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19

 心ここにあらずと言った顔をして、ユリアンは出て行った。ヨハンはほっと息を吐いたが、自分の主がこちらをじっと見つめているのに気が付いて、また顔に笑みを浮かべる。

「どうされました、殿下」

「ヨハンは最近仕事が忙しいの?」

「いいえ、何故です」

「……目が疲れてるよ」

 ヨハンはしまったと内心舌打ちし、ベッドの中のジュリオを見下ろした。彼は聡明だ。病弱でなければ、とは、もう思うまい。

「バレましたか。怖い隊長に、女遊びもほどほどにしろ! って、怒られちゃったんです。おかげで、気安く女の子に挨拶もできない」

 本当に参るといったように肩を竦めれば、ジュリオはぷっと吹き出した。

「エドガー隊長、カンカンだったの?」

「そうですよ。目をギラギラさせて、ガオー! って」

「怖い!」

 ジュリオは無邪気に笑って、ヨハンにもっとと話を強請った。ヨハンはにこにこ笑ってそれに応える。この瞬間が、2人はたまらなく好きだった。
 疲れて眠ってしまったジュリオに気付かれぬよう、ヨハンはそっと部屋を抜け出した。向かった先は、城の訓練場だ。一番奥の部屋で、案の定アーベルが稽古をしていた。

 その気迫は近付くのも躊躇われるほどだった。練習用の剣を使っているはずなのに、人に模した丸太が今にもへし折られるのではという勢いで揺れる。だが、ヨハンの目から見るとアーベルの動きは無駄が多いように感じられた。剣の狙いが僅かにそれて、真新しい痕ばかりが増えていく。アーベルらしくないことだ。
 ヨハンが戸口の前に立つと、アーベルの方が気付いてこちらを振り返った。

「よう」

「……どうした」

 ヨハンはアーベルの黒い瞳を見つめ、にかっと笑った。

「ちょっと話があってな。付き合ってくれよ」

「…………」

 アーベルはすぐに制服の上着を着てその上に白いマントを羽織った。普段は流している髪の毛を一本に結ったままの姿で、こちらに歩いてくる。
 こんな時でも真剣を腰から外さないのは、彼が近衛騎士だからという理由だけではない。騎士団の中でもアーベルは特別用心深かった。平時はもちろんだが、酒の席でさえも気を抜いたことは数えるほどしかなかった。
 ヨハンは皮肉げに歪んだ頬を踵を返すことで隠し、一番広い部屋にアーベルを案内した。そこは騎士の称号を授かる時にも使われる大広間だ。天井はドームになり、小窓から日が零れ落ちる。壁に掛けられた巨大絵画は、英雄が悪魔を屠る瞬間が描かれている。断末魔の声を上げるように大きく口を開き、醜く顔を歪める悪魔。瞳を爛々と輝かせ両刃の剣を真紅に染め上げる英雄。彼らの怒号が聞こえてきそうだ。
 その反対側の壁には、フレスコ画が描かれていた。ヨハンの背丈くらいの大きさは、この城にある絵画の中では小さい方だ。絵には兵士と聖職者がひしめき合うように描かれ、中央にいる口付けを交わす2人の男を取り囲んでいる。1人は気品ある顔立ちをし、見事な顎鬚を蓄えた長身痩躯の美丈夫。もう1人は小柄で、下膨れた顔をした男だ。その男は自分よりも背の高い相手の肩に手を回し唇を突き出している。美丈夫はそれをじっと見つめているのだ。

「これは、ユダの接吻っていうそうだ」

「知っている」

 振り返ると、少し離れた位置に立ったアーベルが、静かな瞳でこちらを見つめていた。ヨハンは笑みを絶やさぬまま話しかける。

「裏切り者ユダは、敵に誰が主かを伝えるため、その唇にキスをした。なんだかロマンチックだよな。指で示せば良いのに、わざわざ接吻だぜ?」

「それは神話だろ……」

 御伽噺とは、ロマンチックなものだろう。それでいて残酷。主を敵に売ったユダの最後を、アーベルは知っているだろうか。
 ヨハンは顔から笑みを消し去った。そして、すらりと剣を引き抜く。

「何のつもりだ……」

 アーベルも、剣の柄に手をかける。だが、まだ躊躇っているようだ。ヨハンは切っ先をピタリとアーベルに向けて、重い口を開く。

「気付いているんだろう? もう……お終いだ」

 アーベルが息を呑む気配がした。けれどすぐに動揺を収め、剣を抜く。

「ヨハン、お前……」

 苦しげな呟きに、ヨハンは答えをやらなかった。ただその剣を、友と呼んだ相手へと振りかざした。


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あきゅろす。
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