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人形の夢と目醒め7

 ◆

 
「――時はきた」
 
 ネオは両腕を大きく広げ、闇に包まれた空を仰いだ。
 世界が軋む音がする。大いなる罪が封印を破壊し、かろうじて保たれていた安定は一気に覆る。
 すべて、計画通り。
 ネオの言葉をうけて、ミリカは円陣の中心――ディルの前に立つ。そしてゆっくりと、どこか神妙に伸ばされたその腕がディルの額へと触れた。大きく開かれた彼女の掌がディルの視界を塞ぐ。外界の景色が遮断され、暗闇の世界へと落とす。 
 
「神の定めし戒めの鎖よ。月を喰らいし猛牙の力でもって今、打ち砕かん。祈りには災厄を、誓いには偽り、福音は悪しき言伝をもって。虚構の神は潰え、全てを無に帰す風を解き放たん」
 
 ミリカの詠唱に呼応するように、足下に広がる術式が妖しげな光を放った。
 ぴしり、何かがひび割れていく。乾いた崩壊の音。光が強くなるほどに、その亀裂は次第に大きく、世界を蝕んでゆく。
 覆い隠されたディルの視界に、まばゆい稲妻が走った。
 その稲妻は眼窩から脳を貫き、全身を駆けめぐる。
 びくん、ディルの身体が大きく跳ねた。

「あ、ァ……」

 ほとばしる衝撃は、身体の内側から全てを貪り喰らい尽くしていく。巡る血液を沸騰させ、内蔵をかき乱す。肉体も、記憶も、精神も。全てが混沌の渦に押し流される。覆され、打ち壊され、ぐちゃぐちゃに溶かされていく。
 ディルの瞳が極限にまで見開かれる。
 ぶつかり合う鎖の音をかき消す轟音が、鼓膜を震わせた。それが自身の喉から生まれた絶叫だと気づくよりも先に、身を引き裂く激しい衝撃が大きな波となって押し寄せてくる。理解はとうてい追いつかず、真っ白になった思考に、自らの叫びがこだまする。

「あああああああああ……!」

 訳も分からず、ディルは絶叫していた。
 すべてが塗り替えられていく。
 白く、白く。在るべき虚無に。

 走馬燈のようによぎる記憶の断片。
 笑いかける優しい声。
 駆け抜ける稲妻は、それらを飲み込んで、粉々にしていく。
 全て朽ちていく。崩れ落ち、砂塵となって。
 こちらに向いて笑いかける、あたたかな笑顔。
 あぁ、あれは一体。誰だっただろう。
 消える、消える。 

 轟、ディルの叫びに呼応するように巨大な風が渦を巻いて発現する。  

「きゃ……」

 ミリカの身体が吹き飛ばされ、そのまま壁へと叩きつけられる。
 ディルを中心にして巻き起こった風は、周囲のものを次々に巻き込んで、爆発的に勢力を増してゆく。砂の城が崩れるように、塔の外壁がぼろぼろと剥がれ、空へと解き放たれてゆく。
 混濁に呑まれたディルの意識は、既に自らが放つ力を抑える術を失っていた。解き放たれた猛獣は全てを喰らい尽くすまで止まる事を知らない。制御を失った膨大な力が、渦を巻きながら世界へと広がっていく。
 その風は破滅を呼ぶ死の嵐だった。空を喰らい、大地を抉り、海を濁らせ、命を蹂躙していく。雲も、星も、全て消えた空には閑散とした闇が果てなく広がり。鬱蒼と世界を覆う。

「ふははは……予想以上だ。数十年の足踏みを余儀なくされたが、神への復讐の幕開けには最高の光景だ」

 楽しげに笑う笑みは、まるで喜劇を目の当たりにした子供のように純粋なもの。ネオは満足げに目を細めて、吹き荒れる風の中で乱れた黒髪も気にせずに、揺れる世界を眺めていた。
 吹きすさぶ風の音。空を覆う強大な闇。
 悲鳴、嗚咽。恐怖に慄き為す術もなく逃げまどう生命の叫び。
 それらを全身で感じて、ネオの瞳は嬉々と煌めく。
 すべての光を呑み込む漆黒の瞳は、ようやく辿り着いた長き旅路の帰結の歓喜に打ち震えていた。

「さあ、壊せ、壊せ。全てを破壊し、無に帰すのだ」

 少年の叫び声は、うなる風の音にかき消されていく。
 暗闇の中に投げ出された意識は、そのままゆっくりと墜ちてゆく。
 光も、ぬくもりもいっさい届かない――虚無という名の深淵へ。


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