[携帯モード] [URL送信]
30


「いいえ、いいえ……」

 彼はとても大きな幸福にでもめぐり合ったとでも言うように、目を細めてユリアンの頬に手を伸ばす。

「殿下にお仕えできたことは、アーベルにとって一生で一番の幸運でした。自分の境遇を恨み心は荒むばかりだったあの頃、貴方と一緒にいる時だけが心休まる時間でした。貴方の純粋さに、救われたのです……」

 そしてアーベルは、汚い布の上に乗せていた、シルクのシャツを取り出した。綺麗に畳んで大切にしていた、あのユリアンからの贈り物。

「このような物を頂いて、貴方から信頼されて……私は幸せ者です」

「違う、お前の幸せを、祖国を奪ったのは私の国なのだっ」

 ユリアンは酷い罪悪感に苛まれる。申し訳なかったと、アーベルの手を握り締めた。放浪の民となった彼らは、どんなにか辛い思いだっただろう。
 けれどそれにも、アーベルは首を振った。

「あの時のラバランは酷かった。軍に政権を乗っ取られ、国政は上手くゆかず民は飢えるばかり。このままでは死を待つしかないと、母は私を連れてラバランを出ました。そのロザリオと共に」

 アーベルはユリアンの胸元で輝く銀のロザリオに手を触れた。ユリアンの手がそれを覆うように握りしめる。

「ヒンメルにたどり着いた時には、もうラバランは風前の灯火でした。私達はこの国に縋るしかなかった」

 アーベルが初めて話す自分のこと。聞き逃すまいとアーベルをじっと見つめる。

「国を見捨てた裏切り者よと、故郷では売国奴扱いの私達には、帰る場所が無かった……。この国が無ければ、生きてはいけなかったでしょう」

「だが、お前達の国はっ」

「ええ、ヒンメルに滅ぼされました。多くの民が殺され、家を失くした。けれど、それで解放された者がいるのも事実なのです」

 ユリアンはまじまじとアーベルを見つめた。彼はそっとユリアンの手を解いて、手の届かないところに体を退く。

「どうしようもないことが、この世にはあるのです。私はユリアン様の優しさを愛しています。けれど今は、貴方の身が心配でならない。情けで身を滅ぼすなど、あってはならないことです」

 ユリアンは、アーベルの言っていることがよく分からなかった。手を伸ばすが、指先は宙をかくばかりで、彼の髪の毛一本にだって届かない。

「アーベル……?」

「もう、ここには来ないで下さい。貴方の立場を悪くするだけだ」

「何を」

「私は貴方を護れなかった……どうか、甘い言葉を囁く人間が現れても、心をしっかりとお持ち下さい。まだ、下手人は捕まっておりませんので」

 ユリアンは必死に彼を見た。黒い瞳が何か憂いを含みながら、それでも強い意志を持ってユリアンを見返す。その瞳は、どこかで見たことがあった。

「ならば、お前が盾となって私を護れ。ずっと傍にいると、約束したではないか!」

 子どものように叫べば、アーベルはまた困ったように苦笑するのだ。

「アーベル、傍にいてくれ……!」

「……できません」

「何故だ!?」

 ユリアンの視界が涙で曇る。あとちょっとで手が届きそうなのに、右手はいたずらに宙をかく。

「お前がいないと駄目なんだ……っ。愛している。愛しているんだっ」

 アーベルの瞳が食い入るようにユリアンを見つめる。
 いつもユリアンの我儘を、眉間に皺を寄せながらも許してくれた彼。それが、今は絶対に是とは言わない。

「貴方に出会えて、私はヒンメル人を愛することができた。憎しみを忘れられた……」

 アーベルがまた一歩体を引いた。そして唇を震わせる。

「愛していました。まるで天使のような人だと……今は貴方が私の神なのです」

 生きていることに意味を見出すならば、アーベルはユリアンのために生きていた。誰もがアーベルを蔑んで、利用しようとしてきたが、ユリアンだけは無条件にアーベルに信を置き、愛してくれた。
 無償の愛を、あの小さな手がくれたのだ。


[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!