11
◇
アーベルは自分の家が好きではなかった。男爵の地位は金で買い、その金も額に汗して稼いだものでは決してない。父との間に会話はなく、彼はただアーベルを立派な騎士にすることだけを望んでいるような男だった。
久しぶりに家に帰ったアーベルを出迎えたのは、父の探るような視線と迎合の笑み。王子の様子を聞かれた時は不快感に腹が重くなった。この男はアーベルが第3王子の近衛騎士であることを利用し、王族に取り入ろうとしているのだ。
吐き気がしたが、アーベルは何も言わなかった。適当にあしらって、早く用事を済ませたい。
「すみません、少し公務が忙しく……もう休んでもよろしいでしょうか」
「うむ、そうだな。ゆっくりしていけ」
親子でありながら、アーベルはまるで従者のように父に傅く。父親はその黒髪に手をやり、目を細めた。
「益々母親に似てきたな。のう、アーベル?」
ゾワリ……鳥肌に寒気まで加わって、アーベルの機嫌は急降下だ。逃げるように体を引き、愛想笑いを浮かべ退室する。
あの男のねちっこい視線が大嫌いだ。だから、帰ってきたくなかったのに。
一日だけしかない休暇を使い、わざわざ城下に下りたのには訳がある。
自室の部屋に滑り込み、ベッドを横にずらす。真下にある床板を外すと、中から出てきたのは鍵付きの箱だ。
「マラヤ……」
秘密の呪文で、鍵は容易に外れた。
中を開くと、古い写真が数枚。一番奥にあるロザリオを、丁寧に取り出した。
「ただいま戻りました、母上……」
首にかけてそっと呟くと、真っ赤な宝石がぼうっと光った気がする。箱に入っていた写真を取り出して、そこに映る女性に笑いかけた。黒く長い髪、柔らかな微笑み。彼女はとても美しかった。それが幸運と禍、どちらを多く呼び寄せたかは分からない。彼女は望まない結婚をし、若くして病にかかり死んでしまった。
「その方が、幸せだったのだろうか」
死んでしまった方が幸せ……そんなこと、ありはしない。そう思うが、もしかしたらと思ってしまう自分がいた。
アーベルは長嘆し、窓の外に視線をやる。星が瞬く下に灯った人口の明かり。この町には幸福が溢れている。自分だけが取り残されているような錯覚に陥るほど……。
「不幸など、誰にでも訪れる。死のように平等だ」
アーベルの心の闇は深い。誰も彼を理解する者はいない。
14で騎士見習いになってから、彼は人に尽くすことに専念してきた。主の悩みは聞いても、自分の話をするような従者はいない。宮廷で働く者は皆そうだ。アーベルも例外ではない。ただ他と違うのは、アーベルの主がユリアンだったことだ。ユリアンは平等で無垢で真っ直ぐ。彼は自分を愛し信頼を寄せてくれた。それはアーベルの宝だ。
アーベルは今が幸せだと言い切れる。だから、ロザリオの封印を解く決意をしたのだ。
赤い石も鮮やかな銀の十字架。アーベルはこの大切な形見を王宮に持ち帰った。
「へー立派なもんだな」
ミサに参加した時、ヨハンはそれを目敏く見つけて、感心したように呟いた。誰が見ても値打ちものと分かるだろう。派手を好まないアーベルがつけていれば、尚更目立つ。
「母の形見だ」
「あ、お袋さんの? そう言えば、お前の家の話って聞かないな」
「話したことがないからな」
「お前が生活臭しなさ過ぎなんだよ!」
ヨハンはアーベルの背を叩くと、そのまま一緒に王子達のもとへ向かう。彼はアーベルの家のことが気になって仕方がないようだ。どこに住んでいる、母親は美人か、兄弟は、小さい頃からお前はそんなに無愛想なのか。
よく回る舌だと感心しつつ、アーベルはほとんどの回答を一言で済ませていた。
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