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茶色がかった黒の巻き毛に大きな栗色の瞳、ぷっくりとした柔らかな頬は健康的に赤く色づいている。客観的に見て可愛らしい容貌を持つ幼い主であったが、全く感情の無いその表情が不気味でもあった。
刀である自身よりもよほど『物』めいている、と山姥切は思った。
案内役の狐がその場を辞すると、薄暗い座敷に沈黙が漂う。山姥切は主の正面に座したままじっとその様子を窺っていた。が、しばらく観察していても主が動き出すことはない。短い両足を伸ばした状態で座り、ぼんやりと虚空を見つめている。正面にいる山姥切のことなどまるで見えていないかのようだった。
どれほど沈黙が続いただろうか。いい加減この部屋から出て行こうかと思った時、主の方からくぅ、と子犬の鳴き声のような音がした。一瞬何の音か分からなかったが、主が腹のあたりに手を当てているのを見て理解した。

「腹が減ったのか」

随分と長く続いた沈黙を破って声をかける。それに主はゆるりと山姥切に視線を向けた。言葉を解しているかどうかまでは分からないが、耳は聞こえているらしい。温度の無い瞳に見つめられるとどうにも居心地が悪く、山姥切は被っていた布を更に引き下ろした。
この様子だと食事の世話も焼いてやらねばならないのだろうが、山姥切には勝手がよく分からなかった。人間の身となってから数時間ほどしか経っていないのだからそれも仕方のないことだろう。とりあえずその場から立ち上がったところで、別の場所に行っていた狐が戻ってきた。

「あぁ、そろそろ食事時でございますね。厨はこちらです」

狐は付いて来るようにと軽く頭を振って再び廊下へと出る。山姥切はその後に続こうとしたが、主が立ち上がろうとしないのを見て足を止めた。

「……行くぞ」

促してみるも、やはり主は動かない。小さく鳴る腹に手を当てたまま座り込んでいる。
山姥切は深いため息をつき、主のもとへ歩み寄った。こちらを見上げてくる主に眉を寄せながらも小さな体を抱き上げる。右腕の上に座らせるようにして体を固定すると、主は目の前でひらひらと揺れる白い布をぎゅっと握り締めた。…全てに対して無関心というわけではないらしい。

「あまり引っ張るな」

言ったところで通じはしないのだろうが、短く諌めてから山姥切は狐の後を追った。



食事の準備は袋に入れられていた粥状のものを温めるだけで事足りた。他の刀剣が増えるまでは支給された食事をとるようにと言われたが、粥らしきそれは特に美味くも不味くもなかった。ただ腹にたまり、養分となるだけのものといった感じだ。
山姥切が主にそれを出してやると、主はぎこちない動きで匙を取って食べ始めた。食事をしている時も表情はなく、時おり匙の中身をこぼしては口のまわりを汚した。そして三分の一も食べないうちに匙を置いてしまった。

「多すぎたのか?」

山姥切は主ではなく隣にいた狐に訊ねる。指示された通りの分量を出したのだが、主が食べきった量は明らかに少なかった。

「いえ、そのようなことは……おそらく単に飽きてしまっただけかと思われます。お手伝いすれば召し上がっていただけるかと」

「はぁ……俺は子守りをしに来たわけじゃない」

「はい、誠に申し訳ございませぬ…」

しゅん、と項垂れる狐から目を逸らし、山姥切は仕方なく主の隣へと移動した。椀に差し込んだまま放置されている匙を取り、よそを向いていた主の顔を正面に向き直らせる。温くなった粥を軽くすくい取ってその口もとへ差し出すと、主は思いの外素直に口を開けた。山姥切は慣れぬ手つきで食べさせ、また小さく息をつく。

「何か拭くものを持ってきてくれ」

「分かりました」

狐はふわりと尻尾を揺らして駆け出していった。狐は狐なりに精一杯役に立とうとしているようだ。
幼子に食事をさせるのはかなり骨の折れる作業だったが、山姥切は黙々とこなした。
時間をかけて完食させた後、狐は食糧とは別にされていた荷物から透明の小瓶を持って来た。山姥切の親指ほどの大きさしかない、小さなものだ。山姥切が主の口まわりを拭いてやっているところに、狐はその小瓶を差し出した。

「食後にはこの薬をお召し下さい」

「薬……? こいつは病気なのか?」

改めて主を見下ろすも、身体的には特に問題ないように見えた。むしろ問題があるのは精神の方ではないだろうか。不気味なほど無表情なのも、口が利けないのも、心の病によるものだと言われればまだ納得できる。
その問いに狐は小さく首を傾げて答えた。

