人形の夢と目醒め1
◆
そよぐ風が頬をなぜ、ぼんやりとしていた意識を引き戻す。
どれくらいの時間がたっただろうか。
吹き抜けになった天空に漆黒の夜空が広がっている。消え入りそうな月のか細い光が、雲の切れ間からかろうじて見えた。
ここは塔の最上階。ネオによって真実を告げられたあと、ディルは暗い檻の牢から連れ出されたのだった。
その両手両足には鋼鉄の枷が填められしっかりと拘束されている。固い石畳の地面に両膝を付いた彼の周囲を囲うのは、血のように赤い液体で描かれた円陣。大の大人が両腕を広げるよりも一回りほど大きな円の中に、幾重の記号が複雑に絡み合っている。おそらくこれが呪いを解くための術式なのだろう。
これから自分の身に何が起きるのか、考えずとも理解できる。
今更、抵抗の意思は存在しなかった。無論、抵抗するだけの力も、手段も存在しない。
手足を縛る鋼鉄は痛みを伴うほどに冷たく、指先のひとつも動かす気を失うほどの倦怠感は変わらず重くのし掛かる。そして何よりも、全ての意味を無に思わせる圧倒的な虚脱感。己の意志も、力も、すべて。あの男の前では虚無に等しい。
「もうすぐ時間ね。気分はどうかしら」
円陣を形成する最期の文字列を描き終えたミリカが長い髪をかきあげた。
空を覆う闇に月は完全に呑み込まれようとしていた。天頂に達した月明かりは金糸のように細く、余りにも弱々しい。
「――なんて、人成らざる化け物に感情を問うのは間違いかしらね?」
皮肉を含ませた口元を侮蔑の感情に歪ませるミリカ。ディルは視線を向けることも、声を発する事もせず沈黙を返す。
反応のない人形を気にとめる様子もなく、ミリカは一人会話を続ける。
「今のうちに、仲間たちとの甘い思い出を噛みしめておけばいいわ。月が完全に消えると共に封印を壊す。そうしたら、夢の時間はお仕舞い。全ての記憶、感情は消去されて、現実に目覚めるのよ。せいぜい無意味な走馬燈を楽しんでいなさい」
その声を耳障りに感じながら、ディルは思う。
彼女が何を言ったところで、沈黙に凪いだ感情は揺らいだりしない。
――そう、はじめから全て意味のないことだったのだ。
空っぽの存在は、なにを注いでも空っぽのまま。何かを得ることも失うこともない。
すべて、淡い夢がみせた幻想に狂わされただけなのだ。
それだけのこと――
「最期に、いいことを教えてあげる」
滑稽でたまらない、そんな感情があふれたような声でミリカは囁く。
「愚かにも、あなたの仲間がすぐ側まで来ているわ。あなたを助けるために」
その言葉に、ディルは伏せていた瞳をミリカへと向ける。
「あら、まだそんな顔が出来るのね」
そうして見合った瞳が、わざとらしく見開く。
「けれど、残念。全て無駄なこと。大切なあなたの仲間たちは、ここにたどり着くことはできない」
くすくす、ミリカの乾いた声が嘲りの吐息を響かせる。
「希望を抱くだけ無駄よ。侵入者の排除にニナを向かわせたわ。ただの人間がネオ様の生み出した彼女に勝つことなんて不可能。皆彼女に殺されて、無様にその命を投げ捨てるだけ。本当に愚か……、何? 嫌な眼ね」
怪訝に眉をひそめ、ミリカは不快感を露わにする。
「本当、歪で不気味な人形だわ。人形は人形らしく、吊り下がった糸に身を預けていればいいのに」
凪いでいたはずの感情の水面に、波紋が広がっていく。
そんなものに意味などないと。導き出した結論を裏切って、心臓が苦しさを訴える。
今更、ディルは気付いてしまった。
この苦しみが、彼の感情そのものなのだと。
すべてを失うことが、こんなにも恐ろしいということを。
そう感じる心が、確かにここに存在していたのだ。
「まあいいわ、それもすべて終わりを迎えるのだから」
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