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暁の鐘なりて10

 風の音がごう、と耳をかすめた。
 刃が突き立てられるキィンという音が、風が去り訪れた静寂のなかで共鳴する。


 目の前に広がる、闇。

 
「――!」

 ぞくり。背筋を凍るような感覚がはしる。同時に額から汗が伝う。心臓を鷲掴みにされたような悪寒を覚えるより速く、反射的にディルの身体は後方へと飛んでいた。 
 その刹那に、闇はばっくりと開かれた猛獣の口腔に形を変え、跳びずさったディルへとその牙を突き立てたのだ。間一髪でそれを避けると、着地点で腰を低く保ち追撃に備える。

 ――なんだ?

 頬を伝う。額から汗が流れ落ち、彼の輪郭を撫でる軌跡を描いた後に大地へと吸い込まれていく。
 今までとは明らかに異質。得体の知れない何かが、ニナを守ったのだ。心臓が高鳴る。その音が自分の耳にまで伝わるようだった。鼓動を速めるこの感覚もまた、いままで感じたことのないもの。昂揚でも、焦燥でも、困惑でもない。

 注意深く、ディルは目の前に現れた闇を見つめた。
 広がる深淵はどこまでも深く、底なしの沼のよう。引きずり込まれたら、二度と帰ってはこられないような。得体の知れない気味の悪さを感じる。

 何処からか、声が響いた。

「……そうだね。これくらい簡単にかわしてくれなくては、意味がない」

 虚空にぽつりと水滴を垂らしたような、そんな声だった。小さく水面を揺らしたそれは、次第に大きく広がり、ついには水面全体を揺らす波紋となる。波紋は大きな波となり、波はすべてを呑み込んでゆく。
 
 手にした槍を力強く握りしめる。その手のひらにも汗が滲む。 
 太陽が影を溶かすように、現れた闇は次第にその色を薄めてゆく。やがては霧がはれていくように跡形もなく消えていった。

 闇が晴れ、しかしそこに現れたのはより深い漆黒。
 その黒は人の姿をしていた。人の形をとってはいるものの、纏いし空気が人のそれと遙かにかけ離れていた。けして触れることのできない。掌握することが叶わない。そこにあるのは、深淵。
 夜の空を型に流したような漆黒の髪がさらりと揺れた。長く伸ばされた黒髪は非常灯の放つわずかな光すら呑み込んで、星ひとつ輝くことをゆるさない。身に纏う衣服もまた真っ黒なローブ。永久の闇がそこに現れたようだった。闇の中で青白く光る肌。その輪郭は非常に整った形をしていて。長く伸ばされた髪に縁取られたそれは性別を感じさせない。陶器で作られた人形のようにも思えた。
 死神、その言葉がディルの脳裏に過ぎった。死にゆくものを連れる闇を抱く、冥界の使者。昔、誰かが語ったおとぎ話の中にそんな存在が記されていたように思う。途端に、背筋を舐めるような悪寒が走った。

 どくん、どくんと心臓が高鳴る。

 身体が思うように動かない。目の前の存在にすべてを掌握されている。そんな嫌な感覚を覚える。
 得体の知れないなにか。はじめて対峙するそれに、あらがうことのできない圧倒的な力を感じた。

 死神の口が静かに開かれる。

「ニナを相手に、ずいぶんと手間取っていたのは期待はずれだが。まあ、それ程まで聖女の呪縛が深いということか。……邪魔をしてくれる」

 その腕にニナを優しく抱き、死神は男性の低い声で語った。何を語っているのか。こちらに向けて語っているようで、まったく別の誰かに向けているその言葉を、ディルは呆然と彼を見上げながらどこか遠くの出来事のように聞いていた。
 ふと、こちらを見やる深淵がはっきりとディルの双眼をとらえた。心臓を捕まれるような気持ち悪さが、一気に全身を支配する。まとわりつく触手のように、ぬるりと、指先から足の先までディルのすべてを絡め取る。
 
「……ッ」

 衝動的にその場から逃げ去りたい、と感じた。
 本能が警告をならしている。
 この男の存在は、危険であると。
 ディルという人間、そのすべてを揺るがし、崩壊させる。それをいともたやすく行いうる存在、それが目の前のこの男だ。誰に言われるでもない。ディルの本能が、彼を恐れていた。
 そう、今ディルを支配している感情は他の何でもない、純粋なる恐怖なのだ。



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