「私も詳しいことは存じませぬが、毎食後にこの薬を飲むようにとの指示が出ております」

「何の薬なんだ?」

「存じませぬ。必要不可欠なものとされております」

狐の答えに山姥切は眉をひそめる。主の命にかかわることを伏せるとは、どういう考えなのか……今の時点では何とも言えない。ただ拭いきれぬ不信感があった。
薬の入った小瓶を取って蓋を開け、注意深く匂いを嗅いでみる。無色透明のそれからは何の匂いもしなかった。ただの水と言われればそう信じてしまうだろう。少し指に乗せて舐めてみたが、薬らしい味は全くしない。あまりにも無個性すぎるというのも疑念をより強めた。薬を観察する山姥切に狐は安心させるよう声をかける。

「政府が審神者に危害を加えることはありませぬよ。そう疑わずとも大丈夫でございます」

そう言われても山姥切の中にある疑念は晴れなかったが、一応頷いておいた。少なくとも毒ではないはずだ。
小瓶を主の口もとへ添えてやると、主は従順に中身を飲み干す。そしてしばらくもしないうちに小さな体が山姥切へと寄りかかってきた。もしや眠ってしまったのかと思って主の顔を覗き込めば、先ほどよりも更にぼんやりとした瞳が見えた。
眠ってはいない。が、主の体からは完全に力が抜けてしまっていた。山姥切が不用意に動けば簡単に倒れ伏してしまうだろう。虚ろな瞳に映り込んだ自分の顔が、ひどく頼りないものに見えた。

「主様はお疲れのようですね。ご寝所までお連れしましょうか」

狐はこともなげに言って案内に立つ。その言葉に裏があるようにも思えなかったが、今の状況が山姥切には不自然なものに思えて仕方がなかった。自分の身には何の影響も無かった薬が本当に害の無いものだったのか、虚ろさの増した主の姿を見ると信じきれなくなる。何よりも疑わしいのは、あの狐を含んだ上の者たちの考えていることだ。
動き出す様子のない山姥切に狐は怪訝そうに話しかけた。

「どうかなさいましたか?」

「……いや、何でもない」

問うたところでこの狐からは何の情報も引き出せはしないだろう。それは先ほどのやり取りで分かっている。山姥切は脱力しきった主を胸に抱えて立ち上がった。何にせよ主を早く休ませなければならない。
狐の案内に続いて寝所へ向かい、直衣から単衣に着替えさせてやった。その間も主は目を開けているだけでぐったりとしており、高めの体温が無ければ死体の世話をしているのかと思うほどだった。その身を柔らかな布団に寝せてやり、軽い掛け布を被せる。完全に寝る体勢になっても目を閉じない主に、山姥切は小さな声で言った。

「早く寝ろ。体に障る」

顔を撫でるようにして目蓋を閉じさせると、主は深く息をついた。あの虚ろな瞳が隠れてしまえば少しはまともに見える。規則的な呼吸が寝息へと変化するのにそう時間はかからなかった。
狐も山姥切の傍でその様子を見届け、主に聞こえぬよう小声で挨拶をした。

「では、私はこれで。山姥切国広様もお早めにお休みください」

「あぁ」

休むつもりなど毛頭なかったが適当に返事をしておく。狐が去ると山姥切は刀を抱えて主の傍に座り直した。この場所が危険だと思っているわけではないが……主を一人にしておくのは危ういように思えたのだ。
行燈の明かりだけで照らされた室内にカチカチと時計の音が鳴る。主は寝返りを打つこともなく大人しく布団の中に収まっていた。かすかに聞こえてくる寝息と上下する薄い胸が、確かに生きていることを証明していた。




東の空が薄らと白みはじめる頃、眠る主を見守っていた山姥切はそっと動き出した。今日はあの狐がこちらに来る前に行動した方がいいと思ったのだ。もちろん主を一人にするわけにはいかないので、控え目に小さな肩を揺らした。

