23
どれくらい時間が経っただろう。恐らく一日も経っていないが、牢獄の中はアーベルの感覚を麻痺させるほど、暗く陰湿な空気を纏っていた。
アーベルは壁に背を預けじっと地面を見る。ラバランと聞いた時のユリアンは、どんな顔をしていたのだろう。怖くて、とてもじゃないが彼の方を見れなかった。
ただ髪が黒いと言うだけで、石を投げられる。寝床を追い出され、常に誰かに命を狙われる。そうして母と一緒に逃げ延びて、貧しいジプシーの中に身を隠した。土で顔を汚し、目が見えないふりをして関所を通ったこともある。物乞いだけでは暮らしていけなかった。どんどん痩せ細るアーベルを連れて、母はスラムの奴隷市場に出かけたのだ。そこで、成金の男爵と知り合い見初められた。容姿に恵まれていたアーベルは、初め他の貴族に売り飛ばされそうになったが、剣の修行をして武勲を立てたいと言い募り、義父を説得した。義父はとても野心家であったから、もしアーベルの剣が立たずとも、そのもの珍しい容姿を使えば、王宮にいる高官や王族に目をかけられるだろうと考えた。彼はアーベルが近衛騎士隊に入れるよう、随分金と権力を使ったようだ。
アーベルは最初から騎士になりたかったわけではない。自分の身を護るため騎士団に入り、そして、父に言われるまま王宮に昇った。母はとても喜んだ。彼女はアーベルを安全な場所に隠したいと思っていたのだ。
騎士になったアーベルに高い理想はなかった。ただ、生きるため、それだけでユリアンに仕えていた。それがいつからか酷く後ろめたくなった。無邪気に自分を信頼する王子に、心惹かれたのはいつからだったか。
「……寒いな」
もしここに蝋燭があれば、白くなった息が見れたことだろう。アーベルは壁に頭をつけ体を弛緩させると、じっと目の前を見つめた。
「私を裏切ったのか」
「ユリアン様……」
アーベルの目の前に、ユリアンがいた。格子越しに、こちらをピタリと見据える緑の瞳が、ランプの光でゆらゆら揺れている。アーベルは鎖を引き摺って前に出た。
「殿下っ、騙すつもりはなかったのです」
ガシャガシャとうるさい音に、ユリアンが不快そうに顔を顰める。美しい緑の瞳が、蔑むようにこちらを見下ろす。彼は一度だって、そんな目でアーベルを見たことはなかったのに。
「見苦しい」
「わ、私は、本当に貴方のことを護りたくて」
「私の母を殺したくて、私に取り入ったのだろう」
「違いますっ」
必死に言い募るが、ユリアンは信じようとはしなかった。そして格子に縋りつくアーベルを避けるように、一歩体を引く。
「汚らわしい……。邪教の血が、聖なるヒンメル国の土を踏むなんて」
アーベルの心臓が凍りつく。
ユリアンは、アーベルの黒い瞳を指差した。
「邪悪な色よ。その目も髪も、肌の色も。全てが悪の色ではないか。どうして今まで、気付けなかったのか」
「……っ」
彼は檻の外からあのロザリオを放る。銀の弧を描き、カンと乾いた音を立て、アーベルの前に落ちた。
「私の騎士は死んだ。もう会うこともあるまい」
驚くアーベルを残し、ユリアンが去っていく。アーベルの心を恐怖が満たし、体は勝手にユリアンを追おうとした。
「殿下、お待ちをっ……ユリアン様!」
格子の向こうに手を伸ばして、喉を枯らして叫ぶも、無常にも扉は閉ざされる。アーベルの世界に、深い闇が訪れた。
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