しそうに笑った。




例の薬の中身はいまだにすり替え続けていた。狐に気づかれないようにはしているが、主の様子は激変している。事態を察した狐が何かしかけてくるのではないかと皆は警戒していたが、予想に反して狐が行動を起こす様子はなかった。ただ黙して観察し続けている。分かっているだろうに動きがないのも不気味だった。
出陣中に加州が言った。

「もう面倒だからあの狐殺しちゃっていいんじゃないの?」

加州は主が置かれている状況を知るなり狐を殺そうとして皆に止められていた。主を護るにしてもまだ強さが足りていないことを自覚していたのでどうにか説得できたのだが、何を企んでいるか分からない狐にまた焦りを感じているらしい。
加州の言葉に一期は苦い表情で首を振った。

「それは駄目ですよ、加州殿。我々がお上にとって不利益な存在とみなされたら、刀解処分もあり得るかもしれません」

「えー……でも、主にずっと薬飲むフリさせるのもどうなんだよ」

加州が不満に思っていることは山姥切もよく分かっていた。中身をすり替えているとはいえ、あのおぞましい薬を飲むフリをさせるのは嫌だ。主も何となく察しているのか嫌がりもせずに飲むものだから、ますます気が重くなった。
山姥切は遠くに見える敵の姿を見据えて言った。

「奴らが手を出せなくなるくらい、俺たちが強くなればいい」

主を護るために、その上にいる者たちの思い通りに動いてやる。だが、主を傀儡にすることだけは許さない。
反抗しても刀解処分にするのは惜しいと思わせるくらいに力をつければ、主を救い出せると思った。目的さえ果たせれば奴らも下手なことはしないだろう。

「あー、結局はそうなるか」

「では、手始めに眼前の敵を片付けていきましょうか」

優しげな顔立ちをしている一期も本体を手に取れば瞳に鋭い闘気を宿す。二人よりも経験のある山姥切が先陣を切り、三人は敵に向かって走り出した。




勝利をおさめて帰還すると、燭台切に手を引かれた主が出迎えてくれた。

「にいちゃ、きよみちゅ、いちご!」

主はそれぞれを呼んで燭台切の手を離し、とてとてと走ってくる。今にも転びそうな走り方にじっとしていられなくなるのは加州で、主がこちらに辿り着く前に走り寄って頭をぐりぐりと撫でた。

「ただいま主! 俺頑張ったよ〜」

「きよみちゅ、がんばった?」

「うん! 褒めて褒めて!」

加州は主の前にしゃがみ込んで目を輝かせている。主は小さく首を傾げていたが、すぐに思い当ったのかにこにこと笑って加州の頭に手を置いた。そしてぽすぽすと撫でてやる。その撫で方は山姥切が主にいつもしてやっているのと同じだった。加州の髪はぐちゃぐちゃになっていたが、幸せそうな顔で花を咲かせている。燭台切と一期はその様子を微笑ましそうに見守っていた。
ひとしきり撫でたところで主は山姥切に顔を向けた。加州から離れてまた覚束ない足取りで駆け寄ってくる。山姥切は主が自分のところに来るまでじっと待っていた。

「にいちゃ! う!」

足下までやって来た主は満面の笑みで山姥切に両手を伸ばしてくる。何を求めているのかは明らかで山姥切はすぐにその体を抱き上げてやった。

「また山姥切が抱っこしてる……ずるい……」

「加州殿は褒めてもらったでしょう」

加州が羨ましがっているのが聞こえたが、山姥切は気にせず主と目を合わせた。

「今日は誰が来たんだ?」

鍛刀で呼び出した仲間のことを訊ねると主は少し間を置いてから答える。

「たろうたち、いわとおし」

おそらくはまだ一度しか聞いていないであろう名前も間違えることなく言える。言葉は遅れていても頭の出来は悪くないのだ。山姥切は主の頭を軽く撫でてやった。

「そうか。今日もよく頑張ったな」

「がんばった!」

山姥切に褒められると嬉しくなって、主は返り血がついているのにも構わず山姥切にぎゅっと抱きついた。真っ白な直衣が汚れるのを見て燭台切が呻いていたが、止めようとはしない。主が望んでいることだと皆分かっているのだ。
まだ不安なことは残っているが、こうして傍にいられるのが幸せだった。



――政府の式神である狐が行動を起こしたのは、その二日後のことであった。





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