「朝だ、起きろ」

まだ起きるには早すぎる時間だが、日が昇る頃にはまたあの狐がやって来るだろう。山姥切が声をかけると主はむずがるように寝返りをうった。その動きだけ見ていると普通の幼子のようにも思える。よく眠っているところを無理に起こすのは気が咎めるも、そのまま主を放置していくことはできなかった。
山姥切は小さくため息をつき、上にかけている布団ごと主を抱き上げる。体を持ち上げられても主はすやすやと眠り続けていた。魘されている様子もなく、穏やかなものだ。そのまま主を連れて山姥切は厨へと向かった。
狐の気配がないことを確認してから、昨日主に飲ませた薬を取り出す。この薬が主には欠かせないものだと狐は言っていたが、そのことが山姥切にはどうにも信用ならなかった。主の様子がさらに人形じみたものになったのはこの薬を口にしてからだ。山姥切はしばし考えた後、小瓶の中身を流しへと出した。見た目は水と変わらぬそれがさらさらと流れていく。空になった小瓶をよくすすぎ、はじめに入っていた量と同じ分だけの水を入れた。
蓋をしてしまえば見た目は何も変わらない。中身を入れ替えたそれを傍に置き、山姥切は昨日と同じように主の食事を用意し始めた。
準備が終わる頃になって、傍で寝かせていた主がもぞりと身を起こす。まだ眠たげに目を擦りながら主はぼんやりと山姥切を見上げた。その瞳はやはり生気に欠けている。

「やっと起きたか。朝飯だ」

山姥切は粥と小瓶を乗せた盆を片手に持ち、隣の間へ行くよう主に示した。が、主はこちらを見上げるばかりで動こうとしない。仕方がないので空いている左腕で主を抱き上げ、僅かに開いている襖を足で開けて進んだ。
そこにはあの狐が前足を揃えて座っていた。

「おはようございます、主様に山姥切国広様」

挨拶をして丁寧に頭を下げてくる。その態度だけ見ていれば狐に敵意など無いことは分かるのだが、山姥切の胸中にある疑念は晴れなかった。盆の上にある小瓶をちらりと見やってから座卓へと置く。

「今日は何をさせるつもりなんだ」

指示を出すことができない主の代わりに訊ねると、狐は淡々と言った。

「本日は新たな刀剣を二振り鍛刀していただき、刀装を作っていただいた後に山姥切国広様には出陣していただきたいと思います」

それに山姥切は少しだけ視線を向けたが、すぐに主へと戻した。自分で動く気の全くない主を膝の上に座らせ、無駄かもしれないと思いつつもその右手に匙を持たせる。

「俺が出陣している間の世話は新しく来たやつに任せればいいんだな」

「はい。私もお手伝いしますのでご安心ください」

狐の言葉には全く安心できなかったが、主が降ろした刀剣たちならば信用はできるだろう。彼らもおそらくこの違和感にすぐ気付くはずだ。
その一方で主は右手に持たされた匙をまじまじと眺め、すぐに盆の上へと投げてしまった。やはり山姥切が食べさせてやらないといけないらしい。面倒だとは思ったが昨日と同じように食べさせてやった。自分で匙を持つことはないが、山姥切が口もとまで運んでやれば素直に口を開く。動きが不自然なところはあったが雛鳥のように見えなくもなかった。
時間をかけて食事を終わらせると、次はあの小瓶だ。

「お薬をお忘れなきように」

山姥切が小瓶に手を伸ばす前に狐が忠告してくる。一食たりとも薬の摂取を欠かせないように指示されているらしかった。狐はじっと小瓶を見つめていたが、その中身を疑っている様子はなかった。見た目でも味でも区別がつかないのだから当然だろう。
山姥切は平然とそれを手に取り、一度開けた蓋を再度開ける。主の口もとまで運ぶと主は少しだけ顔を横に逸らした。

「……飲め」

主が抵抗らしき仕草を見せたことに引っかかりを覚えつつも、飲み口を唇に押し当てる。そこまでやると主も大人しく小瓶の中身を飲み干した。と言っても中身はただの水だ。飲み干した後に主の様子が変わることはなく、むしろ目覚めた時よりも幾分か意識がはっきりとしているようだった。瞳はまだ虚ろだが、焦点が定まっているように見える。

「では、お召し変えをしてから鍛刀いたしましょう」

狐の声に山姥切は頷きを返し、盆を持ってその場から離れる。主は座ったままじっとしており、狐はその傍についていた。こちらの様子には気づいていない。
山姥切は食器を流しに置くと、次の食事時に飲む薬を取った。狐がこちらに気づく前に手早くその中身を入れ替える。
今から次の食事までに主の体に異変があれば薬を飲ませるしかないだろうが、もし違う結果になったのならば――この薬は主に害をなしている、ということになる。まだ箱の中にたくさん詰まっている薬を横目に食器を片付け、中身を入れ替えた小瓶だけを盆の上に置いてから再び部屋へと戻った。



