15 * 賭けだった。 死ぬかもしれない。 しかし、見られるわけにはいかない。 絶対に、知られてはならない。 白い泡が舞う。 私は海に落ちてもなお、人間の口を塞いでいた。 体が熱い。 冷たい海水が心地よく思えた。 人間の舌が動かなくなる。 見ると、人間は目を瞑っていた。 唇を離すと人間の口から一気に気泡が漏れる。 どうやらコイツは泳げないらしい。 私に燃やされた時、海から引き上げられた人間は大量の水を吐いていた。 それで、もしやと思い賭けに出たのだ。 私は全力を込めて、手足の鎖を引き千切った。 まだ今なら、この輪をはめたままでも泳げる。 とにかく今はこの船から離れることが先決だった。 それから岩にでもぶつけて輪を壊せば良い。 枷さえ外せれば、一晩くらいなら泳ぎ続けられるだろう。 人間から手を離す。 もう意識を失ってしまったらしい。 人間の体はどんどんと沈んでいった。 赤い髪がゆらゆらと揺れる。 ―…このまま溺死するかもしれない。 私の手で殺せないのは心残りだが、今はそうも言っていられなかった。 重い鉄の輪をつけたまま、私は泳いだ。 後ろから追っ手が来る気配はない。 あの人間の救出で手一杯なのだろう。 私は一度だけ振り返った。 もう人間の姿は見えない。 それからは、ただ、息の続く限り泳ぎ続けた。 * 海に落ちたキッドをキラーと船員達はどうにか引き上げた。 しかし青年を見つけることは出来なかった。 常識的に考えると、あの手枷と足枷を着けたまま泳ぐのは不可能だ。 「船を旋回させろ」 「諦めろキッド。あれはもう死んでいる」 意識を取り戻したキッドは開口一番にそう言った。 キラーはそれを即座に却下した。 「あの枷をつけたまま泳げるわけがない」 「アイツなら出来る」 「…航路を外れる気か」 「物資には余裕あんだろ。島に着く予定が延びても問題ねぇはずだ」 キッドは立ち上がり、うっと小さく呻いた。 まだ治っていない背中の火傷が、塩水で痛んだようだ。 キラーは黙ってその背中を見つめていた。 青年はどうにか海面に顔を出した。 さっきから鉄の輪を外そうとしているのだが、どうも上手くいかない。 段々と体力もなくなってきて、泳ぐのが精一杯になってきた。 回りを見ても、陸地はない。 太陽はだいぶ西に傾いていた。 時間の経過と共に、青年の角の色が薄くなる。 今やその色は深紅からは程遠い、薄紅色だった。 褐色の肌も段々と白くなる。 もう時間は残されていなかった。 海中に潜り、ガンガンと鉄の輪を岩に叩きつける。 水の中にいるせいで、威力は半減だ。 外れる気配はない。 息の長さも次第に短くなってきた。 最初は10分近く海中に潜っていられたが、もう5分も経つと苦しい。 泳いで海面に顔を出す。 太陽が赤い。 空には一番星が出ていた。 陸地はないのか、と辺りを見回す。 すると、海面から僅かに突き出ている岩を発見した。 沈む重い手足に力を入れ、青年はその岩を目指して必死に泳いだ。 黒い岩に手を伸ばす。 どうにかそれに掴まると、青年は一気に脱力した。 西を見ると太陽はもうほとんど海に沈んでいた。 藍色の空が迫る。 青年の頭に、もう角はなかった。 どくり、と心臓が高鳴る。 血がざわめき、青年の髪と肌の色が変わった。 透き通った銀髪が、漆黒に変わり、褐色の肌は雪のような色白になる。 赤い瞳は深い茶色に変わっていた。 尖った耳は丸まり、鋭い牙も普通の歯に変わる。 青年は深く息をついた。 「…危なかった……」 ぐったりと岩に体を預けたその姿は、どこから見ても…人間だった。 もう手足を動かすだけの力はないらしく、青年はチラリと空を見上げた。 闇の中に輝く三日月を忌々しげに見つめる。 満月から欠ける三日月の夜、青年は完全に人間になってしまうのだ。 人間になると、身体能力は格段に下がる。 完全に人間に成り下がった半妖など、妖怪にとって格好の餌食だった。 それ故、青年に限らず全ての半妖は、己が人間になってしまう日を絶対の秘密にしている。 人間になった姿は決してさらさない。 誰かに見られれば、それは死と同義であるからだ。 ずる、と青年の手が滑る。 波に揺られ、冷たい水に体温を奪われ、青年の体はガタガタ震えていた。 何としても朝日が昇るまで耐え抜かなければならない。その思いだけで、青年は岩に掴まっていた。 * どれくらいの時間が経ったのだろうか。 私は疲労と寒さに震えながらも空を見上げた。 星も月もほとんど動いていない。 まだ半刻ほどしか経っていないようだ。 時間の経過の遅さに、目の前がじわりと暗くなる。 私は歯を噛み締めてそれに耐えた。 一晩耐えれば何とでもなる。 あとは陸地を探して泳げば良いのだ。 きっと、時間をかければ枷を外すことも出来るだろう。 己の白い手が視界に入る。 それは弱々しく見えた。 こんな姿のまま海の真ん中にいると思うと、心許なくてざわざわする。 三日月の晩はいつも落ち着かないが、今夜はその比ではなかった。 恐い。恐くて、仕方がない。 ざぶっと波が顔にかかる。 私は岩から離れぬよう、しがみついた。 息が苦しい。 か弱い人間の体に嫌悪感が込み上げた。 早く夜が明ければ良い。 朝日が待ち遠しかった。 「はぁ、はぁっ‥ごほっ!」 肩が大きく上下する。 荒くなる呼吸を落ち着けようにも、波の動きに翻弄されて敵わない。 ふと、顔を上げた。 暗い海の上に何かが光っている。 視力も下がってしまっているため、それが何かは分からない。 その光は何かを探すように動いていた。 段々と近づいてくるそれに、私は背筋が凍るのを感じた。 ―…船だ。 それは、あの人間の船だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |