14
ユリアンの機嫌はすこぶる悪い。腕を怪我しては仕事もできぬと公務が減ったのは良かった。けれどだからと言って、何故アーベルとの逢瀬も止められなければならないのかと、ベッドの中で喚き散らす様は我慢が利かない子どものようで、アーベルはほとほと呆れてしまう。
「殿下、安静にと医者も言っていたでしょう」
「あんなヤブ医者の言うことなんて、気にしていられるか。私が大丈夫と言ったら大丈夫なのだ!」
大丈夫な方の手で引き寄せようとするのを、アーベルはひらりとかわした。
「大人しく今日はお休み下さい。アーベルは逃げたり致しませんので」
ちゅっと額にキスをして毛布をかけてやると、ユリアンが眉根を寄せてアーベルを見た。余計にしたくなったのだろう。けれど、アーベルは素知らぬ顔をする。
「今日は、心臓が縮み上がる一日でした」
「大袈裟な奴だ」
「……私は、騎士失格でございます」
包帯の巻かれた左腕に、アーベルは頬を寄せた。ユリアンは何も言わず、黒い髪を優しく撫でる。
「ふふ、心配されるのは存外気持ちの良いものだな。たまには良いかもな、命を狙われるというのも」
「殿下! 私はそのような冗談が好きではありません」
顔を上げたアーベルが、本当に不安そうに瞳を揺らしたものだから、ユリアンは開きかけた口をまた閉じた。
「む……その、あれだ。すまないな、心配をかけて」
「いえ、私の注意が足りませんでした」
「仕方がないだろう。まさか花瓶が破裂するとは誰も思うまい」
アーベルが首を振る。アンナは素人のようだったが、鍛えられた暗殺者は違う。女だろうが子どもだろうが、狙った獲物を仕留め損ねることなどないだろう。今回は運が良かっただけだ。ああ、自分はなんということをしてしまったんだ。
「大丈夫だ、アーベル。大丈夫」
髪を梳きながら、ユリアンは何かの呪文のように大丈夫を繰り返した。そして、愛おしそうにアーベルの長い髪に口付ける。掬い上げられた黒い髪がさらさらと流れて、白いシーツの上に落ちた。
アーベルは心地良さに目を閉じる。その時ふと、あのユダの顔を思い出した。裏切り者と呼ばれたユダは、死んだ後は主の下へ行けたのだろうか。
「アーベル。博物館での話を覚えているか?」
ちょうど同じことを考えていたアーベルは、ドキリとしてユリアンを見上げた。
「見る者の立場によって、絵の解釈が変わるのだろう?」
「ええ……」
「ならば、私が命を狙われることも仕方のないことだ。この国には、敵が多いからな」
アーベルが目を見開く。ユリアンは、何かを悟ったように穏やかな顔をしていた。
「アンナという娘も、私達のせいで苦労してきたのかもしれない。この国は戦が好きだからな。その分国民に負担をかけ、貧しい者も多くいる。けれど、だからこそ私の祖先は戦ってきたのだろう。貧しい民を救うため、他の地を奪ってきたのだろう。私も、その想いが分かる気がする」
ユリアンはそう言うと、枕の下から護身用の拳銃を取り出した。銃の歴史は浅く実用化されてまだ数年しか経っていない。それでも新しいもの好きのユリアンは宮殿直轄の工房に自分用の拳銃を作らせた。彼はこれを気に入り外出の際は常に持ち歩いていた。
「みすみすやられはしない」
拳銃の黒い胴を撫でながらユリアンがアーベルに笑いかける。
「私もフォルモンド家の王子だ。国のため母のため、国政に力を注がなければならない」
アーベルは、ユリアンに孤独な王家の血を見た気がした。大国とは周りから羨望を集める一方で、誰の手も貸し与えられることはない。誰かを助けることはあっても、誰かに甘えることはできない。ヒンメルは大国であるがゆえ、他国との軋轢も生じやすいのだ。
胸がぎりぎりと痛むのは、きっと大きな葛藤のせいだ。アーベルの母もまた、戦争で不幸になった人間の1人だった。弱者はいつも足蹴にされる。訳も分からないまま、飢えや暴力に晒され、人生を翻弄される。
王家の人間がその肩に大きな重責を負い、逃れられない運命と戦うのと、どちらが苦しいだろう。
「殿下……」
アーベルはそっと、懐からあのロザリオを取り出した。銀の鎖がシャラリと揺れる。それをユリアンの首に下げて、彼の手を握り締めた。
「これは?」
珍しい赤い石に、ユリアンも目を引かれているのが分かる。
「肌身離さずお持ちになって下さい。この石には不思議な力が宿っております。きっと貴方のお役に立つでしょう」
アーベルにはこれしかやれるものがなかった。けれど、何があっても自分だけは、ずっと貴方を護ると、そう伝えたかった。
ユリアンは嬉しそうに笑って、アーベルの顎をとる。
「貰ってやろう。お前の心ごと、私の物だから」
長い睫が伏せられ、優しい口付けが落ちてくる。アーベルも目を瞑り、この温もりを感じられる幸せを噛み締めていた。
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