鍛刀で新たにやってきたのは短刀である薬研藤四郎と太刀の燭台切光忠だった。二人とも主となる人間がまだ幼い子どもであることには驚いていたが、そういうものなのだろうと受け入れていた。不審な点が残ろうとも主が主であることに変わりはない。
その後の刀装作りも主は難なくやってのけた。表情もなく口も利かない不気味な子どもではあるが、狐が言っていた通り審神者としての力は飛び抜けていた。薬研と燭台切に褒められても、主はやはり無表情のままだった。
そして予定通りに出陣することになったのだが、その時になってようやく主に動きがあった。
出陣に向かおうとした山姥切の布をぎゅっと握り締めたのだ。後ろから引っ張られる形になって布が脱げそうになったが、すんでのところで押さえて振り返る。

「……何だ」

訊ねたところで返事はない。主は薄汚れた布を握り締めた状態で目を伏せていた。何か言いたげな様子に見えないこともないが、主は口が利けない。表情から察しようにも無表情なため、山姥切には打てる手がなかった。
それに燭台切も不思議そうな顔をして主を覗き込む。

「どうかしたのかな?」

「旦那方が出かけるから寂しいのかもしれねぇな」

薬研がそんなことを言ったが、山姥切にはそう思えなかった。そもそも寂しい、なんて感情をこの幼子が持っているのだろうか。持っていたとしても、そんな感情が自分に向けられるわけがないと思っていた。

「布が気になるだけだろう。ほら、離せ」

薬研の言葉を否定して主の手から布を外させる。すると主は顔を上げて山姥切を見た。大きな瞳に自身の顔が映り込んでいる。その瞳が何かを問いかけているような気もしたが、再び布へと手が伸ばされるのを見てさっと身をかわした。




主のことを薬研に任せ、燭台切とともに出陣する。初めての戦場で出会った敵は恐ろしく強いわけではなかったが、まだ慣れない人の身で相手にするのは難しかった。結果として二人とも軽傷を負い、戻ってから主の手入れを受けることになった。
食事も着替えも、生活することに関してはほとんど何もできない主であったが、鍛刀や刀装作り、手入れなどといった刀剣に関することだけは簡単にやってのけた。まるでそうするためだけに存在しているかのように、淡々と作業をこなしていた。
主の力で体は癒されても、何とも言い難い思いが残った。審神者とは皆こういうものなのだろうか。他を知らないので比べようもないが、他の二人も似たような違和感を覚えているようだった。
粥のような食事に難色を示したのは燭台切で、次からは彼が食事を作ることになった。山姥切は食事の方にも疑念を抱いていたのでそれを聞いて少しだけ安心した。薬を飲ませる時になって燭台切たちも山姥切と同じように狐に質問していたが、狐がはっきりとした答えを返すことはなかった。上から指示されているだけで狐自身は知らないのだろう。
今に至るまで主の様子を観察していたが、主が体調を崩した様子はない。それより幾分か人形らしさが抜けているようにさえ感じた。粥を半分以上自分の手で食べたところもそうだ。山姥切が小瓶を口もとへ持っていくと、主は小さく首を振った。

「……嫌なのか?」

それは主が初めて見せた意思だった。
山姥切が訊ねると、頷きはしないものの小瓶から懸命に顔を逸らしている。この反応からして主が薬を飲むという行為を嫌っているのは明らかだった。

「でも、飲まなきゃダメなんだろう?」

燭台切は心配そうに言い、薬研も小さく苦笑していた。

「ちょっとだけ頑張れねぇか、大将」

二人とも薬に対して多少の疑念はあるものの、主にとって必要不可欠と聞いているので飲むように勧めてくる。山姥切としては飲みたくないのであれば飲まなければいいと思っていたが、どうせ中身はただの水だ。狐の手前ちゃんと飲ませた方がいいだろうと判断した。
逸らしている顔を片手でこちらに戻し、正面から主の瞳を見つめる。

「大丈夫だから、飲め」

主は大きな瞳で探るように山姥切の目を見つめ、しばらくしてから小さく口を開いた。飲ませろということらしい。小瓶の飲み口を当てると素直に中身を飲み干した。

「よく飲めたね、えらいえらい」

燭台切はにっこりと笑って主を褒めている。右目に眼帯をつけたその姿はいかにもとっつきにくそうに見えたが、山姥切よりもずっと子どもの扱いがうまかった。薬研にしてもそうだ。主の世話はもうこの二人に任せてしまってもいいのではないかとも思ったが、主はいつの間にか小さな手で山姥切の布を握り締めていた。





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