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 目を開けて時計を見ると、どうやら一時間ほど眠ってしまったようだった。制服の皴を伸ばしクローゼットにしまうと、俺は1人で食堂に向かう。
 長谷部は教室以外では俺に接触してこなかった。放課後はいつの間にか教室から消えていて、寮では一度も会ったことがない。少し不思議に思ったが、俺はそれを素直に喜んでいた。ずっと同じ人間のことばかり考えているなんて初めての経験であったし、この時の俺は酷く臆病になっていたのだ。
 それにどうせ教室ではいつもうるさく話しかけてくるのだから、それで充分だろうと思った。

 翌日、やはり長谷部はいつも通り俺に話しかけてきた。

「ね〜蓮見〜今日の数学当たるの、ここ教えて!」

「…………」

 俺は無視を決め込んだ。遅刻して授業をサボったこいつが悪い。

「あー数学ってなんでこんなキチキチしてるんだろね。もっとこうアバウトにさ〜」

 それでも長谷部は喋るのを止めない。その声が背中に当たって消えるのを、俺はずっと耳で拾っていた。

「……正解」

 紺屋教諭が不機嫌そうに呟いた。長谷部はニンマリ笑ってセーフと叫ぶ。

「お前、誰かに答え教えてもらってないだろうな?」

「んふふ、それはヒミツ〜」

 テキストの応用問題を見事に解いた長谷部は、指についたチョークの粉を叩き落しながら、悠々と席に戻る。どうやらこいつは数学が得意のようで、紺屋の授業に出ない割に、よく問題を解いていた。もしかしたら、こっそり宿題を教えてくれる友人がいるのかもしれないが、俺の知ったことではない。

 数学が今日の最後の授業だった。俺は部活に向かおうと席を立つ。

「蓮見、ねぇ、ちょっと良い?」

 来た。俺は後ろの席に座る長谷部を一瞥する。奴は俺の方を見てはいなかった。椅子に背を凭れさせ、長い前髪で目元を隠し、指に嵌めたリングを弄んでいる。

「あのさぁ、こーんな時間にあれなんだけど」

 長谷部が1つ溜息を吐いた。

「やっぱりさぁ、初めてってのは大切にした方が良いよね」

 ……何が?
 意味が分からず眉を寄せる俺に、長谷部はん〜と苦悶したように顔を上げた。

「だからね〜蓮見ってそういうの気にする? やっぱり処女が良い?」

 やってられない……。
 俺はウンザリした。こんな話題をするほど俺達に親密な人間関係は構築されていない。不躾な行為に嫌悪があるし、何より何故今その話題を出したのか、困惑が強かった。

「ああ〜待ってよ〜」

 さっさと立ち去ろうとすると手を掴まれる。もう一度そちらを見ると、意外と真剣な顔をした長谷部と目が合った。それに少し心が揺れた。自分でもよく分からなかったが。

「やっぱり、そういうとこ真面目な子が好き?」

 気のせいだとは思うが、長谷部の声が震えているような気がする。だからか、俺は珍しく奴のこの下らない問いに真面目に答えていた。

「好きな奴だったらな。だが他の人間の考えにまで口出しするつもりはない」

 その時俺は、長谷部には好きな女がいて、その人間のことで悩んでいるのだと思ったのだ。相手がどんな人間かなんて知らないが、なんとなく、長谷部が本気で悩んでいるように見えた。得体の知れなかったこの男の素を垣間見たような気がして、俺は少し心が軽くなったのかもしれない。

「うん、好きな人ならやっぱりそうだよね。じゃあさ、どうでも良い人間が何してても、蓮見は気にしない?」

「そもそも興味はない。お前の勝手にしろ」

「……そっか」

 長谷部は俺の手を離して、アリガトと言って笑った。俺はもう終わった話題に興味を無くし、すぐに教室を出て部活に向かう。残された長谷部が、何を考えていたかなんて全く思いつきもしなかった。



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