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 一度は裏切り者と牢に繋がれた彼を、王子に近づけることを嫌う者もいた。だが、彼の願いを後押ししたのは、意外にもクラウスだった。あれだけ酷い拷問を受け、それでもユリアンへの忠義を貫いて彼を暴漢から奪還した。アーベルこそがユリアンの騎士にふさわしいと、女王に進言したのだ。

「いつぞやの勝負の借りだ。私は口約束でも守る男なのだよ」

 クラウスはしてやったりと言う顔をして、にんまりと笑ったのだった。
 アーベルは剥奪された騎士職を取り戻し、今もユリアンの隣にいる。ただ、さすがにあの小さな部屋はないだろうと、近々ユリアンの部屋の近くに引っ越してくる予定だ。ユリアンはそれが待ち遠しくて仕方がない。
 あの学芸員は、あの後獄中で舌を噛み切り自害した。だが、それが本当に自殺だったのかは分からない。彼が命をかけて公表しようとした歴史の真実は、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。ユダの福音書は暗い倉庫にでもなく、クラウスの下にでもなく、忽然と姿を消したのだ。
 この国の持つ深遠を見た気がして、アーベルは背筋が寒くなる思いだった。

「どうした?」

 物思いに耽っていたアーベルの顔を、ユリアンが覗き込んだ。その緑色の瞳が、たまに不安げに揺れるのを、アーベルは心底愛おしいと思う。だから大丈夫だと言う代わりに、ユリアンの絹のような髪に指を絡め、滑らかな頬に口付ける。
 途端に破顔したユリアンは、アーベルの体を抱き締めた。もうずっと離さない。ユリアンは何度もアーベルに囁いて、アーベルも何度も頷いた。
 体重をかけないように、ユリアンの膝に頬を寄せて、アーベルはそっと息を吐く。

「こうして再び貴方の傍にいられることが夢のようです。ラバランと知った後も、私を傍に置いて頂けるとは……」

 ユリアンは感慨に耽るアーベルの頭をぺしりと叩き、ふんっとふんぞり返って、アーベルの不安を笑った。

「何を言う。お前が何者か分かっていないようだな。私の騎士だぞ。ラバランなんて関係ないと、申したであろう」

「……そのようにお考えになる方が、珍しいのですよ」

 はあ、と呆れたような溜息に、ユリアンは何をと拳を上げる。だが、それを振り下ろす時、指は解かれてアーベルの顎を優しく掴んだ。

「不安があるのなら言ってみろ。腕でも胸でも、いつでも貸す」

 ふわりと微笑んだ顔が眩しく、アーベルは胸をつまらせた。そして、美しい王子の胸に頬をつける。ユリアンが優しく髪を梳いてやれば、ぽつりぽつりと喋り始めた。

「――私は、裏切り者です」

 アーベルの心の闇は深く果てしない。国を捨て、仲間を置き去りにし、自分だけがのうのうと生きている。
 なんて、罪深きことだろう。母は耐え切れなかったのか、体を弱くし病死した。後を追おうと思ったこともあったが、アーベルにはそれができなかった。

「貴方への恋心に、私は負けました……」

 そう呟いて目を伏せたアーベルを、ユリアンは酷く可哀想に思った。憐れで、胸が締め付けられる。なんて愛しいのだろう。
 真面目で口数が少ないのを、それがアーベルの性格だと理解した気になっていた。男爵の子である彼が凄絶な生い立ちを持つなど考えもしなかった。彼は自分と出会った後も、1人で悩み孤独に堪えてきたのだ。
 黒い髪はさらさらと良い感触がする。ユリアンはそれを梳くように、何度もアーベルの頭を撫でた。アーベルが体の力を抜き目を瞑る。鋭い光を宿す瞳が隠れた分、彼の雰囲気が和らいだものに変わった。すっと通った鼻筋に、少し厚い唇。シミのない褐色の肌にかかる黒髪は強くしなやかで、彼をそのまま表したかのような色をしていた。艶やかで、強い。神秘的な夜の色。


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あきゅろす。
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