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暁の鐘なりて11

 ――恐れている。心から。俺が、他の『何か』という存在を。

 こんなことはいままで有り得なかった。
 こんな、戦うことすら畏れるような恐怖を自分に抱かせたものは未だかつて存在していなかったというのに。

 ――なんだ? こいつは。

 そこに立つだけで、喉元に鎌をあてがわれているような気分だった。
 はじめて対峙するはずの存在。しかし、何故だろうか。目の前に降り立ったその瞬間から、己のすべてが彼へ抗うことを拒んでいた。逆らうことのできない絶対的存在として、はじめからすべて組み込まれていたかのように。

 適わない。戦ってはならない。絶対に。

「……ネ……オ……」

 男の腕のなかで、ニナが小さく声を上げた。
 肉体の損傷は著しいものの、命の要であるコアが無事だったことで崩壊寸前まで追いつめたはずの彼女の身体はゆるやかに再生をはじめている。
 ネオ。それは男の名だろうか。呼ばれた男はやさしい笑みをニナへ向けた。

「済まないね。ニナ。よく頑張ってくれた」

 金の髪を優しく撫でられて、ニナは浅い呼吸をしながら目を細めた。

「安心して欲しい。彼は、私がちゃんと連れ帰るから」

 男の眼差しは再びディルへと。

「役目を忘れた愚か者には、きちんと灸を据えなくてはね」

 ネオはにこやかに目を細める。
 すると、彼の背面から無数の闇が触手のように飛び出し現れる。触手の先端部分は蛇の頭部のかたちを無し、長く伸びた細い舌をちろちろと覗かせた。
 蛇の数は八頭。前触れなく、蛇は男の元から解き放たれる。大きく開いた口内で尖る牙は、一斉にディルへと。

「……くっ」

 恐怖に飲まれている場合ではない。ぎこちない身体を動かして、迫る猛牙をすんでで避ける。しかし、敵の数は八。一頭を避けても二頭、三頭次々に襲い来る。蛇といっても、その威力は艦船をつらぬく砲撃の如く。避けた攻撃が降り注いだ地面には大きな穴が残る。
 避けてばかりでは埒があかない。風の刃で、ディルは蛇の頭を切り落とす。しかし、闇で形作られた蛇に生命はない。すぐに元のかたちを成し、獲物へと牙を突き立てる。

「ぐ、あっ」

 一頭の蛇がディルの肩を抉る。牙は薄い身体をたやすく貫通し、その自由を奪う。その隙を他の蛇も見逃さない。自由を失ったディルの腕を、脚を、腹を、それぞれ捕らえて牙を突き立てる。

「……っ」
 
 長い蛇の胴体がディルの身体を絡め取る。きつく巻き付いた触手は抵抗の余地も与えず。為すすべのなくなった彼は、地に組み敷かれる。
 叩きつけられた衝撃が全身を巡る。声にならない呻きが息とともに吐き出された。固く冷たい地面に身体の熱が奪われてゆく。

「抵抗はしない方がよい。すればするほど、影は深くお前を飲み込もうとする」

 その言葉の通り、抵抗しようともがくほどに、突き立てられた牙は深く食い込んでいく。ぎりぎりと、締め付けられた手足が軋むと同時にその感覚が麻痺していく。
 ディルに為す術は残されていなかった。されど瞳だけは抵抗の意志で男を睨んでいた。
 そんなものに意味はない。そう言い放つ代わりに、蛇はディルの気道を塞ぐように締め付ける力を増す。

「……!」

 息ができない苦しさに、ただただもがくことしかできない。そんな様子を高みから見下ろすネオの悠々とした表情がディルの視界から次第に掠れていく。意識が遠のき、ぷつんとその糸が切れるそのぎりぎりで、蛇の拘束が解かれる。
 突然身体が解放され、自由になった気道に一気に空気が入り込み、ディルはげほげほとせき込んだ。

「……の、野……郎!」

 遠ざかっていた意識がゆっくりと鮮明になってゆく。息苦しさを振り切って、ディルは再びネオへと飛びかかる。
 それさえも彼の手の内であるかのような、己の意志さえも玩具にされている、そんな恐怖を憤りに代えて。重く自らを縛る恐れを振り払い、否定するために。ディルは怯むことはできなかった。
 その特攻を前にして、見据えた標的の瞳の深淵がわずかに揺らいだ。

『∀воЯτ』

 その穏やかな揺らぎは、やがて笑みへと形を変えた。
 ――そうだよ、その通りだ。お前の予感はすべて正しい。すべては私の掌の上。お前は踊る駒にすぎない。盤上の駒は、やがては主の元へ帰るのだ。

 小さく開かれたネオの唇が、聞き慣れない言語を紡いだ。
 それが、意識が途切れる前のディルの最後の記憶となった。




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あきゅろす。
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