16
アーベルは貧しく、母は苦労ばかりしてきた。だからきっと、彼らと分かり合うことはない。ユリアンは寒さで凍えることも、飢えることも、暴力に怯えることも知らないのだ。それは彼が悪いのではない。人は生まれる家を選べないのだから。
ただ自分は生活のため、命のため、彼に仕えるだけだ……。そんなことを思いながら、日々を過ごす、はずだった。
「アーベル、こんなところにいたのか!」
「殿下……」
息を切らせて走ってきて、ユリアンは小さな手でアーベルの袖を引っ張った。
「あっちに大きな蛙がいるんだ。早く捕ってくれ!」
「殿下、ご自分でなさらないのですか?」
「私にやれと言うのか!」
ユリアンはううっと気持ちの悪そうな顔をして、つぶらな瞳でアーベルを見上げた。気持ちは悪いが蛙は欲しい。触りたくはないが、従者は自分でやれと言う。小さい子どもの葛藤にアーベルは苦笑して、そっと手を握り返した。ご機嫌をとるのも悪くない、そう思ったのだ。
「では一緒に行きましょう」
そう優しく言ったのだが、ユリアンは顔を真っ赤にしてその手を振り払った。
「いい! 自分で捕るわ、蛙如き!」
アーベルにバカにされたと思ったのだろう。肩を怒らせてまた走って行くから、アーベルは慌ててその後を追った。そして、いぼのついた巨大な蛙を、青い顔をしながら捕まえよとするユリアンに思わず噴出する。
「この、逃げるな! くそ!」
ユリアンはびくつきながらも、格闘の末に巨大蛙を我が物とした。
「どうだ、凄いだろう!」
ユリアンはバケツを持って意気揚々とアーベルを見上げる。まるで見返してやったとばかりの得意顔。彼は蛙も捕れないのかとアーベルに思われたことが気に入らなかったらしい。
アーベルは「参りました、殿下はお強いですね」と呟いた。これで気が済んだだろう。案の定、ユリアンはとても嬉しそうに笑った。アーベルを負かした気にでもなったのだろう。王子といってもまだ子どもだなと、アーベルは内心苦笑した。だが、次に続くユリアンの言葉に、アーベルは息を呑んだ。
「そうだろう。私が弱虫では、従者のお前がバカにされるからな」
ユリアンはアーベルの手を握り締めて、誇らしげに笑ったのだ。アーベルは目を逸らせなくなった。そして、酷い罪悪感に襲われた。
ユリアンは聡明利発、天真爛漫で、周囲の人間に愛されていた。ユリアンは無邪気に人を愛することを知っている。それは使用人に対してもそうで、アーベルなどは、異国の菓子を何度も贈られた。
「お前は私の騎士だから、私を頼らなければならないんだ。だから私は立派な人間にならねばならん」
ユリアンはアーベルに頼られる人間になりたいと言う。夜の闇が怖くてトイレに行けず泣き出したりするのにだ。それでも、アーベルの瞳は美しいと言って、じっと見つめてくる。小さかった手がアーベルと同じくらいの大きさになり、見上げるばかりの身長差もあと少しでなくなろうかという時になっても、彼の瞳は相変わらずアーベルを真っ直ぐに見つめるのだ。
「愛しい我が騎士。お前は私のものだから、私を護り護られなければならない」
命令口調も相変わらず。ただ低く甘い声でアーベルを呼ぶようになった。アーベルはいつしか彼に頼られることを誇りに思い、この敵だらけの王宮で唯一の安らぎを得た気になった。そしていつからか、ユリアンのことを好きになっていた。
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