36
ユリアンはゆっくりと視線をパウロに戻す。彼はじっとこちらを見つめたまま体を斜めにし、剣を持った方の手を後ろに引いた。
「ユダの福音書」
ユリアンの呟きに、ピクリと肩が動いた。信じられない気持ちが強かったが、ユリアンにはそれしか思いつかない。
「それは、ユダの福音書か」
「……そうだ」
パウロは目を細めて、切っ先を上に向ける。月の光を浴びる彼は、恍惚に笑みを浮かべていた。
「オリエンタルから流れ着いたものが、秘密裏にこの場所に収められた。私は何度も女王に進言した。これを解読し、ユダの真実を世界に公表する、それが我らの使命だと。だが、それは聞き入れられなかった……」
彼は唇を歪め、瞳に憎悪を宿す。
「ユダを裏切り者と罵ってきた聖教に対する配慮だと? ふざけたことだ。そんなもののせいで、真実が闇に葬られて良いのか? ユダの声を後世に届けようとした画家や聖職者はどうなる?」
パウロは怒りを思い出したかのように語気を強めた。
「ただの政治の材料にされてしまうなど、私は許さない。お前にはこれの横で死んでもらう。明日の朝に発見されれば、多くの記者がこの事件に飛びつく。そして、お前が胸に抱いていた書簡の謎を、我先にと突き止めようとするだろう……」
彼はユリアンを殺してでも、望を叶えたかった。芸術を愛し、真実を希求し続ける半生を送った彼にとって、この国の出した決断は許せないことだったのだろう。
だが、ユリアンは酷い怒りに肩を震わせた。胸元にある銀のロザリオを握り締める。これを託した、彼のことを思い浮かべた。
「そんな事で、私は宝を失いそうになったのか」
「何だと?」
ユリアンはパウロをねめつけて、声を張り上げた。
「貴様が宝を思うように、私にも、あの娘にも、掛け替えの無いものがあったのだ。それを踏み躙られた……私の怒りが分かるだろう……」
ユリアンは左手でロザリオを取り上げて、ゆっくりと首から外す。
今は無き王朝の秘宝だ。光を吸収し鈍く輝く赤い石を、パウロは食い入るように見つめた。一瞬、時が止まる――
ユリアンはロザリオを天に向かって投げた。何をする気だと、パウロは思わずそれを見上げる。ユリアンは隠し持っていた銃に、素早く手をかけた。
パン――!
ザシュ――!
銃声と肉を切った音が、ガランとした空間に響き渡る。パウロは、わなわなと体を震わせた。
「なんてことを……っ」
ユリアンの放った弾は、彼の体の横を通り過ぎ、壁画の一部へと埋め込まれた。人類の遺産、パウロの宝が……。
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